31話:ニセモノは逃げ切る
矛盾していると思われるかもしれないが、それは黒くありつつも光を帯びているようだった。例えるなら、まるでファンタジー世界にでも来てしまったかのようで、現代社会に生きているだけなら、まず目にすることはない景観だ。
地面には黒い霧のようなものが這いつくばっており、足に何かがまとわりついているような、生ぬるい感覚が身体に伝ってくる。気を確かに持たないと、簡単に何かに意識を持っていかれそうな、そんな感覚さえも覚えてしまう。これが初めてではないはずなのに、不思議とそんなことを思った。
目の前にいる男の身体は、段々と黒いそれをまとっている体積が増えていく。身体の左半分は、既にどうなっていたかよく思い出せないほどだ。
もし、今この瞬間に通りすがりの人物や近所の住人に見つかってしまえば、一体何をしているのかと思われるのは明白だが、不思議なことにそれは一度も起こらなかった。まるで誰かが人払いをしているかのような、そんな気色悪さを感じるほどである。
それくらいこの公園は静かで、おれすらも本当はいないのではないかと錯覚してしまう。しかし、それは所詮この男が取り巻く気におれが感化されてしまっているだけに過ぎないはずだ。
「……消えるのは勝手だけど、どうせなら教えてくださいよ」
ここでおれが言う消えるというのは、自我が消えることを意味している。完全に実体が消えてしまうというのもあるのだが、それならそれで勝手に自滅してしまえば良いと思ってしまうのだ。
なるべく平常心を保てるように、おれは一度つばを飲んだ。例えばそれが悪手だったとしても、おれはここで騒ぎ立てたり激高することはなるべくしたくない。
話の通じるかどうかもよく分からない相手にそれはナンセンスだし、何よりもおれの性格上それはとても難しい。
「本当に、あなたが橋下君を殺したんですか?」
こんなこと、本当は口にしたくないのだが……。
例え目の前に居るのが知り合いを殺した人物だとしても、おれがおれである為には、感情を殺さないといけないときもあるだろう。この感情の類は、探偵が自身の知り合いを殺された時のそれに近いのかもしれない。最も、そんな格好良い物ではないが。
「……同じこと何度も聞かないでよ。面倒くさい」
少々苛立ちながら、目の前の誰かはそう言った。同じことを何度も、と言われるほど口にはしていないはずだが、本当にと最初に付け加えたことで、恐らくそういう風に聞こえてしまったのだろう。それとも、過去にそうやって言われたことが既にあったのだろうか? どちらにしても、この男とは初対面のおれにとって、そんなことはどちらでも構わなかった。
「そうじゃなきゃ、死んでもなお俺はこんな形で存在してない」
だが、この男のその台詞は聞き捨てならないものである。
「瞑邪(めいじゃ)っていうのは、そういうモノだ」
名前すら知らない目の前の男は、またおれの知らない単語を口にする。それがどうにも腹立たしく、おれは自然と自身の拳を握りつぶしていた。
「……もしかして、接触しておいて俺が一体何なのかは知らないってことは無いよな?」
もはや人間とは言い難い容姿だが、一応まだ自我はあるようで、不思議な話だが普通にその辺にいるような幽霊よりは会話が成り立っていた。
男の声は、あえて言うとするなら決して煽っているなどという品のないそれではなかった。確かにおれは、この男がどういった存在なのかはおろか、名前や素性すら知らないのである。その情報が、おれにとってそこまで重要なものであるとは思ってなかったというのも当然ある。それと、あえて言うならもう一つ。
確かにおれは幽霊が視えるし、そういうことに関しては少々お節介なところは否めない。一応、その自覚が全くないわけではない。
「……ずっと、タチの悪い悪霊だと思ってました」
だが、この後に及んでそのタチの悪い悪霊とやらのことを理解したいというほど、おれには慈悲と余裕がないのである。
「まあ……間違ってはいないさ。でも、一緒にするには違いが余りにも大きすぎる」
男は頬に伝う汗と周りの黒いそれ、どちらを気にしているのか、おれのことは余り視界に入れていない。少々苛立っているのか、顔にかかっている靄を手で払う。さっきまで黒く朧気だった顔が、またしても垣間見えた。
「悪霊っていうのはさ、強い残留思念だけで存在してるようなやつらのことを言うだろ? つまり、それが本体の意志であると見せ掛けているだけだ。でも俺は違う。これでも一応意思は持ち合わせている。もっと簡単に言うなら、瞑邪というのは悪霊の上位互換ってところだろうな」
恐らくは、それもそう長くは持たないのだろうが、男はとても悠長だった。本当にこんな人が橋下君を……いや、人は見かけに寄らないとはよく言うし、感覚にばかり頼らないようにより注意を深めた。
逝邪っていうのは知ってる? 男はそう問いかけた。 どうやら、男が持っている固有名詞というのは本当らしい。男の口から逝邪という単語が出てきたことにより、何故か信憑性が異常に上がったのである。確かに少し、聞き馴染みのある語感だとは思っていたが……。
おれは肯定も否定もしなかったが、果たしてそれをどう捉えたのか、男は聞いておきながらまともな説明まではしなかった。
「俺のことも、特別誰だかは知らないんだろ? あいつが言ってたら、これはもう終わってたことだろうし」
なんとなく……と、また感覚的なことになってしまうが、もしかすると橋下君は、全部知っていたのではないかと、このとき初めて思った。この目の前にいる、黒をまとった正体のことも。逝邪というものの他に、瞑邪というものがいるということも。それをおれにほのめかした理由まではまだ分からないが……おれに知ってもらう必要があったのだろう。
「従兄弟なんだよね、俺とキョウは」
そうじゃなければ、おれはきっとまだこの事実を知らないままだったに違いない。
「馬鹿だよなぁ、どいつもこいつも」
今更、俺のことなんてどうだってよかったのにさ。そう男は言った。男の言葉を借りるわけではないが、この時おれは、本当に馬鹿じゃないのかと思った。男が一体誰のことを指して言っているのかは分からないが、本当に馬鹿馬鹿しくて仕方がない。
理不尽に何かに怒ってやりたいのに、その相手がいない。もしこの場に橋下君がいたら、きっとヘラヘラしならが適当にオレの言葉を躱すんじゃないだろうか。そんな想像が容易いということがどうにも憎らしいのに、その相手がいないのではどうしようもない。それともこんなのは所詮オレの想像で、もしかしたらちゃんと彼の意向を聞けていたのだろうか? 果たしてどちらが正解だったのか、その答えを知る人は、もうどこにもいない。誰も教えてはくれない。
(おれが気付くべきだった……のか?)
誰かに何かを言いたいわけでもなく、決して怒りたいわけではなく、本当は自分一人に憤っている。しかしそれも傲慢だし、本当におれが解決出来るものだったのかは怪しいもんだし、誰かにこの責任を擦り付けてやりたい気持ちでいっぱいだ。
……いやそれも違うかもしれない。分かっている、分かってはいるのだ。これから先、彼らに発せる言葉なんてありはしないというのは、既に理解はしているはずで、おれが今何かに怒ったところでどうにもならないということも知っている。
ただそれを、到底容認できないというだけで。
地面には黒い霧のようなものが這いつくばっており、足に何かがまとわりついているような、生ぬるい感覚が身体に伝ってくる。気を確かに持たないと、簡単に何かに意識を持っていかれそうな、そんな感覚さえも覚えてしまう。これが初めてではないはずなのに、不思議とそんなことを思った。
目の前にいる男の身体は、段々と黒いそれをまとっている体積が増えていく。身体の左半分は、既にどうなっていたかよく思い出せないほどだ。
もし、今この瞬間に通りすがりの人物や近所の住人に見つかってしまえば、一体何をしているのかと思われるのは明白だが、不思議なことにそれは一度も起こらなかった。まるで誰かが人払いをしているかのような、そんな気色悪さを感じるほどである。
それくらいこの公園は静かで、おれすらも本当はいないのではないかと錯覚してしまう。しかし、それは所詮この男が取り巻く気におれが感化されてしまっているだけに過ぎないはずだ。
「……消えるのは勝手だけど、どうせなら教えてくださいよ」
ここでおれが言う消えるというのは、自我が消えることを意味している。完全に実体が消えてしまうというのもあるのだが、それならそれで勝手に自滅してしまえば良いと思ってしまうのだ。
なるべく平常心を保てるように、おれは一度つばを飲んだ。例えばそれが悪手だったとしても、おれはここで騒ぎ立てたり激高することはなるべくしたくない。
話の通じるかどうかもよく分からない相手にそれはナンセンスだし、何よりもおれの性格上それはとても難しい。
「本当に、あなたが橋下君を殺したんですか?」
こんなこと、本当は口にしたくないのだが……。
例え目の前に居るのが知り合いを殺した人物だとしても、おれがおれである為には、感情を殺さないといけないときもあるだろう。この感情の類は、探偵が自身の知り合いを殺された時のそれに近いのかもしれない。最も、そんな格好良い物ではないが。
「……同じこと何度も聞かないでよ。面倒くさい」
少々苛立ちながら、目の前の誰かはそう言った。同じことを何度も、と言われるほど口にはしていないはずだが、本当にと最初に付け加えたことで、恐らくそういう風に聞こえてしまったのだろう。それとも、過去にそうやって言われたことが既にあったのだろうか? どちらにしても、この男とは初対面のおれにとって、そんなことはどちらでも構わなかった。
「そうじゃなきゃ、死んでもなお俺はこんな形で存在してない」
だが、この男のその台詞は聞き捨てならないものである。
「瞑邪(めいじゃ)っていうのは、そういうモノだ」
名前すら知らない目の前の男は、またおれの知らない単語を口にする。それがどうにも腹立たしく、おれは自然と自身の拳を握りつぶしていた。
「……もしかして、接触しておいて俺が一体何なのかは知らないってことは無いよな?」
もはや人間とは言い難い容姿だが、一応まだ自我はあるようで、不思議な話だが普通にその辺にいるような幽霊よりは会話が成り立っていた。
男の声は、あえて言うとするなら決して煽っているなどという品のないそれではなかった。確かにおれは、この男がどういった存在なのかはおろか、名前や素性すら知らないのである。その情報が、おれにとってそこまで重要なものであるとは思ってなかったというのも当然ある。それと、あえて言うならもう一つ。
確かにおれは幽霊が視えるし、そういうことに関しては少々お節介なところは否めない。一応、その自覚が全くないわけではない。
「……ずっと、タチの悪い悪霊だと思ってました」
だが、この後に及んでそのタチの悪い悪霊とやらのことを理解したいというほど、おれには慈悲と余裕がないのである。
「まあ……間違ってはいないさ。でも、一緒にするには違いが余りにも大きすぎる」
男は頬に伝う汗と周りの黒いそれ、どちらを気にしているのか、おれのことは余り視界に入れていない。少々苛立っているのか、顔にかかっている靄を手で払う。さっきまで黒く朧気だった顔が、またしても垣間見えた。
「悪霊っていうのはさ、強い残留思念だけで存在してるようなやつらのことを言うだろ? つまり、それが本体の意志であると見せ掛けているだけだ。でも俺は違う。これでも一応意思は持ち合わせている。もっと簡単に言うなら、瞑邪というのは悪霊の上位互換ってところだろうな」
恐らくは、それもそう長くは持たないのだろうが、男はとても悠長だった。本当にこんな人が橋下君を……いや、人は見かけに寄らないとはよく言うし、感覚にばかり頼らないようにより注意を深めた。
逝邪っていうのは知ってる? 男はそう問いかけた。 どうやら、男が持っている固有名詞というのは本当らしい。男の口から逝邪という単語が出てきたことにより、何故か信憑性が異常に上がったのである。確かに少し、聞き馴染みのある語感だとは思っていたが……。
おれは肯定も否定もしなかったが、果たしてそれをどう捉えたのか、男は聞いておきながらまともな説明まではしなかった。
「俺のことも、特別誰だかは知らないんだろ? あいつが言ってたら、これはもう終わってたことだろうし」
なんとなく……と、また感覚的なことになってしまうが、もしかすると橋下君は、全部知っていたのではないかと、このとき初めて思った。この目の前にいる、黒をまとった正体のことも。逝邪というものの他に、瞑邪というものがいるということも。それをおれにほのめかした理由まではまだ分からないが……おれに知ってもらう必要があったのだろう。
「従兄弟なんだよね、俺とキョウは」
そうじゃなければ、おれはきっとまだこの事実を知らないままだったに違いない。
「馬鹿だよなぁ、どいつもこいつも」
今更、俺のことなんてどうだってよかったのにさ。そう男は言った。男の言葉を借りるわけではないが、この時おれは、本当に馬鹿じゃないのかと思った。男が一体誰のことを指して言っているのかは分からないが、本当に馬鹿馬鹿しくて仕方がない。
理不尽に何かに怒ってやりたいのに、その相手がいない。もしこの場に橋下君がいたら、きっとヘラヘラしならが適当にオレの言葉を躱すんじゃないだろうか。そんな想像が容易いということがどうにも憎らしいのに、その相手がいないのではどうしようもない。それともこんなのは所詮オレの想像で、もしかしたらちゃんと彼の意向を聞けていたのだろうか? 果たしてどちらが正解だったのか、その答えを知る人は、もうどこにもいない。誰も教えてはくれない。
(おれが気付くべきだった……のか?)
誰かに何かを言いたいわけでもなく、決して怒りたいわけではなく、本当は自分一人に憤っている。しかしそれも傲慢だし、本当におれが解決出来るものだったのかは怪しいもんだし、誰かにこの責任を擦り付けてやりたい気持ちでいっぱいだ。
……いやそれも違うかもしれない。分かっている、分かってはいるのだ。これから先、彼らに発せる言葉なんてありはしないというのは、既に理解はしているはずで、おれが今何かに怒ったところでどうにもならないということも知っている。
ただそれを、到底容認できないというだけで。