30話:ヒミツの有限

 夕暮れの帰り道は、まだ夏の気配があった。学校が終わってから一時間ほど時間が経ったというのにまだ日は落ちていないし、秋の気配はまだ感じ取ることが出来ない。どうせなら早く涼しくなればいいのに、いつまでも夏が入り浸っているようなこの感覚が、僕は少々苦手だった。
 通り過ぎていく人々の声や雑音は、僕の耳には入らない。イヤホンをしているから当然といえば当然だが、味気なく日々が過ぎていくことの象徴のような気がしてならなかった。そしてそれは間違ってはいないのだろう。一緒に帰るような人物がいるのなら別にイヤホンをする必要もないだろうし、もしかすると音楽プレイヤーなんてものは持ち歩いていないかもしれない。元々僕はそれを望んでいたし、今でもそれで良いと確かに思っている。しかしどうにも、今の僕は中途半端だ。
 最初は橋下さんに連れられて嫌々図書室に行っていたのに、いつからかそうではなく、自ら足を運ぶことが増えた。一体いつからそうなってしまったのかという明確な線引きは、恐らくないだろう。それくらい、ゆっくり浸透してしまっていたのだ。
 その過程のことなのか、それとも浸透しきってしまった後のことなのか、宇栄原さんに勉強を教わるという挙行が起きた。何故そんなことになったのかとしらばっくれることが出来ればよかったのかもしれないが、その浸透してしまった日常に一石投じたのは、紛れもなく僕自身であることは紛れもない事実だ。

(……何やってるんだろう)

 夏休みが間に入ったからなのか、それとも何か別の要因があったのか、少々冷静になりすぎてしまっているというのはどこかで理解はしていた。しかしだからといって、それを止められる術があるわけでもなく、一気に感情の波が消え途端に足の動きが止まった。まるで最初からそうであったかのような錯覚さえ覚えたが、そこに特別疑問を抱くことはなかった。
 ……どうにも嫌な気持ちが、沸々と頭を飽和して止まらない。
 自分の特殊な状況にかまけて、僕はあの人たちを利用していたのではないだろうか? 否、紛れもなくしていたのだろう。そうじゃなければ、僕はあの時勉強を教えてくれだなんて言わなかったし、噂について聞かれることだってなかったはずだ。
 足を止めると、ズボンのポケットから布ではないものが当たってくるのがよく分かる。普段はそれに触れることはないのに、思わず指先を入れそれを確認してしまう。恐らくはポケットの中で擦れている音がしているのだろうが、イヤホン越しではその音は入ってはこない。紙切れと呼ぶには立派な紙質のそれに書いてある文字を、僕は淡々と口にした。

「村田さん……」

 入っているのは、村田さんの名刺だ。
 どうしてわざわざ制服のズボンのポケットに入れているのかと聞かれたら、答えるのは相当難しい。単純に村田さんが警察だから何かあった時のためであるというのが理由だとしても、別にポケットに入れておく必要はないはずである。

(今更連絡しても……)

 別に事件も事故も起きていないのに、この名刺に載っている番号にかけるというのは中々に胆力が必要である。その証拠というわけではないが、高校生活が始まってからというもの、村田さんにはまだ一度も会っていない。勿論、警察になんて会わない方がいいというのはその通りなのだが……。

(……なんか、嫌だな)

 流されているのではなく、全ては自分の行動に所以しているということに気づいてしまうと、そこから落ちていくのは比較的早かった。
 今の僕には、音楽プレーヤーから流れている曲も聞こえていない。
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