二つの顔

第二幕 其ノ一

今日はいつもより早めの時間に退院することができた。きっと中里が専門医に掛け合ってくれたんだろう。僕と中里は入院のための大きなカバンを後部座席に乗せ、そのまま被害者宅へ向かうことにした。なんでも、中里はこの事件を請け負ってから、もう一度参考人である被害者の母親と父親に話を聞きたいらしい。急なお願いであったことから、普段では警察署で行われる事情聴取だが、今日の午前中に、二人に自宅で話を聞くことにしたのだそうだ。
 車を走らせて約20分。低木と竹の塀に囲まれた、青い屋根の白い一軒家の前に止まった。低木の左側には大きめの門があり、門を開くと車が二台ほど止められるスペースがある。しかし今はシルバーのセダンと黒いCR-Vが止まっている。中里は車を路肩に止め、玄関入り口である門扉に向かう。僕は助手席を下りそのあとを追った。
 門扉を支えるレンガ調の壁の表札には野本の文字が見える。そのデザインは低木や竹の外壁とは似つかわしくないモダンな雰囲気をまとっていた。そして門をくぐると石造りの入り隅が僕らを玄関に招いていた。
 門をあけ、敷居をまたぐとズシンッと空気が一瞬にして重くよどんだ。頭のてっぺんと肩に重い毛布が掛けられているようだ……まだ玄関に入ってもいないのにこの敷地内だけ空気の循環が悪いように感じる。家の周囲を見渡すも、二階建ての家以外に高い建物などない。
「龍、どうした?虫でも飛んでたか?」
 中里はこの違和感を感じないらしい。
「いや……後で話すよ。」
「わかった。気になったことがあったら、覚えとけよ。」
「あゝ」
 そういうと中里は呼び鈴を押した。

 呼び鈴を押して数分も経たずにはぁーいと返事をする声がし、ドアが開く。
「ぅぐッ……」
 ドアが開いたと同時に僕は吐き出しそうな声を咄嗟に手でふさいだ。
 何なんだ……あれは。
 玄関の戸を開けたのは被害者弘樹くんの母親だった。何度か染め直しているような茶髪をきれいに後ろに束ねている。二十代前半にも見える若々しい奥さんだ。でも、僕の目を奪ったのはそんなことじゃない。彼女の肩に乗る黒くもやもやしたものだ。それは奥さんの全身を覆っているように見えたが、特に肩や頭のあたりにかけて重くのしかかっているようだった。
「龍!だ、大丈夫か?早く退院しすぎたか?」
「だ、大丈夫ですか!?」
「す、すみません。僕の甥なんですけど、さっきまで入院していて急に動いたのが悪かったみたいです。」
「中里、僕は大丈夫だから!多分、ちょっとした脱水症状だよ!ほら、車の中も暑かったし」
「あら!それはよくないわ!早く中に入ってください、冷房もつけてますし!お水用意しますね!」
「すみません。ありがとうございます。」
 奥さんの誘導に従い、僕と中里は玄関の戸をくぐる。
 家の中の作りはモダン的な外見とは裏腹に、引き戸になっている古く傷んだ靴箱や襖が目につく。おそらく痛んだ部分をリフォームしたんだろう。家の中も玄関外と同じように空気が重い。
「そうか……」
 僕の憶測でしかないが、中里の言っていた、この事件にかかわった警察や刑事が相次いで体調不良に悩まされているのは、このよどんだ空気が原因なのかもしれない。
 僕のように霊が見えたり、オーラを感じ取る力があるものには窮屈に感じるこの建物。しかし、中里のように霊感がないものには感じられない。感じられないが身体へのダメージは多少なりともあるはずなのだ。
「何か言ったか?龍」
「中里、あまり長居はしないほうがいいかもしれない。」
「ん?わかった。じゃ、俺は早速一人ずつ取り調べしてくるから、龍はあそこの襖があいている客間で待っていてくれ。」
 そういうと中里は居間のほうに案内されて行った。
 中里に言われたとおりに、客間に足を運ぶと、6畳ほどの畳の部屋の中心に座卓がおかれ、両脇には二枚ずつ座布団が敷いてあるようだ。
「どうぞ、そこに座ってくつろいでいてください。」
 襖の前で立ち呆けている僕の背後から男性の声がした。振り返ってみると、少し天パがかった黒髪の長身の男が水の入ったコップを持って立っていた。きっとこの人が弘樹くんの父親だろう。
「ありがとうございます。」
 僕はそう言って手前右側の座布団に座った。その男は水の入ったコップを僕の目の前に置き、僕とは対角線上の座布団に座った。
 それから数分、コップの水をいただきながら落ち着かない空気が流れていた。廊下の反対側の部屋からは中里と奥さんの声が聞こえる。二人が話しているのは聞こえるが、会話の内容までははっきりとは聞き取れない。
「あの……この度はお気の毒さまでした。捜査も難航しているようで……」
「ん?あゝ……弘樹はきっと帰ってくる。俺はそう信じてる。」
「僕も、中里や警察の方々が弘樹くんを見つけてくれると信じています。弘樹くんのこと少し教えていただけませんか?」
 そう質問するとその人は淡々と話を始めた。

「弘樹はとてもおとなしくて私と優美の話をよく聞いてくれるとてもいい子だったんだ。いつも帰ってきたら玄関にでむかえてくれたし、終わった宿題なんかも自慢げに見せてくれていた。とてもいい子なんだが、学校ではよくはしゃいでいるらしくて、よく腕とかにけがをして帰ってきていたよ。それが、もっと小さかった頃の弘樹を見ているみたいで懐かしく感じた時もあった。4歳くらいまではすごくやんちゃな子だったからね。」
「おとなしい性格になった原因とかはあるんですか?」
 その質問を聞いたとき、彼は少し話すことをためらったかのようだった。
「あまり深い話は聞いていないのだが、優美の妹が失踪したかなんかで、優美の様子が一時期おかしかったんだ。」
「弘樹くんのお母様には姉妹がいらしたんですね」
「俺は実際には会ったことがないし、話もあまり聞いたことがないんだ。優美の実家に行ったことも片手に入る程度だったし、会う機会は少なかったんだ。優美はきっと、妹を無くしてすごくショックだったんだろうね、一時期精神病院に通っていたこともあった。その時くらいかな、弘樹の性格がおとなしくなっていったのは……」
「そんなことがあったんですね。」
「でも、この家に引っ越してきてからは優美も地元のことを忘れられたみたいで、落ち着いてきてね。」
 そういうと彼の表情は少し穏やかになり、部屋を懐かしそうに見渡していた。
 そんな会話をしていると、居間のほうから奥さんが泣いている声がしてきた。
「ちょっと様子を見てくる。」
 彼はそう言って立ち上がり、部屋を出て廊下を進んでいく。襖をノックし、大丈夫かと心配する声が聞こえた。その後襖を開ける音がしたので、旦那が居間に入り、奥さんをなだめている想像が容易にできた。しばらくすると旦那が中里と話し始めたので、おそらく様子を見てそのまま彼の事情聴取に移ったのだろう。

 僕しかいなくなった客間は静かで少し心細かった。この客間は僕の背後の壁以外は襖に囲まれており、僕から向かって正面の襖は廊下を挟んで居間があり、左側は廊下を挟んで台所に続いている。そうなると、右側は縁側か、もう1つ部屋があるということになる。もともと日本家屋のような作りのこの家としては、今現在彼らが居間として使っている部屋が客間なのではないか……。とは考えてはみるものの、それはその家庭の好みだろう。
 そんなことを考えながら、空になったコップを右手に持ち台所へ進む。この家の妙な空気はいまだに変わらない。この空気の原因は優美さんを覆っていたあれなのか、全く関係がないのか答えがはっきりしない。なんせあんな黒い靄が人を覆っているところを初めて見た。
 コップの底が流しに接触する瞬間……。

 あぁ。
 誰かが背後から僕を見ている。

 ポツン。ポツン。蛇口が落とす水滴は部屋全体に音を響かせる。
 何者かもわからない視線が僕の背中を刺す。動いてはいけない。自分の呼吸音が相手に伝わりそうだ。

 ポツン――。
「誰だ!」
 手をコップから離す間も与えずに振り返り叫ぶ。

 ダダダダダダダダダッ。
 誰かが廊下に向かって走っていく。
 勢いよく台所を出ると同時に居間の襖があいた。
「龍!人様のおうちの中で走る……な……。」
 中里は言い終わる前に台所前の廊下にいた僕に気づいた。
 そんな中里の様子を見た野本夫婦も何事かと廊下に顔を覗かせる。
「今、ここの廊下を……。」
 僕が廊下を走った人物ではないことを悟った中里は恐怖で言葉を詰まらせた。
「中里にも聞こえたのか。」
「私たちも聞きました。」
 野本さんも咄嗟に答えた。
 足音が消えていった廊下に目をやると、子供の影のようなものが立っていた。
「弘樹くん……?」
 僕がそう声をかけるとその影は客間の隣の部屋に消えていった。
「弘樹か!?弘樹が帰ってきたのか!?」
 野本さんは弘樹くんの名前を聞くと同時に顔の表情が、少し和らいだ気がした。
「龍、何を見たんだ。」
「子供の影だよ。残念ながら、人ではないし、弘樹くんかどうかはわからない。そこの部屋に消えていった。」客間の隣の部屋を指さす。
 野本夫婦は僕のその言葉を聞き、再度表情を曇らせた。
「すみませんが、客間の隣の部屋は?」
「弘樹が勉強したり遊んだりしてた部屋です。」
 野本さんが答える。
「拝見してもよろしいですか?」
「はい……。」

 中里を筆頭に僕たちはその部屋に向かう。
 中里は恐怖で顔も、手もひきつっている。今大声で脅かしたら腰を抜かすだろう。気休めにと思い、僕は中里の腕に手を回す。
 それに気づいた中里はゆっくりと呼吸を整え、ゆっくり引手に手をかける。夫婦の様子を伺い、一気に戸を開ける。

 スッ――。

 暗闇とじめっとした空気が僕たちの脚にまとわりつく。
「明かり、付けますね。」
「あなた、足元きをつけて。」
「ああ。」
 野本さんはそういうと部屋の中心に向かって歩き、照明から垂れる紐を手探りする。
 カチッ。
 ヴゥゥゥゥゥゥ。カチン。カチッ。
 照明は鈍い音とともに点滅しながら錆びれた明かりを部屋に落とす。
 その部屋は客間と廊下、縁側に囲まれており、日中でも全くと言っていいほど明かりが入らなかった。
 畳のかびた匂いとじめじめした重い空気が漂う。
 六畳ほどの部屋には、小さな一人用のテーブルに学校のノートと筆箱、鉛筆が散乱しており、畳はところどころほつれ、色あせが目立つ。奥の壁には最近購入したようなきれいなタンスと仏壇が置いてある。
「龍、本当にこの部屋にはいっていったんだな?」
「うん。」
 廊下が暗かったが、その”影”を僕の左目はとらえていた。
 中里は敷居をまたぎ、部屋の中心に進む。僕は廊下に立ったまま二人の様子をうかがう。
 この時、なんとなくだけど部屋に入ってはいけないと思った。いや、頭ではなく体がそう感じた。手が届く距離で優美さんが廊下に立っている。この人に近づいてはいけない、近づいたら彼女を覆う黒い靄に当てられそうだ。
「龍、何か見えたりするか?」
「龍君は霊感があるんだね。」
 野本さんは確認するように言った。
「はい。普段からそこらへんにいるのが見えます。けど、今この部屋には何も見えません。あの、今までこの家で心霊現象や事故があったとかありませんか?」
「この家はもともと俺のじいさんが住んでた家なんだ。ほら、その仏壇もじいさんやひいばあさんからのものでね。古い家だけど事故があったことはないし、心霊現象が起きたのは今日がはじめてだ。……優美?どうした?そんな顔して。」
「ん?あら、ごめんなさい。弘樹が使ってた部屋だったのにちょっと怖くなってしまって……。」
 優美さんがこのときどんな顔をしていたかは知らない。知りたくはなかった。

 取り調べを終えたころにはすでに昼を回っていた。中里と僕は一通り取り調べを済ませて車へと戻る。
「龍、体調は大丈夫か?」
「あぁ、ただこの家の氣にやられていただけだ。中里も家に入る前に塩振っといたほうがいいぞ。」
「どういう意味だよ…… やっぱり龍が見た影のことか?」
「いや、影からはもっと……」
 そうだ。あの影はどちらかと言うと何かの意思を持っていたように思えた。よそ者である僕に気づかせるように僕を見ていた。普通、霊というものはよそ者がその家にいるときはよく姿を隠すが、あの影は僕の注意が欲しかったように思えた。霊の見える人間が珍しかったのだろうか。
「もっと、なんだ?龍。」
 中里の声で我に返る。
「そんなことより、あの奥さん何かが変だ。」
「やっぱり、気が動転していてちゃんと話を聞ける状態じゃなかったな。」
「中里、あの奥さんに妹がいたことは聞いたか?」
「いや、そんな情報はどこにも……」
「野本さんが言っていたんだが、優美さんの妹は数年前に失踪しているらしい。その時は奥さんがショックを受けて精神を病んだみたいなんだ。だから、これで2回目なんだ。奥さんの周りで誰かがいなくなるの。」
「そんなことがまた起きちゃ気も動転するよな……」
「誰かが身の回りで失踪するなんてめったにある事じゃない。奥さんのことをもう少し調べたほうがいいと思う。」
「わかった。署にもどったら調べてみる。」
 そういうと中里は車を走らせた。

「中里は何か有力な情報は得られたの?」
「それがなぁ、事件に関係することはほとんど以前の取り調べととくには変わらなかった。なんでもこの日、弘樹くんが学校から帰ってきたのは4時40分頃。その後5時くらいまで部屋で宿題をしていたそうだ。そして5時ころになると、弘樹くんと同じクラスの宮田真美ちゃん、中田光星くんと一緒に遊びに行ったらしい。そのあと奥さんは一時間ほど夕食の買い出しをして、夕食の準備をしていたところに野本さんが帰宅。野本さんは七時半ころに帰ってきて、その時にはもう弘樹くんの姿はなく、近所に住んでいる宮田さんと中田さんの家に伺い、弘樹くんがいないことを確認。一緒に遊んだあたりを探したが見つからず、警察に通報。」
「じゃあ、次はその二人に、聞き込みしにいくのか?」
「いや、実は昨日のうちに会いに行ったんだ。野本さん宅に近いのが中田光星くん宅。離れている距離はだいたい400メートルくらい。小学生の足でだいたい10分ちょっと。光星くんが言うには、真美ちゃんが最初に光星くんの家に訪ねてきて、どうせなら弘樹くんも誘おうってことで家に行ったらしい。弘樹くんを誘った後、近くの公園で遊んで、帰りは真美ちゃんが5時半ころ先に帰って、その後二人で一緒に帰ったらしい。公園は光星くんの家のほうが近いから、先に分かれて弘樹くんは一人で帰ったそうだ。」
「じゃあ、その10分間に誰かに攫われた?」
「でもそうなると誘拐の目的がわからない。弘樹くんの失踪から三日経つ。身代金要求するならもうしてるんじゃないか?」
 確かに、この失踪事件には目的たるものがないと思われる。野本さん夫妻にお金を要求するとは思えない……。そうなると……。
「もしくは野本さん夫妻に恨みのある人物が優美さんの失踪と今回の弘樹くんの失踪に関係してるのかも。」
「野本夫妻の交際関係や近所の人にもう少し話を聞いてみるか。」
 そういうと中里は僕を家に真っ直ぐ送った。

 数十分僕たちは無言のまま車を走らせる。
「龍、明日は土曜だし学校は休みだよな?」
「うん。」
 それとなく返事を返す。
「俺、今晩は署に泊まると思うから夜待ってなくていいからな」
「別にいつも待ってる訳じゃない。けど、帰ってくるってわかってたら待つだろ、普通。」
「そうか?ふふ、ありがとな。夕飯は作って冷蔵庫の中に入っているから適当に温めて食べるんだぞ」
「ん、ありがとう。」
 別に感謝を述べられるようなことはしていない。ただ、真っ暗な中に一人で帰ってきて、ごはんを食べて次の日の支度をし床に就く。そんな単純な毎日は聞こえが悪いし、二人で住んでいるのだから一日に一度くらいは顔を合わせたいと僕は思う。

 そうこうしているうちに、見慣れた路地に車が入っていく。
 ピロロロロ……。
 家まであと数10メートルもないところで中里の携帯が鳴った。
「はい、こちら中里です。……な、なんだって!?犯人から身代金の要求が!?わかりました。今すぐそちらに向かいます!」
「ここで降ろしていいよ。家すぐそこだし、荷物も持ってくね。」
 ガチャ……。
 中里の返事を聞く前に助手席を下り、後部座席から荷物をとる。
「気を付けて帰れよ!何かあったら井上さんに連絡するんだぞ!」
「わかった。それよりあまり仕事無理しないでね。」
 僕はそう言い残し、帰路に就く。中里の言う井上さんとは家の近所に住む家族のことで、僕と同級生の明里という娘さんがいる。
「明里に週末の宿題でも聞くか……。」
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