31話:ニセモノは逃げ切る

 ――酷く散々な人生を送ってきた。そうやって軽快に言えるような性格だったら、まだマシな世界が見えていたのかもしれない。そう思うことが幾度かあった。
 大抵の人たちは自分が送ってきた人生の尺度でモノを見ているわけだが、オレの過去を知った人物は、一体どういう感情をオレに持ち合わせるだろうか? それを考えるだけで、胸に何かが溜まっていくような感覚に苛まれて嫌な気持ちになる。だから金輪際思い出すことはないだろうし、思い出したくも無い話である。
 ……最も、思い出せる頭はもうなくなっているのだから、今後はもうそういったことも起こるはずがないのだが。

 オレがまだ小学生の低学年の頃の話だ。母はたいそう素敵な人だったが、父はそれとは真逆で、働いているにも関わらずとにかく金がない人間だった。
 それだけならまだしも、母が「お金は渡せない」と口にすると、暴力こそしない人だったが、途端に機嫌が悪くなりモノに当たるような人だった。辛うじてというのが適切かどうかは分からないが、その矛先が人に向かなかったことだけが幸いだったのだろう。あくまでも、マシというだけのことではあるが。
 だが、その生活はそう長くは無かった。父が人身事故を起こして死亡したのだ。それは夜中の終電間際のことで、酔っ払った父が踏切を無視して渡ったところに電車がそのまま突っ込んだのである。
 どうやら父は、自分の甲斐性のなさをアルコールで発散していたようで、飲み屋でどれほど自分が駄目な男であるかを喋り尽くし、迷惑をかけていること自体は自覚しているようだった。
 しかしそれもおかしな話で、つまりは母にせびったそれを酒に使っていたわけだ。迷惑をかけているという自覚があったのか無いのか、それとも中毒と呼ばれるものの所以なのかは専門家ではないから分からないが、結局は酔っ払って人身事故を起こしてしまったのだから、とてもじゃないが同情する気が起きることではなかった。
 どちらにしても父の死は、幼いながらに思い描いていたものとはかけ離れていた。あっけなかったのだ。散々迷惑をかけておきながらこうも簡単に死んでしまうのだから、どうせなら人に恨まれない生き方をすればいいのにと、そう思った。
 父の葬儀は執り行われなかった。こんなことを言うのもどうかと思うが、父がお金をせびってくるような家庭にそれを出来るお金があるわけがなく、母もそれをするつもりが毛頭なく、オレに至っては亡骸を見ることすらなかった(時を経て知ったが、轢かれたサマは見れたものではなかったらしい)。
 警察の調べが終わってから数日後、すぐに火葬するに至った。身内のみで行われたというのもあってか、その身内も両手で数を数えても指が余ってしまうほどだった。
 母の旧姓である柳家の人たちは来ていたものの、父側の身内はそう多くはなく、葬儀場と違って火葬場はとても辺鄙なところにあって来るだけで疲れてしまい、正直なんの為にオレが居るのかもよく分からなかった。
 いかにも形式的なそれに飽き飽きしたオレは、一旦ロビーに集まってそれが燃やし終わるのを待っている間、気付けば一人外に出ていた。その行動理由は、今でもよく分からない。つまらなかったと言えばそれはそうだし、勝手にやっててくれとも思っていたし……一言でいうのなら面倒臭かったのだ。形式的なことをしている時に投げ出さなかっただけマシだと思う。
 そこがどこだかはよく分からなかったが、火葬場の敷地内の庭のような場所だったのだろう。この時はオレだけしかいなかった。それが寂しいかと言われればそうでも無く、どちらかと言うと有り難かった。何故か鼻水が落ちてきそうになり、仕方がなく鼻をすする。喉の奥に違和感が残るのだけが嫌だったが、今はそうするしかなかった。
 寒空の下にあてられて思い出したが、そういえば今日は雪が降っていた。何も考えずに上着も着ずに外に出てしまったのを少々悔やんだが、だからといって戻ろうとは思わなかった。

「……なにしてるの?」

 恐らくその数分後、一人の人物がオレに声をかけてきたのをよく覚えている。せっかく一人になれそうだったのに、この人物はそれは台無しにしたのだ。

「別に、なにもしてないよ……」

 突然現れたとある人物の手には、どういうわけかオレの上着が持たれている。 柳 祥吾(やなぎ しょうご)というオレより三つ上の従兄弟は、オレに頭にその上着を雑に被せた。

「ここじゃ寒いし……戻ろうよ」
「戻ったって、面白くないもん」オレの声はみるみるうちに小さくなっていく。視線も地面に向かい、一体誰に向かって喋っているかもよく分からなかった。
「まあ確かに……面白くはないけどさ」

 本当、こんな状況には全く合わない会話であるという自覚はあった。まるで親戚が集まっている中馴染めなくて外に出てきた子供のようだ。まあ似たようなものだが。
 冷たい塊が鼻を掠めていく。オレは思わず、被せられた上着を手に取り袖を通した。

「キョウはさ、悲しくないの?」

 誰かと喋りたいわけでもないのに、祥吾はそれを許してはくれない。

「分かんない」

 分からない、というのはある意味嘘で、本当は悲しいという感情が湧いていないというのが正しいだろう。
 淡白で薄情と言われてしまうだろうが、父は散々人に迷惑をかけて勝手に死んでいった。それなのに、外面だけは良かったせいで「好い人だったのにね」と言っているのを近所の人が言っているのが耳に入ったことがある。周りは騙されているということに気付いていないのがどうにもムカついて、その時思わず「なんだそれ……」と口にしてしまった程だ。
 祥吾は「そっか」と言うだけで、それ以上のことは聞いてこなかった。何か言われたら文句を口にしてしまいそうだったから、会話が続かなくて安心してしまっていた。
 既に始まっていることだが、家に帰っても父はどこにも居ない。母にお金をせびることも、機嫌が悪くなってモノに当たることもしない。家の中はとても静かだ。家の中が平和で嬉しいという感情と、いなくなって悲しいという感情を嘘でも見いだせない自分に呆れており、今もその最中だった。

「じゃあ、俺も暫くここに居よ。別に今すぐ戻らないといけないわけじゃないし。……寒いけど」

 ドサリと音を立てて、どういうわけかこの人物は隣に座った。オレの視線に合わせ、こんなことを言う。

「キョウのお父さん、あんまり好い人じゃなかった?」その話は既に終わったと思っていたから、いつも以上に心臓が跳ねたような気がした。
「……分かんない」

 いなくなって良かったと思っているにも関わらず、何故かふと、涙が出そうになる時がある。
 でももう会わなくていいのかと思うと、清々しい気持ちがあったのは事実だ。
 それは余り伝えてはいけない感情であるというのを、幼いながらに分かっている自分も、なんだか嫌だった。

「早く、家帰りたいな……」
「あと二時間後くらいには帰れるよ」
「長いよ……」

 その後、この柳 祥吾という人物は、オレを無理矢理連れ戻すでもなく気の利いたことを言うでもなく、ただただ横について座っていた。オレから何かを話すんじゃないかと期待していたのかもしれないが、当時にオレには何か言えるようなことが思いつくはずもなかった。最も、成長した今何かを聞かれても、オレは答えないだろう。
 静かに落ちていく雪は、まだ止む気配がない。予報なんて覚えていないが、どうせこの雪もいずれは溶けて消えて無くなってしまうのだろう。頬に落ちてきたそれが、すぐに消えていってしまうのと同じだ。

(なんであんな人の為に、こんなに時間を使わないといけないんだろう……)

 あとどれだけの時間、こんな気持ちでいないといけないのだろう。そんなことばかりを考えていた。
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