30話:ヒミツの有限

「――話、まだかかります?」

 どこかから、聞き覚えのあるような声が聞こえてくる。声のする方にあるのは、紅く染められたソファーだ。一体いつの間にそこに移動したのか、ソファーの背面に両腕を置いて顔を覗き込ませているのは、橋下さんの部屋に一緒に来た案内人さんである。案内人さんが一緒にいるということを忘れていたわけではないが、神崎さんとは別のベクトルで余りにも静かにそこに佇んでおり、案内人さんが話しかけてきたという事実に少々驚いてしまった。

「す、すみません……」
「いや、別にいいんですよ。そういうものなので」

 まるで案内人さんのことを無視してしまっていたような感情になり、思わず謝罪の言葉が口に出てしまうが、それが一蹴りされると、今まではただただこちらを傍観していたらしい案内人さんが、急に案内人という名前の通りの動きを始めた。

「相谷さんは、これからどうしますか?」
「これから……?」

 唐突な質問に、僕は思わず首を傾げた。これからというと、いわゆる僕がこの場所を出て行くまでということだろう。しかし、どうすると言われても、いまいちピンと来ないというのが実情だった。

「相谷さん的にはまだ時間はありますけど、そこの人と、あと橋下さんはここに来てそれなりに時間が経っているので、そういう意味では相谷さんも余り時間が無いと思います」

 神崎さんと橋下さんが一体どれくらい前にここに来たのかは聞いていないから分からないが、滞在日数が七日であるということと、案内人さんの「余り時間が無い」という言葉を上乗せすると、残り半分を切っているのかもしれない。そうだとするなら本当に時間は残り少なく、何か思うことがあるのなら早く行動に移さないといけないということなのだろう。しかし急にそんなことをいわれても、何をどうするべきなのかだなんて、中々すぐ思いつくものでもない。今まで、どれだけ何も考えずにここに存在していたのかがよく分かる状態だ。

「……橋下さん、今どこに居るんですか?」

 だからといって、時間は当然待ってはくれない。仮に何も思いつかなかったとしても、橋下さんの居場所は聞かなければいけないような、そんな気がした。

「向かいの階の屋上に居ると思いますよ」
「屋上……」

 屋上と聞いて、僕は思わずつばを飲んだ。あの時、僕が屋上から飛び降りようとした時のことが頭をよぎったのだ。最も、この期に及んでそんなことは余り思い返したくはないが……。

「橋下さん、僕に会ってくれるかな……」

 思わずそう口にすると、神崎さんが少し不思議そうな顔をした。ここでは確かに橋下さんには一度会ったし、会話もしたのだが、それとこれとは話が別である。
 きっと橋下さんは、僕の記憶がないと聞いて僕のところに来たのだろう。そうじゃなきゃ、いくらここが特殊な空間だからといって、あんな別れ方をしてしまったにも関わらず会いに行こうとはならないと思うのだ。少なくとも、僕だったらそんな勇気はないだろう。それとも、やはり橋下さんはそれくらいの勇気を最初から持ち合わせていたということなのかもしれない。

「か、神崎さん……」

 しかし、今はもう状況が違う。

「……なんだよ」
「えっと、その……」

 橋下さんにまた会うには、今度は僕のほうから行かなければならないと、そう思ったのだ。いつもは橋下さんのほうから僕に会いに来ていたが、いい加減そうではいけないと思ったのである。
 神崎さんは、少し面倒くさそうに投げやりに返事をした。言葉を続けることを躊躇ってしまったが、出来れば神崎さんと一緒に行きたいと、そう思ったのだ。しかし、僕の我が儘に近いことをこの期に及んで頼んでいいものかと、どうにもストップがかかってしまったのだ。

「……顔合わせたって、どうせろくなこと言えないから俺はいい」

 一体どこから何を意図を汲み取ったのか、神崎さんは僕が先に言わなければならないことを、先回りして一緒に拒んできたのである。それは橋下さんには、絶対に会わないという意思表示の表れのようで、どうにも物悲しくなった。

「べ、別に何も言わなくていいので……」

 しかし、それで引き下がるのであれば、こんなことは端から口にすることはない。気づけば僕は、神崎さんの着ている上着の裾を掴んでいた。こんなこと、子供のすることだろうと思いながらも、そうすることしか出来なかったである。この時ばかりは、そう簡単に引き下がってはいけないと、そう思ったのだ。
 もし次に断られたらどうしようなどと考えようとした、そのときだった。

「……俺は会わない」

 そうやって言って退けると、神崎さんは僕の右腕を掴み返してきたのだ。なんの準備もしていなかった僕をそのまま引っ張り、強引に扉を開けて橋下さんの部屋を出ることになってしまった。部屋を出て行く少し前、後ろを振り向くと案内人さんは悠長に手を振っていた。どうやら止める気は一切ないらしい。

「か、神崎さん……?」

 言っていることとやっていることの整合性がとれない神崎さんの行動に、僕はただただ驚いて後ろをついていくしかなかった。
 僕の言葉に見向きすることもなく、神崎さんは前だけを見て歩いていく。廊下を早足で通り抜け、少しだけ見慣れた受付にたどり着こうとしたとき、神崎さんの歩みが少しずつ遅くなっていった。ちょうどカウンター前。恐らくはこの建物のちょうど中腹で、僕たちは立ち止まった。

「俺はあいつには会わない」

 この短い期間の中、神崎さんは二度も同じことを口にした。

「だから、付き合うのはここまでだ」

 しかしそれでも、神崎さんは僕の腕を離すことはしない。その力は先ほどよりもかなり落ちており、もはや手を添えているだけに近かった。僕が意識をしないと、外れていってしまうほどだ。

「そ、そんなに嫌なんですか? 橋下さんに会うの……」
「嫌だよ」

 この時の神崎さんは、清々しいと思ってしまうほど神崎さんらしかった。
 最初、神崎さんがどうしてこんなに橋下さんに会うことを拒んだのかがよく分からなかったが、よく考えれば、僕だってそうだった。

「お前らを連れて帰れるならいくらでも付き合うし文句の一つでも言ってやるけど、そうじゃないだろ」

 理由は当然違うだろうが、僕も橋下さんと屋上にいる夢を見た後、橋下さんに会うのをどうにも躊躇った。神崎さんに会うのだって、案内人さんが取り繕ってくれなかったら今も会っていないかもしれない。
 だから神崎さんが橋下さんに会いたくないと言うのは、恐らくそれに通ずるところがあったのだろう。

「だから俺は、お前に会うのも嫌だったんだよ」

 拒絶というよりは、そう簡単に会ってはいけないという意思の表れであるような、そんな気がした。
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