小説
『考えるより先に』
体育館に、ボールの弾む音と歓声が響いていた。
女子はバレーボール、男子は隣のコートでバスケットボール。
いつもと変わらない体育の時間——そのはずだった。
「ちょ、すず! 大丈夫!?」
次の瞬間、女子コートの動きが止まり、
ざわっと空気が揺れる。
視線の先で、
「……大丈夫、です。少し捻っただけ、だと思うので」
そう言いながらも、
すずは立ち上がれずに、その場から動けない。
心配そうにクラスメイトが集まり、
周囲は小さな騒ぎになっていた。
隣のコートでプレーしていた
女子コートのざわめきに気づいて足を止めた。
「……ん? 何かあった?」
晃が足を止めた、次の瞬間だった。
「
短くそう言い残し、
京介はボールを晃の方へ放った。
「えっ!?」
不意を突かれながらも、なんとかキャッチする。
視線を上げた時には、
「京介! どこ行くんだよ! 試合の途中だぞ!」
返事はない。
その声を背中で聞き流し、
京介は迷いなく女子コートへと向かっていた。
——座り込むすずの前に、人影が落ちた。
顔を上げたすずは目を見開く。
「……え、黒井くん……?」
京介の視線が、一瞬だけ走る。
足首を押さえる手。無理に作られた笑顔。
——その時点で、もう遅かった。
考えるより先に、体が動いていたらしい。
京介は屈み込む。
次の瞬間、すずの体がふわりと浮く。
「——っ!?」
何が起きたのか分からないまま、
視界が一気に高くなる。
京介はすずを、自分でも驚くほど自然に抱き上げていた。
(……なんで、俺)
腕の中の重さで、
ようやく自分の行動を理解する。
「あ、あの……!」
「……怪我したんだろ」
低く、逃げ道のない声だった。
「す、少し捻っただけなので……大丈夫です」
恥ずかしさと視線に耐えきれず、顔が熱くなる。
すずは、思わず身をすくめた。
「……動くな。保健室、行くぞ」
「……下ろしてください……」
腕の中で身じろぎされて、
京介はほんの一瞬だけ、眉を寄せて、
それ以上、何も考えないことにした。
すずの指先が、無意識にシャツを掴んでいるのが、妙にくっきりと目に入る。
その様子を見ていた美月が、ぱっと状況を察して言った。
「うん、すずのことは黒井に任せた!
先生には私から話しとくからさ!」
「ああ、助かる」
短く返して、京介は歩みを止めなかった。
体育館を抜けると、廊下の空気が一気に静かになる。
靴底の音だけが、やけに響いた。
腕の中で、すずの体がわずかに強張っているのが分かる。
軽い。
思った以上に。
その事実を意識した瞬間、
京介は視線を前に固定した。
保健室の扉が見えたところで、
京介は歩調を少しだけ緩めた。
保健室の前。
足を止め、ドアをノックしようとして、
その手が、ほんの一瞬だけ宙で止まる。
腕の中の重み。
規則的な呼吸。
「……」
京介は何も言わず、ノックをした。
返事はない。
鍵は掛かっておらず、そのまま中へ入った。
京介はベッドの前まで行くと、ゆっくりと体を屈めた。
すぐには、下ろさない。
腕の力を抜けばいいだけなのに、
なぜか、それができなかった。
すずの体が、京介の腕にもう一度預かる。
一拍。
それから、ようやく、布に触れる感触が伝わった。
体が離れると分かった瞬間、
すずの胸の奥が、きゅっと縮んだ。
京介の手が、ゆっくりと離れていく。
指先が、最後まで残って、それから、完全に離れた。
空気が少しだけ冷たく感じた。
「白崎。手当てするぞ」
少しだけ間を置いて、
すずは小さく頷く。
「……お願いします」
京介は包帯を手に取ると、
無言ですずの足首に触れた。
思っていたよりも近い。
しゃがんだ位置から、
すずの膝、指先、揺れる視線までが
否応なく視界に入る。
保健室は静かだった。
包帯が擦れる、かすかな音。
それと自分の呼吸。
それ以外の音が何もない。
さっきまで聞こえていた体育館の喧騒が、
嘘みたいに遠い。
すずは視線の置き場に困っていた。
京介の手元を見るには近すぎて、
顔を見るには、もっと近すぎる。
結局、自分の膝の上で組んだ指をすずは見つめる。
京介は、足首だけを見るようにしていた。
少し上を見れば、
すずの表情が見えてしまう。
——京介は、それ以上視線を上げなかった。
何か言った方がいいのか、
言わない方がいいのか。
分からないまま、
包帯を引く指先に、少しだけ力が入った気がした。
その瞬間、
すずの肩が、ほんのわずかに揺れた。
「……っ」
小さな声。
驚いたように、京介の指が止まる。
「……痛いか」
短く、抑えた声。
沈黙を壊さないための、最低限の言葉だった。
「……いえ。大丈夫です」
そう答えた声が、
自分でも少し、硬いと分かった。
また、沈黙が戻る。
さっきよりも少しだけ重たい沈黙が。
包帯を巻く手が、一瞬だけ止まった。
引き締める前のわずかな間。
どうして止まったのか考えるより先に、
すずは、顔を上げていた。
すぐそばに京介の横顔があった。
伏せがちな視線。
少しだけ、眉の寄った真剣な表情。
思っていたよりも、ずっと近い。
(……こんな顔、するんだ)
体育館で見た時とも、教室で見る時とも違う。
誰にも向けていないみたいな、
静かな表情だった。
気づいた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
見てはいけない気がして、
慌てて視線を落とそうとする。
その前に。
京介の視線が、
ふっと、こちらを向いた。
一瞬だけ、目が合った。
言葉も、音もない。
ただ、視線だけがぶつかる。
「……っ」
息が、詰まる。
慌てて視線を逸らしたときには、
もう、心臓がうるさかった。
京介は何も言わず、また包帯に視線を戻す。
けれど、
その指先が、ほんの少しだけ遅れた。
(……目が合った)
そう思っただけで、胸の奥が落ち着かない。
「……いつも、手当てするのは私なのに。今日は逆ですね」
ぽつりと言ったすずの言葉に、
京介の指が、ほんの一瞬止まる。
「……ああ。そうだな」
「ふふっ…変な感じです」
変な感じだと言われて、
京介は一瞬、言葉に詰まった。
否定するほどでもないし、
肯定する理由も、うまく見つからない。
(……変でも、今はこれでいい)
そんな考えが浮かんで、
自分でも意味が分からないまま、包帯を引き締める。
静かな保健室に、包帯の擦れる音だけが残る。
その沈黙が、落ち着かないのに、嫌じゃなかった。
包帯を巻き終え、京介は一度、手を止めた。
「……歩けそうか?」
「は、はい。多分……」
そう答えながらも、
すずは足を床につけるのをためらった。
体重をかけるのが、少し怖い。
京介はその様子を見て、何も言わず前に立つ。
「……立てなかったら言え」
低く落ち着いた声。
それだけ言って、距離を詰めた。
(……近い)
そう思った瞬間、
すずはゆっくり立ち上がろうとして——
ほんの一瞬、バランスを崩す。
「……あ」
その肩に、
京介の手が迷いなく添えられた。
「無理すんな」
短い言葉。でも、逃げ場のない声だった。
すずは、支えられたまま、
思わず京介のジャージの袖を掴んでしまう。
「す、すみません……!」
慌てて手を離そうとするが、
京介はそのまま、支える手を離さなかった。
「別に。転ばれる方が困る」
(……それだけじゃない)
そう思った気がして、
深く考える前に、京介はゆっくり手を離した。
「今日は、無理せず休め」
「……はい」
すずは小さく頷きながら、視線を落とす。
「……黒井くんって、こういう時、すごく頼りになりますね」
京介は、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
「……そうか」
短く返した声が、思ったより低い。
胸の奥が、じわりと落ち着かなくなる。
理由を探る前に、京介は歩き出した。
保健室を出ると、廊下にはまだ体育館の音が微かに響いていた。
「……あの」
すずが、少しだけ歩調を落とす。
「さっき……支えてくれて、ありがとうございました」
京介は立ち止まり、ほんの少し考えてから言った。
「……当然だろ」
それだけ言って、前を向く。
——数歩、歩いた後。
胸の奥が、まだ熱い。
理由を考えようとすると、
すずの驚いた顔が、やけに鮮明に浮かぶ。
(……面倒なことになりそうだ)
そう思って、京介は歩調を早めた。
一方で、すずはその背中を見つめながら、
足首とは別のところが、じんわり熱いことに戸惑っていた。
(……なんで、かな)
保健室の静けさより、
体育館の喧騒より、
今は、さっきの腕の感触が頭から離れない。
——黒井くんが、近すぎた。
——それなのに、離れてほしくなかった。
どうして、こんなふうに思ってしまったのか、
自分でも分からない。
(……困るな)
そう思いながら、
すずはそっと包帯の上から足首を押さえた。
——押さえたはずなのに、
胸の奥のざわめきは、収まらなかった。
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