Novel
当たり前みたいに
昼休みの教室は、いつもより少しうるさかった。
窓際の席で
「ねえ、河島さんってさ」
声が聞こえたのは、その時だった。
教室の廊下側の方。誰かが、ひそひそと話している。
「上級生と付き合ってるって聞いたけど」
「え、しかも複数人いるって話じゃない?」
「あー、なんか分かる。見た目がそういう感じだもんね」
莉紗は窓の外を見たまま、動かなかった。
また、か。
心の中でそう呟いて、静かに息を吐く。
着崩した制服に、ピアス。少し派手な見た目。それだけで、知らない間にいろんなものを貼り付けられる。遊んでるとか、チャラいとか、なんか怖いとか。
実際に話したことも、一緒にいたこともないくせに。否定したって、どうせ信じてもらえない。
一度だけ反論したことがある。でも「図星だから怒ったんでしょ」と笑われた。
それは経験で分かっていた。言い訳みたいに聞こえるって、何度も思い知った。だから今は、聞こえないふりをする方が楽だった。
強がって、気にしてないふりをして、それで終わりにする。
慣れた。全部、慣れた。
莉紗は静かに立ち上がった。このまま聞き続けるくらいなら、席を外した方がいい。
財布だけ掴んで、さりげなく教室を出る。声のする方には、一度も目を向けなかった。
廊下に出ると、昼休みの喧騒が遠くなった。壁際を歩きながら、莉紗はゆっくりと息を吐く。
小春、どこまで行ったんだろ。
購買は一階だから、途中で会えるかもしれない。そう思いながら階段の方へ向かいかけた時、後ろから教室のドアが開く音がした。
気にせず歩き続けようとした、その瞬間。
——「それ、どこで聞いた話?」
低く、落ち着いた声が廊下まで響いてきた。
莉紗の足が、止まった。
振り返らずに、壁の手前でそっと立ち止まる。廊下から教室の中がわずかに見える角度で、莉紗は静かに息を殺した。
聞き覚えのある声だった。扉の隙間から視線を動かすと、
藍色の髪。いつもと変わらない無表情。黒縁眼鏡の奥に、黄金色の瞳が見えた。
「え……如月くん?」
「見てもいないことを、事実みたいに話すのは良くない」
遮るように、冬人は続けた。
感情的じゃない。怒鳴るわけでもない。ただ、静かに、当たり前のことを言うみたいに。
「河島がどういう人か、僕はまだ知らない。でも、噂で決めつけるのは違う。それだけだ」
それだけ言って、冬人は視線を手元の本に戻した。
教室がしんと静まり返る。
噂をしていたグループは、気まずそうに口を閉じた。
莉紗は廊下で、壁に背中を預けた。
心臓が、どくりと跳ねた。
……何、今の。
如月冬人。クラス委員で、頭が良くて、いつも静かな男子。ほとんど話したことがない。むしろ、自分のことを苦手だと思っているんじゃないかと勝手に思っていた。
なのに、あいつは。
庇ったわけじゃない。感情的になったわけでもない。ただ、「違う」って言った。それだけなのに。
目の奥が、じわりと熱くなる。
泣くな、と莉紗は思った。こんなところで泣いたら、全部台無しだ。
でも、分かってしまった。
誰かに否定してもらうのを、ずっと待っていたんだと。
声を荒げなくていい。かっこよくなくていい。ただ、当たり前みたいに「違う」って言ってくれる人が、ずっとそばにいてほしかったんだと。
「……最悪」
壁に頭をもたせかけて、莉紗は小さく呟いた。
こんな形で気づくなんて、思ってもみなかった。
しばらく廊下に立ち尽くしてから、莉紗はゆっくりと目を閉じた。瞼の裏に、無表情のまま本に視線を戻した冬人の横顔が浮かぶ。
黄金色の瞳。
眼鏡の奥で、静かに揺れていた光。
「……ほんとに、最悪」
もう一度呟いた声は、自分でも気づかないくらい、柔らかかった。
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