09話:クチナシが馨る
――時間は、刻一刻とひとつの事象へと向かっていく。
「か、神崎さんっ」
六月の上旬の話だ。つまりは、雅間のそれが起きるほんの数週間前のこと。
小さな声で、誰かが俺の名前を呼ぶ声がする。後ろを振り向くと、そこには当たり前のように雅間の姿があった。
「……お前、暇なのか?」
「そ、そんなことないですよ!」
最もらしい言葉を口にはしたけど、勉強するだけだったら別に家でいい訳だから、結局はこいつと理由は大して変わらなかったのかも知れない。
図書館に来るたびにいつも出会うこいつ。大げさかも知れないが、行くたびにほぼ毎回会っているような気がしてならない。お互いに別の高校のだから普段会うことがない分余計そう感じているのだろうが、それが特別嫌だという極端な話になるわけでもなかった。雅間がいない日は何となく探してしまっているのは事実だし、見つけたらそれこそ目で追ってしまう。だが、決してそれ以上の何かがあるわけではない。俺に限ってはの話だ。
「……飽きないな。その作者の本ばっかり読んで」
雅間が手にしているのは、大分前に俺が手に取ったフェア・ウェルが書いた例の本だ。
「はは……。この本、家にも一応あるんですけどね」
「……家で読むんじゃ駄目なのか?」
「だ、駄目じゃないですよ? 駄目じゃないですけど……」
そう言いながら、雅間は間隔を開けて俺の左隣りに腰をおろす。一時の静かな空間が、辺りに蔓延っていた。
「あ、あのっ……」
「……何?」
それはもう、この静寂にすらかき消されてしまいそうな小さな声で雅間が話しかけてくる。なんというか、それはいつもの雅間にしてはらしくない行動に見えた。俺たちは図書館で会っても別に何かを話すわけでもなかったし、話す、という部分だけでいうのなら、せいぜい帰り際に鉢合わせてしまった時くらいだ。
図書館という静かであることが前提としている場所だから敢えて話さないようにしているのか、それとも気を使っているだけなのか、はたまた別の理由があるからなのか。俺に分かる術などない。
「えっと、その……。私の家にあるクチナシの花、あともう少しで、咲きそうなんですよ」
「ふーん……」
「だから、その……」
小声で話している分、言いよどむ彼女の声が余計に聞き取りづらくなっていく。次に発せられた言葉は、まるで取ってつけたようなものに聞こえた。
「は、早く咲いたら……いいなあって」
「……あ、そう」
話がかみ合っているようないないような、結局雅間が何を言いたかったのかよく分からなかった。クチナシの花が咲きそうだから。その先に繋がる言葉は、本当に「早く咲いたらいいな」だったのだろうか?
なんというか、もう気になって集中出来ない。だが、それを聞きなおすという行為はどうしても胆力が必要だった。クチナシの花がどうとかいう話、確かにいつだったかに雅間としたような気がしないでもないが……。
しかし、口にするのが無理だと一口に言っても全く方法がないわけではない。既に左手に握りしめられていたシャープペンシルは、俺の意思をもって目の前のノートに文を書き連ねていった。それは、至極簡単であるにも関わらず口から出ることを拒んだ言葉。殴り書きのようなそれが書かれたノートを、俺は左に座っている雅間にわざとらしく寄せる。この時の俺には、自身の心臓の音しか聞こえていないし、雅間がどういう表情をしているのかなんて何も分からない。何故なら、俺は雅間のいない方向へと顔を向けているからだ。
たった一言、雅間に向けられて書いただけのそれが、どうしてこんなにも俺の心臓を動かしているのだろうか? どうして、雅間の顔を見れないくらいに動揺しているのだろうか?
『……見に来いってことか?』
どうして、このたった一言がいえないのだろうか?
……そんなこと、俺の知ったことではない。あり得ないことではあるけど、図書館に蔓延る静寂に俺の心臓の音が響いているような、そんな気がした。
ノートが俺のひじをつく。それは、雅間が返事をよこした合図だったのだろう。ちらりと、ノートの端に書かれているそれを視界に入れた。
『き、来てくれるんですか?』
その一言を見て、俺は思わず雅間の顔を見る。そこで今日始めて顔を合わせたかのような新鮮さに、思わず目を見開いた。そこには、俺が今まで体験したことのないような、言いようのない感情が含まれているような気がしたのだが、当の俺にはそれはまだ理解が出来ないでいる。表現することの出来ないこの感情に合わせ、雅間の顔を真っ直ぐに見ることが出来ないくらいに俺は馬鹿なのだ。
「……暇だからな」
そんな言葉すら雅間のことを見ながら言うということが出来ないくらいに、恐らくは大馬鹿者だ。
「か、神崎さんっ」
六月の上旬の話だ。つまりは、雅間のそれが起きるほんの数週間前のこと。
小さな声で、誰かが俺の名前を呼ぶ声がする。後ろを振り向くと、そこには当たり前のように雅間の姿があった。
「……お前、暇なのか?」
「そ、そんなことないですよ!」
最もらしい言葉を口にはしたけど、勉強するだけだったら別に家でいい訳だから、結局はこいつと理由は大して変わらなかったのかも知れない。
図書館に来るたびにいつも出会うこいつ。大げさかも知れないが、行くたびにほぼ毎回会っているような気がしてならない。お互いに別の高校のだから普段会うことがない分余計そう感じているのだろうが、それが特別嫌だという極端な話になるわけでもなかった。雅間がいない日は何となく探してしまっているのは事実だし、見つけたらそれこそ目で追ってしまう。だが、決してそれ以上の何かがあるわけではない。俺に限ってはの話だ。
「……飽きないな。その作者の本ばっかり読んで」
雅間が手にしているのは、大分前に俺が手に取ったフェア・ウェルが書いた例の本だ。
「はは……。この本、家にも一応あるんですけどね」
「……家で読むんじゃ駄目なのか?」
「だ、駄目じゃないですよ? 駄目じゃないですけど……」
そう言いながら、雅間は間隔を開けて俺の左隣りに腰をおろす。一時の静かな空間が、辺りに蔓延っていた。
「あ、あのっ……」
「……何?」
それはもう、この静寂にすらかき消されてしまいそうな小さな声で雅間が話しかけてくる。なんというか、それはいつもの雅間にしてはらしくない行動に見えた。俺たちは図書館で会っても別に何かを話すわけでもなかったし、話す、という部分だけでいうのなら、せいぜい帰り際に鉢合わせてしまった時くらいだ。
図書館という静かであることが前提としている場所だから敢えて話さないようにしているのか、それとも気を使っているだけなのか、はたまた別の理由があるからなのか。俺に分かる術などない。
「えっと、その……。私の家にあるクチナシの花、あともう少しで、咲きそうなんですよ」
「ふーん……」
「だから、その……」
小声で話している分、言いよどむ彼女の声が余計に聞き取りづらくなっていく。次に発せられた言葉は、まるで取ってつけたようなものに聞こえた。
「は、早く咲いたら……いいなあって」
「……あ、そう」
話がかみ合っているようないないような、結局雅間が何を言いたかったのかよく分からなかった。クチナシの花が咲きそうだから。その先に繋がる言葉は、本当に「早く咲いたらいいな」だったのだろうか?
なんというか、もう気になって集中出来ない。だが、それを聞きなおすという行為はどうしても胆力が必要だった。クチナシの花がどうとかいう話、確かにいつだったかに雅間としたような気がしないでもないが……。
しかし、口にするのが無理だと一口に言っても全く方法がないわけではない。既に左手に握りしめられていたシャープペンシルは、俺の意思をもって目の前のノートに文を書き連ねていった。それは、至極簡単であるにも関わらず口から出ることを拒んだ言葉。殴り書きのようなそれが書かれたノートを、俺は左に座っている雅間にわざとらしく寄せる。この時の俺には、自身の心臓の音しか聞こえていないし、雅間がどういう表情をしているのかなんて何も分からない。何故なら、俺は雅間のいない方向へと顔を向けているからだ。
たった一言、雅間に向けられて書いただけのそれが、どうしてこんなにも俺の心臓を動かしているのだろうか? どうして、雅間の顔を見れないくらいに動揺しているのだろうか?
『……見に来いってことか?』
どうして、このたった一言がいえないのだろうか?
……そんなこと、俺の知ったことではない。あり得ないことではあるけど、図書館に蔓延る静寂に俺の心臓の音が響いているような、そんな気がした。
ノートが俺のひじをつく。それは、雅間が返事をよこした合図だったのだろう。ちらりと、ノートの端に書かれているそれを視界に入れた。
『き、来てくれるんですか?』
その一言を見て、俺は思わず雅間の顔を見る。そこで今日始めて顔を合わせたかのような新鮮さに、思わず目を見開いた。そこには、俺が今まで体験したことのないような、言いようのない感情が含まれているような気がしたのだが、当の俺にはそれはまだ理解が出来ないでいる。表現することの出来ないこの感情に合わせ、雅間の顔を真っ直ぐに見ることが出来ないくらいに俺は馬鹿なのだ。
「……暇だからな」
そんな言葉すら雅間のことを見ながら言うということが出来ないくらいに、恐らくは大馬鹿者だ。