Novel

数センチのまま


休み時間の教室は、どこか気の抜けた空気で満ちている。
笑い声や足音、椅子を引く音。
あちこちで小さな会話が重なり合い、ざわめきがゆるく広がっていた。

その中で、本條蒼ほんじょうあおいはいつものように席に座っていた。
机に肘をつくでもなく、スマホをいじるでもなく、
ただぼんやりと前を見ている。

——けれど視線は、少しだけ横に流れていた。

隣の席。花岡小春はなおかこはるのほうへ。

小春は机に肘をつき、友達と話している。
身振りを交えながら言葉を返し、ときどき目元を細めて笑う。
その横顔を、蒼はなんとなく眺めていた。

理由は、ない。
ただ、小春の表情はよく変わる。
話すたびに目元が細くなったり、口元がやわらかく上がったりする。
ころころと変わるそれを見ていると、なぜか飽きなかった。
ぼんやりしているうちに、ふと小春の視線がこちらに向いた。

「……本條ほんじょうくん?」

「ん」

「さっきから、こっち見てる?」

責めるわけでもなく、ただ不思議そうに。
小春は小首を傾げる。

「見てたかも」

あまりに素直な肯定に、小春の頬がじわりと赤くなった。

「な、なんで……」

「なんとなく」

本当に、それだけだった。
小春が隣にいる休み時間は、なぜか静かだ。
周りはいつも騒がしいのに、ここだけ少し温度が違う気がする。
慌ただしさの中に、ぽっかりと落ち着いた場所があるみたいだった。
蒼はその空気が好きだった。
隣にいると、何も考えなくていい気がする。

視線を戻そうとしたとき、小春が「あ」と小さく声を漏らした。

「本條くん、シャツのボタン。取れかかってるよ」

蒼が自分の胸元を見下ろす。
制服のボタンがひとつ、糸一本でかろうじて繋がっていた。

「……ほんとだ」

無造作に指で触れようとしたとき、小春が慌てて手を伸ばす。

「だめ、取れちゃう!」

そのまま、自然に距離が近づいた。
小春の手が、蒼のシャツをそっと押さえる。

本條くんはいつもこうだ、と小春は思う。
困ったことが起きても、少しも焦らない。
……いや、困っているとすら気づいていないのかもしれない。

「放課後まで持たないかも……」

少し考えてから、小春は言った。

「私、裁縫道具持ってるから今やっちゃおうか」

「うん。お願い」

迷いのない返事だった。

小春は鞄から小さな裁縫セットを取り出す。
透明のケースの中で、針と糸が小さく揺れた。

蒼は椅子ごと、少しだけ彼女のほうへ寄る。

——近い。

けれど蒼は特に気にした様子もなく、ただ、静かに縫い終わるのを待っている。

小春が糸を通し、針を布へ入れる。
ちく、と小さな音がした。
針が通るたびにシャツの布が少し引かれて、胸元がわずかに揺れる。

小春の指先が、蒼のシャツに触れた。
布越しの体温が、思ったよりもはっきり伝わってきた。

蒼はじっと、小春を見ていた。

真剣な横顔。
伏せられたまつ毛。
針を扱うたび、唇が少しだけきゅっと結ばれる。

こんなに近くで見るのは、初めてだった。

胸の奥で、何かが小さく動いた気がした。
理由はよく分からない。
でも、目を逸らす気にもならなかった。

「……花岡はなおかさんって、すごいね」

「え?」

針が一度止まる。

「なんでもできる」

小春は少し困ったように笑った。

「そんなことないけど……本條くんのそういうとこ、ちょっとずるいよ」

「そう?」

まったく刺さってない。
本当にこの人は——と、小春は小さくため息をつく。

「でも」

蒼は少し言葉を探すように間を置いて、それから続けた。

「俺たぶん、隣が花岡さんじゃなかったら困る」

さらりと言う。
今日の天気を話すみたいな、自然な声音で。
小春の指先が、わずかに震えた。
針が、ほんの少しだけずれる。

「なんで……?」

気づいたときには、口に出していた。
どうしてそんなことを聞てしまったのか、自分でも分からない。

蒼は少しだけ視線を泳がせる。
それから、また小春を見た。

まっすぐに。

「……そのまま」

少し間を置いて、続ける。

「隣にいると、安心する」

その目は、嘘をついていない。

特別なことを言っているつもりもない。
ただ、本当のことを言っているだけだ、という顔で。

小春の心臓が、ひとつ大きく跳ねた。
針を持つ手が、少しだけ落ち着かなくなる。

「はい、できたよ」

糸を切り、ボタンを軽く押さえる。
指先で確かめると、しっかり留まっていた。

「ありがと」

蒼はそう言った。
けれど、動かない。
近いまま。

小春が顔を上げると、視線がぶつかった。
蒼は、まだ見ていた。

「……本條くん?」

「うん」

「もう終わったよ?」

蒼は一度だけ瞬きをする。

「うん」

なのに、離れない。

ほんの数センチの距離。

手を伸ばせば触れてしまいそうなほど近いのに、
なぜかその距離は、まだ越えてはいけない線のようにも思えた。

蒼はただ、そこにいる。
何も考えていないような顔で。
けれど、離れたいとも思っていない——その顔で。

距離の近さに耐えきれず、小春のほうが先に口を開いた。

「ち、近いよ……」

「そう?」

自覚は、きっとない。
ただ、小春の近くにいたいと思っているだけの、そういう顔だった。

小春は赤くなった顔を隠すように、そっと視線を逸らす。

放っておけないと思っていた。
世話を焼いているつもりだった。

——なのに。

こうして距離が近づいても、離れたいとは思わない。

むしろ、少しだけ。
このままでいたいと思ってしまう。

離れたくない理由を、まだ知らないまま。

休み時間のざわめきは、変わらず続いている。
笑い声も、足音も、椅子の音も。
いつもの教室の、いつもの時間。

けれど二人の間だけ、静かに何かが進んでいた。
隣が当たり前になっていく、その途中で。

まだ名前のない気持ちが、
静かに、ゆっくりと根を張っていた。

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