39話:ニセモノに謳う
今日は朝からいつにも増して寒いと思っていたが、まさか雪が降るまで冷え込むなんて思ってはいなかった。朝の天気予報では「雪は降るが積もらない」と言っていたのに、今は子供の足首が隠れるくらいにまで積み重なっている。
マフラーを首に巻き、足を動かすたびに揺れる少し大きな長靴と子供用の小さな傘と一緒に一人で外を歩いているが、夕方になる少し前だからなのか辺りにはさほど人はいない。白銀の街並みは、いつにも増して少し寂しくオレの目には映っていた。雪が降るのは確かに楽しいし好きなのだが、正直「どうして今日に限って」という気持ちがあった。
目的の場所に向かう最中、規則正しい音がオレの耳に入った。
(踏切の音……)
定期的に、ある一定の時間帯に鳴り響くそれは、なんだか居心地が悪い感覚に苛まれてしまう。何も悪いことをしているわけでもないのに、お巡りさんが近くにいるとどうにも落ち着きが無くなってしまう現象によく似ているような気がした。しかし、恐らく今日のそれは少し意味が異なるだろう。
オレがその踏切に辿り着いた時には、既にその音はなくなっていた。車がゆっくりと横断し、歩行者と自転車が交差していくのをただただ眺めている。オレは、その波に乗ることはなかった。
(来るの、はじめてかも……)
ここは、いつだったかに父さんが死んだ場所である。簡単に想像できたものでもないが、オレの父はここで車ごと電車に轢かれて死亡した。亡くなって以降、母はこのことを一切口にしないし、一昨日が父の命日であったということも恐らくは気付かないフリをしていた。オレだって、別に言及はしなかった。父の話をするつもりはもとよりないし、してはいけないような気がしていたのである。
命日といったら、世間一般的には墓参りくらいは流石にあるのではないかと思っていたのだが、次の日も、その次の日も母はオレの前では行動を起こさなかった。もしかしたらオレの知らないところで母は何かをしていた可能性もあるが、余りにも平和的な日常はそれを感じさせなかったのだ。
仮にも身内が死んだような場所に一人で行くと母が知ったら怒るに決まっているだろうから、母には近くの公園に行くと言って家を出た。罪悪感こそ少しはあったものの、父がどういう場所で死んだのかを一度確かめてみたかったのだ。言ってしまえば、好奇心そのものだった。
踏切の音が聞こえてきたのは、すぐ後のことだ。オレは線路を超えることはなく、踏切を通り過ぎた車をただ眺めていた。ここに来たからと言って、オレに出来ることは結局それくらいだった。遠くから、電車がこちらに走ってくる音が耳に入る。
この時に限って、辺りにはまだ車も人影もいなかった。それなのに、なんだか背中の神経が妙にざわついたのをよく覚えている。
「誰もいないのに……」
オレは思わず周囲を見回した。それくらい、すぐ近くに何かが居るようなそんな気がしたのである。
線路のちょうど真ん中辺りだろうか? 視線を戻すと、歩く人々と車と列車に轢かれて雪の積もっていない部分がある。そこから、蜃気楼のようにユラユラと地面が揺れ動いているようにオレの目には映った。
それは恐らく、本来なら視えるはずのないものが地面の底から這って出てくる前触れだったのだろう。そうだと分かったのは、これから少し時間が経ってからの話だが。
到底蜃気楼とはほど遠い現象が起きたのは、オレが気付いてからすぐ後のことだった。空気の波だったものが、少しずつ形を形成し始めたのである。まるで粘土細工かのように誰かに創られているようなのに、自らの意思でそれが行われているかのように視えた。矛盾していると言われても仕方ないことかもしれないが、誰がなんと言おうとも、それは紛れもなく意思を持っていたのである。
大きく鼓舞する靄の中から腕のようなものが微かに読み取れたのは、そう遅くはない出来事だった。しかし、その腕とやらは明らかに人体構造を無視していた。手のひらは外側に曲がり、皮膚と思われるものは爛れて赤黒く染まっている。血と言えば分かりやすいかも知れないが、あれは出来れば靄だと思いたい。だがグロテスクであることには変わりなく、ここに大人が居たならオレは視覚を奪われていたに違いない。本来ならそれくらいの出来事なのだが、オレはそんなことを完全に無視してその事象をまじまじと眺めていた。それは何故か?
「お父さん……?」
この時、オレは何故居るはずのない人物のことを思わず口にしてしまったのかは自分でもよく分からなかった。もし母さんがここにいたら、一体どんな顔をするのだろうかと考えてしまうくらい、普段は口にすることがない単語である。
その軽率な言葉が合図かのように、オレが父と呼んだ何かがニヤリと笑った気がした。いや、オレが口にした父と呼ばれる物体には、身体はおろか顔のようなものは無かった。なのにそう感じたのだ。すると、オレの周りを取り巻くように靄が散乱し始めていく。形成するほどの力が無いのかどうなのか、特別何かを形取るようなことはしなかったが、どちらにしても気味が悪いことだけは確かだった。
ただ警鐘を鳴らしているだけだった踏切の音に混じって、ようやく電車の音が聞こえてくる。この状況ではそれはただ不安を煽るだけのものでしかなく、電車の音が近づく度に心臓が頭の中で跳ね上がるのを感じた。おかしな話だが、自分がちゃんと息をしているのかもよく分からなかった。
視界の端に電車を捉えた、その時だ。ほんの一瞬、だが恐らくは周りの時間は止まっていたことだろう。
先ほどまでただの靄だったはずの周りのそれが、地面に這いつくばっている人々となって現れたのだ。いや、オレの目にはそう映っていただけで、ここに他の誰かが居たとすればそんなことは思わないかもしれない。
今更と思われても仕方が無いが、明らかに幽霊であるということが分かる程度には、到底人間と呼ぶに相応しくない姿だったのである。それは、踏切の真ん中にいる人物も当然例外ではなかった。
考えている時間があるわけもなく、気付けば電車とそれが今にも衝突しそうになっていた。オレは思わず眉を寄せ、何かを口にしそうになる。だが、それを許さない人物がいた。
「――凄いな、ここ。自殺の名所だったっけ?」
どこからともなく聞こえてきた声に、オレはようやく現実に戻されたような気がした。突如、とある人物が目の前に降ってきたのだ。
光の粒を纏ったそれが地面に足を着地させると、雪に逆らうようにして光がぶわりと舞った。それと同時に、黒く淀んだ空気はとある男が現れたことによって消滅していく。もしかすると浄化されたという方が自然かもしれないが、どちらの表現が適切なのか、こればかりは検討がつかなかった。
「この前のお兄さん……」
その人物とようやく目が合うと、オレはようやく言葉を口にした。さっき何かを言おうとしたものとは全く違うもので、何を言おうとしていたのかもすっかりと忘れてしまった後だった。
突然現れたその人物のことを、オレは知っている。名前は、確か――。
「お兄さんでもいいけど、タカハラって呼んでくれた方が嬉しいかなあ」
声の主は、自身のことをタカハラと呼んだ。
オレの周りは、雪以外に何も残されてはいなかった。父のような人物はもう既にどこにも居ないし、それどころかその他の数十人もの気配は、すっかりと消えてしまっていたのである。踏切の音も、電車の音もいつの間にか聞こえなくなっていた。強いて言うのであれば、お兄さんから放たれているのであろう光の粒は、まだ僅かにオレの目に映っていたくらいだ。
「さっきの人、きみの知り合い?」
「た、多分……」そう問われ、どういうわけかオレは咄嗟に言葉を濁した。
「そっか」
そんな適当な答えに、タカハラさんは口調と表情を変えることはしなかった。
「今日は帰らない? 家まで送っていくよ」
口調こそ優しいものの、有無を言わせないような威圧感を僅かに感じながら、タカハラさんのことをまじまじと見続けた。この季節特有の纏う空気の色は、この時ばかりはオレの目には余り上手く映ってはいなかった。
しかし、靄の中にいるそれらがハッキリと視えたこの日のことは、どれだけ時間が経っても忘れることはないだろう。
マフラーを首に巻き、足を動かすたびに揺れる少し大きな長靴と子供用の小さな傘と一緒に一人で外を歩いているが、夕方になる少し前だからなのか辺りにはさほど人はいない。白銀の街並みは、いつにも増して少し寂しくオレの目には映っていた。雪が降るのは確かに楽しいし好きなのだが、正直「どうして今日に限って」という気持ちがあった。
目的の場所に向かう最中、規則正しい音がオレの耳に入った。
(踏切の音……)
定期的に、ある一定の時間帯に鳴り響くそれは、なんだか居心地が悪い感覚に苛まれてしまう。何も悪いことをしているわけでもないのに、お巡りさんが近くにいるとどうにも落ち着きが無くなってしまう現象によく似ているような気がした。しかし、恐らく今日のそれは少し意味が異なるだろう。
オレがその踏切に辿り着いた時には、既にその音はなくなっていた。車がゆっくりと横断し、歩行者と自転車が交差していくのをただただ眺めている。オレは、その波に乗ることはなかった。
(来るの、はじめてかも……)
ここは、いつだったかに父さんが死んだ場所である。簡単に想像できたものでもないが、オレの父はここで車ごと電車に轢かれて死亡した。亡くなって以降、母はこのことを一切口にしないし、一昨日が父の命日であったということも恐らくは気付かないフリをしていた。オレだって、別に言及はしなかった。父の話をするつもりはもとよりないし、してはいけないような気がしていたのである。
命日といったら、世間一般的には墓参りくらいは流石にあるのではないかと思っていたのだが、次の日も、その次の日も母はオレの前では行動を起こさなかった。もしかしたらオレの知らないところで母は何かをしていた可能性もあるが、余りにも平和的な日常はそれを感じさせなかったのだ。
仮にも身内が死んだような場所に一人で行くと母が知ったら怒るに決まっているだろうから、母には近くの公園に行くと言って家を出た。罪悪感こそ少しはあったものの、父がどういう場所で死んだのかを一度確かめてみたかったのだ。言ってしまえば、好奇心そのものだった。
踏切の音が聞こえてきたのは、すぐ後のことだ。オレは線路を超えることはなく、踏切を通り過ぎた車をただ眺めていた。ここに来たからと言って、オレに出来ることは結局それくらいだった。遠くから、電車がこちらに走ってくる音が耳に入る。
この時に限って、辺りにはまだ車も人影もいなかった。それなのに、なんだか背中の神経が妙にざわついたのをよく覚えている。
「誰もいないのに……」
オレは思わず周囲を見回した。それくらい、すぐ近くに何かが居るようなそんな気がしたのである。
線路のちょうど真ん中辺りだろうか? 視線を戻すと、歩く人々と車と列車に轢かれて雪の積もっていない部分がある。そこから、蜃気楼のようにユラユラと地面が揺れ動いているようにオレの目には映った。
それは恐らく、本来なら視えるはずのないものが地面の底から這って出てくる前触れだったのだろう。そうだと分かったのは、これから少し時間が経ってからの話だが。
到底蜃気楼とはほど遠い現象が起きたのは、オレが気付いてからすぐ後のことだった。空気の波だったものが、少しずつ形を形成し始めたのである。まるで粘土細工かのように誰かに創られているようなのに、自らの意思でそれが行われているかのように視えた。矛盾していると言われても仕方ないことかもしれないが、誰がなんと言おうとも、それは紛れもなく意思を持っていたのである。
大きく鼓舞する靄の中から腕のようなものが微かに読み取れたのは、そう遅くはない出来事だった。しかし、その腕とやらは明らかに人体構造を無視していた。手のひらは外側に曲がり、皮膚と思われるものは爛れて赤黒く染まっている。血と言えば分かりやすいかも知れないが、あれは出来れば靄だと思いたい。だがグロテスクであることには変わりなく、ここに大人が居たならオレは視覚を奪われていたに違いない。本来ならそれくらいの出来事なのだが、オレはそんなことを完全に無視してその事象をまじまじと眺めていた。それは何故か?
「お父さん……?」
この時、オレは何故居るはずのない人物のことを思わず口にしてしまったのかは自分でもよく分からなかった。もし母さんがここにいたら、一体どんな顔をするのだろうかと考えてしまうくらい、普段は口にすることがない単語である。
その軽率な言葉が合図かのように、オレが父と呼んだ何かがニヤリと笑った気がした。いや、オレが口にした父と呼ばれる物体には、身体はおろか顔のようなものは無かった。なのにそう感じたのだ。すると、オレの周りを取り巻くように靄が散乱し始めていく。形成するほどの力が無いのかどうなのか、特別何かを形取るようなことはしなかったが、どちらにしても気味が悪いことだけは確かだった。
ただ警鐘を鳴らしているだけだった踏切の音に混じって、ようやく電車の音が聞こえてくる。この状況ではそれはただ不安を煽るだけのものでしかなく、電車の音が近づく度に心臓が頭の中で跳ね上がるのを感じた。おかしな話だが、自分がちゃんと息をしているのかもよく分からなかった。
視界の端に電車を捉えた、その時だ。ほんの一瞬、だが恐らくは周りの時間は止まっていたことだろう。
先ほどまでただの靄だったはずの周りのそれが、地面に這いつくばっている人々となって現れたのだ。いや、オレの目にはそう映っていただけで、ここに他の誰かが居たとすればそんなことは思わないかもしれない。
今更と思われても仕方が無いが、明らかに幽霊であるということが分かる程度には、到底人間と呼ぶに相応しくない姿だったのである。それは、踏切の真ん中にいる人物も当然例外ではなかった。
考えている時間があるわけもなく、気付けば電車とそれが今にも衝突しそうになっていた。オレは思わず眉を寄せ、何かを口にしそうになる。だが、それを許さない人物がいた。
「――凄いな、ここ。自殺の名所だったっけ?」
どこからともなく聞こえてきた声に、オレはようやく現実に戻されたような気がした。突如、とある人物が目の前に降ってきたのだ。
光の粒を纏ったそれが地面に足を着地させると、雪に逆らうようにして光がぶわりと舞った。それと同時に、黒く淀んだ空気はとある男が現れたことによって消滅していく。もしかすると浄化されたという方が自然かもしれないが、どちらの表現が適切なのか、こればかりは検討がつかなかった。
「この前のお兄さん……」
その人物とようやく目が合うと、オレはようやく言葉を口にした。さっき何かを言おうとしたものとは全く違うもので、何を言おうとしていたのかもすっかりと忘れてしまった後だった。
突然現れたその人物のことを、オレは知っている。名前は、確か――。
「お兄さんでもいいけど、タカハラって呼んでくれた方が嬉しいかなあ」
声の主は、自身のことをタカハラと呼んだ。
オレの周りは、雪以外に何も残されてはいなかった。父のような人物はもう既にどこにも居ないし、それどころかその他の数十人もの気配は、すっかりと消えてしまっていたのである。踏切の音も、電車の音もいつの間にか聞こえなくなっていた。強いて言うのであれば、お兄さんから放たれているのであろう光の粒は、まだ僅かにオレの目に映っていたくらいだ。
「さっきの人、きみの知り合い?」
「た、多分……」そう問われ、どういうわけかオレは咄嗟に言葉を濁した。
「そっか」
そんな適当な答えに、タカハラさんは口調と表情を変えることはしなかった。
「今日は帰らない? 家まで送っていくよ」
口調こそ優しいものの、有無を言わせないような威圧感を僅かに感じながら、タカハラさんのことをまじまじと見続けた。この季節特有の纏う空気の色は、この時ばかりはオレの目には余り上手く映ってはいなかった。
しかし、靄の中にいるそれらがハッキリと視えたこの日のことは、どれだけ時間が経っても忘れることはないだろう。