37話:ニセモノの詭弁

 じめりと身体に纏わり付くような空気に、オレはすっかりと気をやられてしまっていた。朝は起きたくないしバイトは面倒だし(この二つに関しては別に雨に限ったことではないが)、傘は荷物になるし差すのも嫌になる。靴はこの際仕方がないとして、ズボンの裾は道を歩けば水が付着するし困ったものだ。
 雨で濡れた窓の外は、少々歪んでいた。朝から降っているそれのせいで所々水たまりが出来ているように見受けられる。これから帰るのに、地面を気にしないといけないのが億劫だ。
 階段を下り、一階のまでたどり着くと、これまでまばらだった人の数が両手でも数え切れないくらいにまで増えた。ざわついた空間に少し嫌気がさしながら自分のクラスの下駄箱に足を向けると、左から見覚えのある人物が視界に入った。お互いに目が合ったのを確認し、オレは挨拶をするでもなく声をかけた。

「雨ばっかりで嫌ですね」

 宇栄原先輩は、「まあね」とだけ言って三年の下駄箱に向かった。その後すぐに自然と合流し、足並みを揃えて校舎を出た。こういう時、知り合いというだけで確認もなく一緒に帰るという状況になるのは不思議なものである。

「今日は帰るんだ?」
「雨の日にバイトとかほんと面倒ですよね。そう思いません?」

 オレがそう口にすると、先輩は「ああ……まあそうだね」と適当に同意をした。興味が無いのにわざわざ返事をしてくれたのは、優しさだろうか?

「先輩も帰るんですか?」
「紙が湿気るから帰るよ」
「ふうん。変な理由」

 確かに雨の日に教科書を触ると心なしか水分を感じるような気はするが、そこまで気にしたことは無かったし、先輩の帰る理由はオレには余りピンとこなかった。
 先輩と二人きりで帰るというのは、オレの記憶が正しければこれが初めてである。ここに神崎先輩か相谷くんがいれば何かと誤魔化せるのに、この状況では積極的に喋る気には余りならなかった。何か、オレにとって都合の悪いことを聞かれてしまうかもしれないという危惧をしていたのかもしれない。

「――この前の花は有効活用してくれた?」

 何だか心を読まれているかのような質問をされ、危うくすぐそばの水溜りを踏みそうになってしまった。……本当はまだ家にあるなんて、口が裂けても言えない。

「心配しなくてもちゃんと渡しましたよ」
「別に心配はしてないよ。ちょっと気になっただけ」
「同じじゃないですか」

 先輩がこうして気にするのは、当然かもしれない。あれから少し時間が経ったが、オレはあの時買った花の話を一度もしていないのだ。本来ならもう一度お礼の一つでも言えれば良かったのかもしれないが、後ろめたさのほうが勝ってしまい、その話題は意図的に避けていた傾向があったのが、この質問のきっかけなのだろう。こればかりは、オレの浅さを痛感する。

「橋下君はさ、いつも肝心なことは教えてくれないよね」
「なんですか急に。肝心なことって何かありましたっけね」オレはあからさまに何も知らないふりをした。
「なんだろう。分からない。でも、分からないから気になるのかもね」

 いつも的確に刺してくる先輩の言葉と比べれば、この時はいつもより少し曖昧だった。他にも何か言いたいことがあったのか、僅かに沈黙が走った。傘に少し隠れた表情が気になり、思わず身体を前に傾ける。口元は笑っていたが、どこか寂しそうにうつったのは、恐らく雨が降っていて憂鬱だったからに違いない。そう思いたくて仕方が無かった。

「まあでも、おれじゃ駄目だから言わないんでしょ? 拓真のほうが何か知ってたりして」

 自嘲気味にそんなことをいう先輩に、どういう訳かオレは不安になった。オレは決して、先輩にそんなことを言わせたいわけではない。

「……そんなことはないですよ」

 道路に溜まった水の塊を避けながら次に言う言葉を探していく。あまり余計なことは言いたくは無いし、これをきっかけに先輩がオレにとって良からぬことをしようと画策するかもしれない。それだけは勘弁して欲しかった。

「先輩と会えたから、ようやく分かったんです」

 しかし時には、少しだけ口にしないとならない状況が訪れる。

「幽霊は、いつも侘しそうなんですよ。だから助けたくなるし、構ってみたくなる。向こうが何を考えているのか、理解してみたくなるんです」

 なんて傲慢な思考なのだろうかと、自らこうして口にしてみるとそう思わざるを得ない。何も出来ないくせに首を突っ込んでいるのだから、祥吾が怒るのも当然だろう。

「オレは本当に助けたいと思っていたのかって、先輩に会ってようやく真剣に考えたんですよね」

 祥吾にとって何がいいのか、この時はもう分からなくなっていた。なんてことを先輩に言ったら、まるで自分のことのように考えてくれるのだろうか? でも、それをしてしまっては先輩は本当に解決してしまうかもしれない。

「もう少しでもオレに解決出来る力があればよかったのにって、そう思うんです」

 もし仮にそうなってしまったら、自分の力の無さをまざまざと見せつけられる絶望感に、オレは恐らく耐えられない。その結果祥吾がいなくなるというのも、余り考えたくはない。

「きみ曰く、おれに力があるって言うんなら、橋下君だってそういうものを持ってるんじゃないの? 幽霊が視えるだけだなんて、考えにくいと思うんだけど……」
「ないですよ」

 ――きっとオレは、心のどこかで最初から諦めていたし、理解していた。

「オレに誰かを救えるだけの力があったのなら、もうとっくに解決してます」

 自分に力がないと決めつけ、このまま何ごともなかったかのように祥吾がいつか消えてしまう日を待つことの方が楽であるということに。

「オレが考えていることは、最初からそれくらいのことなんですよ」

 そしたら、先輩と会うことだってなかったのだ。などと言うことは、流石に口にはしなかった。少し濡れたズボンの裾を見ながら、この日が雨で良かったと思い直す羽目になる。表情が見えにくいということだけが今日の救いだ。
 本当に自分のことを顧みずになんとかしてしまいそうな人物に、本当のことなんて到底言いたくはないというものだ。
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