Novel
知らなかった顔
昼休みの教室は、いつも通りざわついていた。教室のドアを開ける音、笑い声、椅子を引く音。窓から差し込む昼の光が、埃っぽい空気の中に薄い筋を作っている。
その中で
——あれ?
教室の端。黒い髪の隙間から、
口いっぱいにご飯を頬張って、目を細めている。
まるで、「今がいちばん幸せ」と言わんばかりの無防備な表情。
そんな顔、するんだ。
見覚えのない表情に、思わず息を止めた。普段は細く閉じていることの多い目が、気づけば開いていた。自分でも気づかないうちに。
知っているはずなのに、知らない。そんな気がした。普段のほのかは、静かで控えめだ。目立つこともなく、感情を大きく表に出すタイプでもない。クラスの中にいても、どこか遠い存在だった。それなのに今は、小さく頬を動かしながら、心から美味しそうに弁当を食べている。
小動物みたいだな。そう思った瞬間、胸の奥がふっと緩んだ。気づけば、視線を逸らせなくなっていた。周りの音が少し遠くなる。誰かの笑い声も足音も。全部、意識の外に流れていく。
初めて見たな、ああいう顔。
今まで、ほのかとまともに話したことはほとんどない。名前を呼んだ記憶すら、曖昧だった——それなのに。
理由を探すより先に、じわりと落ち着かない感覚が広がっていく。視線を戻そうとしても、意識だけがまだそこに残っていた。
なぜか、もっと知りたいと思ってしまった。
楽しそうな顔。驚いた顔。照れた顔。
——全部、見てみたい。
そう思いながらも、その日はそれ以上、何かすることはなかった。
けれど次の日。晃は購買で、いつもより多めにお菓子を手に取っていた。
「……ほのかちゃん」
ためらいもなく、晃はほのかの机の前に立った。
距離が近い。たぶん、普通より少しだけ。でも晃は気にしなかった。声をかけると、ほのかは驚いたように目を丸くする。
「これ、余ったから食べない? ほのかちゃん、なんか食べるの好きそうだし」
根拠があるようで、実はほとんどない理由をくっつけて、ずいっと差し出す。ほのかは一瞬だけ迷ったあと、そっと受け取った。
「……ありがとうございます」
控えめに笑う。その表情に
——あ。
昼休みに見た、あの表情が重なった。
また、だ。
◇ ◇ ◇
それからだった。お菓子を渡したり。食べ物の話をしたり。ほんの少しずつ言葉を交わすようになったのは。
「ほのかちゃんって、しょっぱいのと甘いの、どっち派?」
「……両方、好きです」
「あ、それ俺と同じだ」
「……そうなんですか」
ほんの少しだけ、ほのかの口元が緩んだ。
そんなやりとりを重ねるうちに、ほのかがふっと噴き出すことも増えていった。ほのかは、よく笑う。静かだけれど、思ったよりずっと表情が豊かだ。そのたびに、晃は思う。
——もっと、見たい。
まだ知らない表情。まだ見たことのない顔。もしかしたら、まだ誰にも見せていないかもしれない表情。そこまで考えて、晃は小さく息を吐いた。
(何考えてんだ、俺)
そう思いながらも、晃は今日も購買で、少し多めにお菓子を買っていた。
理由を考えようとすると、胸の奥が少しざわついた。名前をつけてしまえば、今の距離が変わってしまう気がした。
だから、理由を考えるのはやめた。
ただ、ほのかが幸せそうな顔で食べているのを、また見たい。今はそれだけで、十分な気がした。
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