小説
『知らなかった顔』
昼休みの教室は、いつも通りざわついていた。
教室のドアを開ける音、笑い声、椅子を引く音。
その中で、
——あれ?
教室の端。
口いっぱいにご飯を頬張り、目を細めて。
まるで「今がいちばん幸せ」と言わんばかりの、無防備な表情。
(……そんな顔、するんだ)
見覚えのない表情に、思わず息を止めた。
知っているはずなのに、知らない気がした。
普段のほのかは、静かで控えめだ。
目立つこともなく、感情を大きく表に出すタイプでもない。クラスの中にいても、どこか遠い存在だった。
それなのに今は、小さく頬を動かしながら、心から美味しそうに弁当を食べている。
(……小動物みたいだな)
そんな感想が浮かんだ瞬間、胸の奥がふっと緩むのを感じた。
気づけば、視線を逸らせなくなっていた。
周りの音が少し遠くなる。
誰かの笑い声も足音も全部、意識の外に流れていく。
(初めて見たな……ああいう顔)
今まで、ほのかとまともに話したことはほとんどない。名前を呼んだ記憶すら、曖昧だ。
それなのに。
理由を探すより先に、胸の奥に落ち着かない感覚が広がっていく。
視線を戻そうとしても、意識だけがまだそこに残っていた。
なぜか、もっと知りたいと思ってしまった。
楽しそうな顔。
驚いた顔。
照れた顔。
(……なんだろ、これ)
そう思いながらも、次の日、晃は購買でいつもより多くお菓子を手に取っていた。
「……あのさ」
少しだけ間を置いて、
晃はほのかの机の前に立った。
声をかけると、ほのかは少し驚いたように目を丸くする。
「これ、余ったから食べない?」
声をかける理由を探すふりをして、
結局、思いついたのはそれだけだった。
そう言って差し出すと、一瞬迷ったあと、そっと受け取ってくれた。
「……ありがとうございます」
控えめに笑う、その表情。
(……あ)
その笑顔を見た瞬間、昼休みに見たあの表情が頭に重なった。
(……まただ)
それからだった。
お菓子を渡したり、食べ物の話をしたり、
ほんの少しずつ言葉を交わすようになったのは。
ほのかは、よく笑う。
静かだけれど表情が豊かだ。
そのたびに、晃は思う。
(……もっと、見たい)
まだ知らない表情。
まだ誰にも見せていないかもしれない顔。
——そこまで考えて、
晃は小さく息を吐いた。
(……何考えてんだ、俺)
そう思いながらも、晃は今日も購買で、少し多めにお菓子を買っていた。
理由を考えようとすると、少しだけ胸がざわついた。
名前をつけてしまえば、今の距離が変わってしまう気がして。
理由を考えるのは、やめた。
ただ、ほのかが幸せそうな顔で食べているのを、
また見たいと思っただけだ。
今はそれだけで、十分な気がした。
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