30話:ヒミツの有限

 授業が終わりを告げるチャイムが鳴り響くと同時に、僕はすぐに机に広がっているノートや筆記道具を片付けた。教室に長居する理由は最初からないし別に当然の行為だが、問題はその後のことである。しかし僕の中では、どうするかなんていうのは既に決まっているも同然だった。
 どういうわけか、僕はまた一人の放課後の時間が続いた。と言っても、授業が終わればすぐに教室を出て家に帰っているだけなのだが、その時間がどうも、ここ最近の僕にとって居心地がよかったのである。今日もまた、特に意味もなくただ学校に行くだけで一日が終わろうとしていた。
 そもそも、これまでがおかしかったのだ。用もないのに空気に流されて図書室に足を運んでいたのが間違いだったのである。それが無くなり、至極当然な流れが生まれただけに過ぎないだろう。それ以上のことは、元から望んでいない。そう、望んでいなかったのだ。

「相谷くんいる!?」

 後ろから、聞き覚えのある声がする。その声に僕は特別驚きはしなかった。振り向かなくても誰が僕のことを呼んだのかはすぐに分かったが、条件反射と言えばいいのか、気付けば既に後ろを振り向いていた。

「ま、間に合った……」

 息を切らしながら突如教室に現れたのは、紛れもなく橋下さんそのものだった。

「な、なんですか……?」
「なんですかっていうか……いや疲れた……」

 恐らく、橋下さんは本当に急いで僕の教室にまで来たのだろう。二階から三階にまで上がってきたのだから、当然といえば当然かも知れないが、それにしてはかなり大げさに息を切らしていた。そのお陰で、橋下さんが再び声を発するのには僅かに時間が必要だった。

「最近顔見ないから、昨日も教室来たんだけどその時にはもう居なくてさ。だから今日は昨日よりも急いで来たんだよね」

 なんのお構いなしに笑い向けてくるその人が、僕はやはり苦手だったのかもしれない。わざわざ体力を使ってまで僕のもとに訪れる理由が、どんなに考えてもよく分からなかったのだ。

「何かあったの?」
「そういうわけじゃないですけど……」

 恐らく深い意味はないのだろう。純粋に、そして単純に、来ないのには何か理由があるんじゃないのかという確認だったはずだ。

「少し、昔のことを思い出しただけです」
「昔のこと……?」

 こんな質問、適当にあしらうか答えないなどとすればよかったのに、僕はそれをしなかった。純粋な眼差しを前に適当に言ってしまうのは、少し憚られるものがあったのだ。
 橋下さんは、僕の言葉に軒並み疑問符をつけた。橋下さんにとっては分からないことだらけなのだろうからそれはそうなのだろうが、言ってしまえば、正直僕にもよく分からないのである。

「今日も来ないの?」

 こうして、橋下さんがわざわざ僕の教室に足を運んでくる理由も分からない。

「……行っても、しょうがないじゃないですか」

 否、分かりたくなかったのだ。

「どうして……?」

 こんな気の落ちた橋下さんの声を聞くのは、もしかしたらはじめてだったかも知れない。

「し、失礼しますっ……!」

 それに気づくよりも前に、僕は机の上に置かれっぱなしの荷物を慌てて手に取り、それ以上橋下さんのことを見ることもせず、すぐさま席を離れた。そんなことをしても追いかけられてしまうのではないかという気がしたが、それは行きすぎた心配だったようである。すぐに下駄箱まではたどり着いたのだ。

(あの人、なんで僕のこと……)

 まるで悪いことでもしているかのような居心地の悪さと、心臓の動く早さが比例しているようだった。
 意図していなくても浮かんでしまう、さっきの橋下さんの表情を振り切らんとばかりに、僕は頭を振った。周りのことなんて気にすることはなく、そのまま自分の靴が入っている場所まで向かい、さっさと靴を履き替えて校舎を出た。その間、僕は後ろを振り向くことはしない。なるべく無駄な行動はせず、さっさと学校を出てしまいたかったのだ。

(……もしかしたら、変なこと言ったかも)

 足早に校門を出てから、ほんの少し落ち着きを取り戻しつつあったのだろう。少々冷静さを取り戻したお陰で生まれた感情は、ほんの少しの後悔だった。口から出てしまったことはもうどうにもならないが、あれではまるで本当は構って欲しい人みたいである。
 同じ制服を着ている人は既にそう多くなく、周りを見た範囲では両手で数えても指が余るくらいだろう。

「――待って!」校門を出て数分も経っていないくらいだろうか? 誰かが、声を上げているのがよく耳に入った。その声が少しした後、僕の左腕が捕まった。学校を出て初めて、僕は後ろを振り向いたのである。

「置いてかないで」

 この時の橋下さんはやけに真剣で、まるで僕が本当に橋下さんを置いて行ってしまっていたかのような、そんな感覚に陥った。あながち間違いではないと思うのだが、それよりも今までとどこか様子の違う橋下さんに、僕はおもわず首を傾げていた。

「あーいや、うん……なんて言うか……」

//「オレはね、本当は相谷くんがどう思ってるのか聞きたいし、どうして来なくなったのかも知りたいんだ」橋下視点地の文

 何かを言いたげに、しかし出来れば何も言いたくないというような、中途半端に言葉を濁しながら、橋下さんは続く言葉を探しているらしい。

「……きっと、これがオレじゃなくて先輩達だったら逃げてないんだよね」

 その言葉は、どういうわけか清々しいくらいに僕の耳に入っていった。

「そ、そんなこと……」
「いいのいいの、そういうのが聞きたいんじゃなくてさ」

 僕が何かを言おうとすると、橋下さんはすぐさま言葉を被せていく。一体何がこの人をそうさせているのか、僕には全く分からない。

「やっぱり、迷惑だった?」

 何故なら、僕は橋下さんのことを何も解っていなかったからだ。
 困ったように眉を曲げ、しかしいつまでもこうして笑みを繕ったまま口にした橋下さんの言葉を前に、僕はみるみるうちに不機嫌になった。その様は、最初から僕にそう言わせたいが為だけの言動に見えたのである。

「な、なんで……」

 しかし僕は、これまでで一度も迷惑だなんてことは口にしたことはない。

「なんで橋下さんがそんなこと言うんですか……っ!」

 それなのに、橋下さんにそんなことを言われてしまってはどうにも堪らなかった。気付けば僕は、橋下さんの手を簡単に振りほどいて背を向けて走り出してしまっていた。この時、あの人がどういう顔をしていたのかは分からない。もし、これ程にもないくらいに見たことのない顔をしていたとするなら、尚更後ろなんてもう金輪際見たくなかった。
 恐らくは、今度こそ本当に橋下さんが追ってくることはないだろう。僕だったら、もう二度と今までと同じように接することは出来ないだろうし、なんなら今日を境に会うこともなくなってしまうはずだ。その証拠に、この橋下さんとのやり取りが、僕が僕として存在している時間の中の一番最後の出来事である。
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