第13話:仕組まれた不戦勝

 ――路地裏での事件、また起きたんだって?
 ――どうやら警察もあまり動いていないらしいし、貴族がらみだっていう話じゃないか。
 ――魔法が使われているなんて、貴族の中に犯人がいるんじゃないの?

 その声が果たして本当に外から聞こえているものなのか、それともただの幻聴なのか、正直なところ今の私には判別がつけられない。
 街に人が溢れかえっていると言うほどの時間でもないが、それなりに街の活気はあると言っていいだろう。私は、それら人々には目を向けることはしない。周りの市民だって、私欲を貪る貴族のことなど心底どうでもいいと思っているだろうし、もっと言うなら関わりなんて持ちたくもないと思っているという推測は容易だ。
 そんな市民の多く集まる場所、市場に赴くことはしなかったが、空がいい加減朱から藍に変わろうとしている頃、私はとある場所へと足を運んだ。私が帰る頃には、この煩わしい人の波も少しは収まっているのだろう。出来ればそうであってほしいという心持の中、目の前には目的地に行くのを塞き止めている扉がある。closeと書かれた札が吊るされているにも関わらず、私が手をかければそれは容易に開かれた。閉園してまだ間もないということと、まだ従業員が中で作業をしているからだろう。
 開かれた時に鳴る、少し軋んだような音が私を歓迎していないように聞こえたのは、気のせいというわけではない。目の前に現れたのは、到底全てを読むことは叶わないであろう無数の本だ。時間外のお陰で、市民の姿は当然何処にもいなかった。

「やあ、ルエード君。あれ以来調子は如何かな?」

 いつものように受付にいる、彼ただひとりを除いては。
 私がそう問いかけると、彼はいつも一瞬だけ視界に入れたかと思うと、すぐに視線を外してしまうのが常だ。しかし、今日はどうやらそれとは少し違うようで、受付に置かれているいつにも増して量が多い本を前に、手に持たれた紙に当てられたペン先の擦れる音が止まることはない。声だけで私と認識しているのか、こちらを振り向くという行為をする気配は一向に見受けられない。

「……別に、普通です」
「そうかい? それは良かった」

 などと適当な言葉を私が述べて数秒の沈黙が訪れた後、まるでしょうがなくといった声が聞こえてきそうな程に小さな吐息が、彼の口から溢れる。

「クレイヴさんなら、まだ二階にいると思いますけど」

 それだけ口にする彼の表情は、先ほどよりも一層歪んでいる。ただ、どうやらそれは、私がここに来たからという理由ではないらしい。
 止まることのないペンの動きと、小さな声で発している独り言。恐らくは本のタイトルと思われる、さして聞き覚えの無いような言葉ばかりだ。どうやら、その目に余るほどの本の選別が行われているらしい。

「そうか、ありがとう」

 これ以上の言葉は不要と判断した私は、簡潔に礼だけを伝え、受付の端のほうに詰まれた大量のそれを気に留めることはせず、彼の言う二階へと足を運ぶ。確かあの辺りは、読んだところで理解するには到底及ばないであろう専門書ばかりだったような気がするのだけれど、果たして何をしているのだろうか?
 階段を上りきろうかというところ、この図書館によく足を運んでいる人物が視界に入った。どうやら、丁度降りようとしていたところだったらしい。

「あ、お久しぶりですっ」
「やあ、サラ君。ご機嫌は如何かな?」
「えっと……元気ですよ! とても!」
「はは、それならよかった」

 クレイヴさんならあっちですよ。そう言いながら先導してくれるサラ君の好意に甘え、私は彼女の少し後ろをついて歩く。皆して察しがいいのは、私がここに足を運ぶ理由が概ねひとつしかないからだ。
 案内されているのは、どうやら二階の奥のほう。控え目に言ってもこんな誰も来ないような場所に連れてこられると、さながら騙されているのではないかという気分になるが、彼女に限ってはそれはあり得ないだろう。
 既に日が落ちている様子が、棚の向かいにある窓から垣間見える。

「……またか」

 少し遠くの方から、誰かが何かを口にしたのが聞こえた。その人物がいたのは、二階の窓側。丁度まん中辺りにあるふたり掛けのテーブルに座っていたのは、私が目的としていたひとりの人物。

「君ね、今日で何回目だ?」

 そして、恐らくこの中で一番私を歓迎していないであろう人物がそこにはいた。

「まだ三回目じゃないですか。そもそも、怒られる理由がよく分からないですね」
「怒ってはいないよ。そう聞こえるということは、思い当たる節があるんじゃないのかい?」
「別にありませんけど。というより、勝っておきながら僕に文句をつけるのはどうかと」

 ……どうやら、私が来たタイミングはかなり悪かったらしい。一体何を言い合っているのか、最初は疑問を提示せざるを得なかったが、テーブルの上に置かれている盤面と、それに付随する駒のお陰である程度の察しはつけることが出来た。

「どこでひとりチェスをしてようが一向に構わないんだけどね、適当に負けるくらいなら誘わないで欲しいよ」
「適当にやって負けられる程、僕は器用じゃありませんけど」
「冗談は止めてくれ。最初から明らかに手を抜いていたじゃないか」
「気のせいですよ。考えすぎです」

 簡潔に言うなら、サラ君の兄であるランベルト君とクレイヴはチェスをしていたようで、誘った本人が三回適当に負けたとクレイヴが言い張っている。といったところだろうか。
 正直、部外者の私からしたらどうでもいいのだけれど、そうもいかない理由がクレイヴにはあったのだろう。意味もなく難癖をつけるような人じゃないというのは、一応分かっているつもりだ。

「……本当、元気そうで何よりだね」
「あはは……」

 我々に気付いているのかいないのか、ふたりの会話は止まることがない。

「そうやって、適当に言葉を返していればどうにかなると思ってところも、いい加減にして欲しいものだね」
「長い話が早く終わらないかなって思いながら聞いてると、どうしてもそうなりますよ」
「どうして君はそういう言い方しか出来ないんだ? だからまたこうやって――」
「す、ストーップ!」

 話の脱線を期に、大きな身振りで動いたサラ君を前にしたふたりは、ようやく口を止める。

「お客さん! です!」

 やっと、ふたりと私の視線が交わった。こうも一斉に目を向けられると居たたまれない気分になるものの、そんなことに構っている必要はない。

「お楽しみのところ、すみませんね」
「……君か、こんな時間に何のようかな?」
「ああいや、特にどうという訳でもないんですけど……」

 自分から足を運んでおきながらなんだけれど、言葉を選ぶのに、どうしても数秒の時間が必要だった。

「たまには、昔話でもどうかと思いましてね」
「……昔話、ねぇ?」

 昔話、というなんとも便利な言葉を用いると、クレイヴはその一言で全てを理解したように、視線を盤面へと変える。というより、私が彼に用がある時は大抵この類いの話なのだけれど。

「ランベルト、悪いが受付に詰まれている大量の本、ルエード君と然るべきところに戻しておいてくれ」
「嫌ですね。僕は別にここの従業員じゃな――」
「別に、本を戻すくらいは誰だって出来るだろう? あの量を彼ひとりに任せると、後で何を言われるか分かったもんじゃないからね。手分けして頑張ってやっておいてくれ」

 クレイヴの言っているのは、恐らくさっき私がルエード君と共に見た、受付に詰まれていた大量の本のことだろう。ランベルト君の口からわざとらしいため息が溢れるが、それを拾うようにしてサラ君が言葉を口にした。

「あ、あの、わたしも手伝いますから! 皆でやればすぐですよ! すぐ!」
「はは……」
「えっと……ご、ごゆっくりー」

 特に意味をなさない乾いた笑いが二階に蔓延したのもほんの僅か、サラ君に腕を掴まれたランベルト君は、早々にこの場を後にしていく。気を利かせてくれたのか、それとも単に居づらかっただけなのか。どちらにしても、彼女には感謝しなければいけないだろう。
 ふたりの声が聞こえなくなるのを確認すると、クレイヴは盤面に並べられた黒いひとつの駒を手に取った。その駒の名前は一体何だっただろうか? 淡々と、本来一番最初に置かれているべき場所に、それらを戻していく。

「……チェス、やり方は覚えているかい?」
「私が覚えていると、本当に思ってます?」
「失言だったよ。忘れてくれ」

 適当な謝罪を受け流しながら、私はさっきまでランベルト君がいた席に座る。段々と残されつつある白い駒を、適当に手に取った。

「……これは、何処に置くんでしたっけ?」
「あー……。ま、取り合えず白い方だけそっちに集めておいてくれ」

 チェスを見ることすらも久しぶりだった私は、どれがどういう役割をもたらすのかというのもすっかり忘れていた。遥か昔に覚えようと思ったこともなくはないが、相性とでも言えばいいのか、どうにもルールを頭に入れることが出来なかった。比較的覚えやすい、駒の名前さえも、だ。

「……で、話というのは何だったかな?本当に昔話をしに来たとも思えないのだけれど」
「ここ数週間のことなので、昔と言えば昔かと」
「君の考える昔という定義を覆したくなるね」

 言いながら、クレイヴは早々に残された最後の黒い駒をひとつ手に取った。

「一応、アナタの耳には入れておくべきかと思いまして」
「……ま、アルセーヌがここに来る理由なんて、大体察しがつくけど」
「話が早くて助かります」

 クレイヴの手に持たれている名前の分からない駒は、本来あるべき位置に戻されてく。そうして次に彼が触れたのは、私が集めた白い駒。今日、こうしてチェスを前にすると分かっていれば、ルールくらいはちゃんと思い出してきたし、もっと言うならそれなりに練習だってしてきただろう。

「私はひとりで勝手にやっているから、君は適当に話を進めてくれ」
「……聞く気あります?」
「いいじゃないか、昔の時みたいで。ちゃんと聞いているよ」

 付け焼き刃のようなことをしたところで、この人の相手には到底ならないだろうが、それでも、なんだかんだと言いながら相手になってくれるということを私はちゃんと知っている。次に来る時には、それなりに思い出しておくとしようか。そんな思いは、彼が動かしたひとつの駒によって押しつぶされた。
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