Novel
静かな隣
放課後の校舎は、昼間より少しだけ静かだった。
チャイムが鳴り止んでから、どれほど経っただろう。
部活動へ向かう生徒たちの足音と笑い声が遠ざかるにつれて、渡り廊下を抜けた先にある中庭には、穏やかな春の空気がゆっくりと満ちていく。
校舎の壁沿いに置かれた古い木製ベンチ。
塗装が少し剥げて、角が丸く磨り減ったそこは、昼休みには誰かしら腰を下ろしているけれど、放課後のこの時間になると、訪れる者もほとんどいない。
緩めたままのネクタイ。
気だるそうに足を前へ投げ出して、ぼんやりと空を見上げる。
薄く雲が流れている。
授業をサボったわけじゃない。
ただ、今日は教室の騒がしさが妙に鬱陶しくて、終業のチャイムと同時に廊下へ出た。気がついたらここに来ていた。それだけだ。
「……はぁ」
小さく息を吐くと、春の風に溶けるように消えた。
すると、不意に聞き慣れた足音が近付いてきた。ぱた、ぱた、と軽いリズム。
「黒井くん」
その声だけで、誰か分かる。
京介は顔だけそちらへ向けた。
「……お前か」
「やっぱりいました」
「何だよ、“やっぱり”って」
「なんとなくです」
ふわりとした返事。
いつものことだ。
すずは京介の隣へ立つと、少し首を傾げた。その拍子に、薄茶色の髪が肩からこぼれる。
「隣、座っても大丈夫ですか?」
「好きにしろ」
そう言うと、すずは「ありがとうございます」と小さく言って腰を下ろした。
古びたベンチがきしりと鳴る。
春風が揺らした薄茶色の髪が、京介の視界の端でふわりと揺れた。
しばらく沈黙が落ちる。
普通なら気まずくなりそうな静けさなのに、不思議と嫌じゃない。
むしろ、昼間の騒がしさで張り詰めていた何かが、じわじわとほぐれていくような感じがした。
すずは膝の上に置いた本を開き、京介はイヤホンを外してポケットへ突っ込んだ。
ページをめくる音だけが、静かに響く。
「委員の仕事はどうした」
京介がぼそりと聞くと、すずは本から顔を上げた。
「終わりました」
「真面目かよ」
「黒井くんも、本当は真面目ですよね」
「……俺が?」
少しだけ間を置いて、すずはこくりと頷いた。
「だって黒井くん、授業ちゃんと出てますし、宿題も忘れてませんし」
「普通だろ」
「でも、みんな黒井くんのこと怖いって言うので」
その言葉に、京介は眉をひそめた。
別に珍しいことじゃない。
昔からそうだった。
目つきが悪い。口調が怖い。喧嘩っ早い。
それだけで勝手に距離を置かれる。廊下ですれ違えば視線を逸らされ、グループ活動では誰も隣に来ない。別に構わないと思っていたし、今さら何とも思わない——はずなのに。
「私は怖くないですよ」
柔らかな声が、春風に溶ける。
京介は思わず視線を逸らした。
そういうことを、こいつは躊躇なく言う。
水色の瞳が中庭の木々へ向く。
揺れる若葉を眺めながら、小さく息を吐いた。
「お前は変なんだよ」
「そうでしょうか?」
「そうだろ」
誰にでも話しかけて、警戒心がなくて、ふわふわしてて。
そのくせ、人の変化には妙に敏感だ。
京介が苛立っている日には静かに隣に座るだけで、機嫌が悪くない日にはこうして話しかけてくる。まるで、絶妙な距離感を最初から分かっているみたいに。
——いや、多分こいつは何も考えてない。
天然でやってるから質が悪い。
「なんで毎回ここ来るんだよ」
思わず口から零れた言葉だった。
すずは少しだけ目を丸くした。
そんなことを聞かれるとは思っていなかった、という顔。
けれど次の瞬間には、どこか嬉しそうに笑って目を細める。
「黒井くんといると、落ち着くので」
あまりにも自然に言うものだから、京介は一瞬言葉を失った。
「……は?」
「教室だと、みんな結構騒がしいじゃないですか」
「まぁ、そうだな」
「ここ、静かで好きなんです」
そう言って、すずは中庭を見渡した。
木々の葉が揺れる音。
遠くで聞こえる運動部の掛け声。
少し傾き始めた春の日差しが、地面に長い影を落としている。
穏やかな空気。
そして、その隣に京介がいる。
まるでそれが当然のことみたいな顔をされると、調子が狂う。
京介は乱暴に頭を掻いた。
「……変なやつ」
「また言いました」
すずが少しだけ頬を膨らませる。
丸い目が恨めしそうにこちらを見上げてくる。その表情がなんとなくおかしくて、京介はふっと小さく笑った。
ほんの一瞬のことだったのに、すずがぱちりと目を瞬かせた。
「……黒井くん、今笑いました?」
「笑ってねぇ」
「笑ってました」
「……気のせいだろ」
「ふふ」
楽しそうに笑う声。
京介は居心地悪そうに視線を逸らしたまま、小さく舌打ちした。
けれど、不思議と悪い気はしなかった。
いつの間にか、このベンチで隣に誰かが座ることが、当たり前になっている。そのことに気がついても、追い払いたいとは思わなかった。
静かな春の風が、二人の間をそっと通り抜けていった。
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