31話:ニセモノは逃げ切る

 どういうわけか、これまで思い出すことなんて殆どなかった昔のことを少しだけ思い出してしまったのは、きっと今の状況が誰にでも起きることではないという特殊下であるからに違いない。
 屋上からの景色は、周りを囲う淡い色のせいで、どんなに下を覗いても地面が見えることは無い。恐らくは想像のできないくらいに遠く、果てのない地面には一体何があるのだろうか。例えばオレらの居た世界に辿り着くのか、それとも、もっと最下部にまで堕ちてしまうのか。それを確かめる程の勇気は、今更あるわけがなかった。
 何処から吹いているのかも分からない僅かな風に合わせて髪が揺れ動くのは、さながら自分の乱れた心のようで少しだけ煩わしく、今の自分の髪型に恨みを抱いてしまいそうだ。
 特に何をするでもなく、タイムアウトと呼ばれている場所の屋上にひとりで居る理由は、単純に自分の部屋に居るのがどうにも躊躇われたからである。赤だけの色にまみれた部屋になんてとてもじゃないけどすっとなんて居られないし、それが自分の魂の色とか言われたら尚更だ。
 あんな場所、見ているだけで目がおかしくなってしまうし、それくらいの理由がなければ、こんなところになんてわざわざ足を運ばない。
 そういえば、オレは相谷くんに「いつでも来ていいよ」と言ったような気がするけど、もしオレの部屋に訪れていたとするなら、いつでも来ていいよと言ったくせして居ないのかと思われてしまうのだろうか? まあそれはそうなので弁解の余地は無いのだが。
 今の彼にその余地があるかは流石に分からないし、この期に及んでどう思われていようが特別なんとも思わないけど、それでも、僅かではあるものの罪悪感というのはつきまとう。そう思うくらいなら、そんなこと言わなければ良かったのに。そんな声が何処からか聞こえてきそうで、オレは苦笑を浮かべた。

『色々と隠してるの、結構お互い様だと思うんですけどね』

 本当に、言わなければこんな感情にはならなかったかも知れない。

「……先輩、やっぱり怒ってるかな」

 ここには居ない先輩のことだから、きっとオレのことを怒ってるんじゃないだろうか。怒る相手がいなくて、悶々として。でもそれを誰かにいうことはきっとしない。
 ああいや、もしかしたらあの人になら言うのかもしれないな。そんなことを考えていると、自然と頬が緩む。但しそれは、どうやっても苦笑いの類いだ。

「やっぱり、敵わないや」

 想像すればするほど虚に溺れるだけなのに、どういう訳か止まることは無い思考に、言葉をもって無理矢理終止符を打つ。ああ本当に、面倒な記憶なんて持ってくるからこういうことになるんだ。面倒な記憶というよりも、それを起こした自身ごとさっさと消えてしまえば良かったのに、どうもそう簡単にはいかないようだ。
 死んでも尚、不条理を味わうとは思わなかったし、かつ知り合いに会うなんて普通は思わないだろう。話の中ではそういうこともあるだろうが、現実にそんなことが起きると信じていないオレのような人間からしてみたら、今の状況はとても煩わしかった。
 特に、神崎先輩がここにいるというのは本当によく分からなかった。本来ここに縁なんてない人だろうに、こんなところに来てしまうだなんてと不憫に感じた。事故にあったというのは聞いたし、どういう経緯でそういうことが起きたのかという見解も聞いたけど、実際にそれを見ていないオレからしてみれば、そんなことを言われたところで信用するというほうが難しい。
 だが、先輩がこんなところに来られるというのは、なんというか……先輩ならそれもあるかもしれないと、どういうわけか思ってしまう自分もいた。
 支配人とかいう人は「ごく稀にそういうことも起こる」とは言っていたけど、それってつまり確率としてはかなり低いということで、普段ならあり得ないことなのだろう。

「……考えたところで今更か」

 何度も何度も、本当に飽きもせず似たようなことを考えては打ち消して。誰にも会いたくないからって、わざわざこんなところに足を運んで。
 見上げると視界に入る、空に浮かんでいるのは恐らくは雲なのだろうけど、とにかく淡くいろんな色に染まっているのがよく分かる。果たして、オレの本当の色はどこにあるのだろう。そう思ってしまうほどに、だ。
 魂の色がどうとか、部屋の色がそれを現しているんだとか、果たしてどこまでが本当なのだろう。こういう異端的な場所に来れば、そう簡単には信じられないというものだが、こういう場所だからこそ嘘は落ちてはいないのだろうか? ……まあどちらにしても、オレには関係のないことなのだが。

「早く終わらないかなぁ、こんな時間」

 ここに来るまでの道を思い返すかのように、手すりに寄りかかりそのまま地面へと体重を落としていく。その時ふと一瞬見えた、色のついていない景観。あの時、相谷君と出会った時の空は、果たして何色だっただろう。青かったというのは分かる。それは当然だ。でも、オレの言いたいことはそういうことじゃない。
 オレの思い描くあの景色が、果たして本当に正しいのかという答えが知りたいのだ。この場所において、それが分からないのが何とももどかしいと思える程に、オレは――。

「……案内人さんが言ってた意味、何となく分かったかも」

 オレは恐らく、優しく香る春の陽気が好きだったのかもしれない。
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