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それだけじゃない
放課後の廊下は、いつもより人が少なかった。
今日は学年集会で、帰りのホームルームが長引いたせいか、残っている生徒もまばらだった。
廊下の窓から差し込む西日が、床に長い影を落としていた。その時だった。
「——ちょっと待ってよ、
角を曲がったところで、聞き覚えのない男の声が耳に入った。少し強引な、引き止めるような声音。京介は足を止めた。
次に聞こえたのは、すずの声だった。いつもよりほんの少し、固い。
「あの、私、用事がありますので……」
角の向こうを見ると、廊下の隅で二人が向かい合っていた。すずと見慣れない男子生徒。他のクラスか、あるいは別の学年か。男子はすずの前に立ち、逃げ道を塞ぐような距離にいる。
「そんな急ぎじゃないでしょ。少し話すだけだって」
「でも……」
「そんな警戒しなくていいって。俺、そんな怖くないじゃん」
すずは困ったように笑っていた。その笑顔を、京介は知ってる。断れなくて、でも嫌で、それでも相手を傷つけたくなくて。愛想笑いで誤魔化している顔。
「ごめんなさい。本当に用事があって——」
「白崎」
気づいたら、声が出ていた。廊下に自分の声が響き、すずと男子が同時にこちらを見る。京介は二人の方へ歩いていった。それだけで、相手の顔がわずかに引きつった。
「く、黒井……」
「……取り込み中か? 俺、お前のこと待ってたんだけど」
嘘だった。
でも、声は平坦で、表情は動かなかった。男子はしばらく京介を見て、それからすずを見る。その視線が妙に気に入らなかった。
「……あ、そう、なんだ」
短い沈黙の後、男子は「また今度」とだけ言い残して、足早に廊下を去っていった。その背中が角を曲がって見えなくなるまで、京介は視線を外さなかった。足音が遠ざかってから、すずの方を向く。
「大丈夫か」
すずはほっとしたように息を吐いた。
「……ありがとうございます」
「あんな奴にまで愛想笑いすんな」
「でも、悪い人じゃないと思うので……」
「お前が我慢する必要ねぇだろ」
少し強い言い方になってしまった。でも、すずは怯まなかった。少し目を丸くして、それからふわりと笑う。
「黒井くん、怒ってます?」
「怒ってねぇ」
「でも、声が少し怖かったです」
「……あいつに言ってんだよ」
すずはくすりと笑った。
「ありがとうございます。助かりました」
「別に」
京介は視線を逸らした。
助けたのは、ただすずが困っていたからだ。
それ以上でも、それ以下でもない。放っておけなかっただけだ——そのはずだった。
「黒井くん」
「ん」
「帰り、同じ方向ですか?」
京介は少し間を置いてから頷いた。
「まぁな」
「じゃあ一緒に帰りましょう」
当然のように言うすずに、京介は何も言い返せなかった。
◇ ◇ ◇
昇降口を出ると、夏の熱気が二人を包んだ。
すずは隣を歩きながら、特に何かを話すでもなく、ただ静かにしていた。鞄を両手で前に持ち直して、頬をなでる生ぬるい風に目を細めながら歩く。
点々と続く街路樹の根が、歩道のアスファルトをわずかに持ち上げている。すずはそれに気づかないまま、つま先を引っ掛けて小さくつまずいた。
「わっ」
とっさに伸びた京介の手が、すずの腕を掴んで支える。
「危な……ぼーっとすんな」
「す、すみません……」
すずは頬を赤らめながら体勢を立て直した。京介はすぐに手を離したけれど、掴んだ手のひらに残る熱だけが、しばらく消えなかった。
「……怖かったか」
気づいたら、また声が出ていた。すずは顔を上げる。
「さっきの」
「あ……」
すずは少し考えるように視線を落とした。
「少し、だけ」
「そうか」
「でも、すぐ黒井くんが来てくれたので」
すずは前を向いたまま、小さく笑う。
「安心しました」
その言葉が、不思議と頭に残った。
安心した。
前も同じことを言っていた。いつだったか、教室で。俺といると安心すると。あの時は、うまく受け止められなかった。戸惑って視線を逸らして、それで終わりにした。
でも今は、廊下の角ですずの声を聞いた瞬間のことを思い出す。気づいたら動いていた。
考えるより先に、足が向いていた。それは——本当に、ただ困っている人を助けただけだったのか。
「黒井くん」
「なんだ」
「さっき、私のことを待ってたって言ってましたよね」
京介は一瞬、固まった。
「あれって……もしかして、嘘だったり、しますか?」
「……」
すずはこちらを見上げていた。責めているわけじゃない。ただ、確かめているような目だった。
「……気にすんな」
「気にしてないですよ」
「じゃあなんで聞いたんだよ」
「嘘でもいいんです。黒井くんが来てくれた……それが、嬉しかったから」
また、その言葉が胸に落ちた。
京介は何も言えなかった。視線を前に向けたまま、ただ並んで歩く。二人の影が、道の上に長く伸びていた。
やばい、と頭の中で静かに思った。
変なやつだと思っていた。お人好しで、天然で、警戒心がなくて。誰にでも話しかけて、誰にでも笑って。だから気になっていたわけじゃない。
そう思っていた。でも、廊下の角で、すずの声を聞いた瞬間。胸の奥で何かが動いた。助けに行ったのは、困っている人がいたからじゃない。すずだったから、だ。
気づいてしまえば、もう誤魔化せなかった。
「黒井くん、顔が赤いですよ?」
「……日差しのせいだ」
「そうですか?」
「そうだ」
すずはしばらく黙って、それからくすりと笑った。
「……黒井くん」
「なんだよ」
「今日は、ありがとうございました」
「いい」
「でも、助かりました」
「……分かった」
「それと」
「まだあんのかよ」
すずは少しだけ立ち止まった。京介も、半歩遅れて足を止める。すずはこちらを見上げていた。傾いた日差しの中で、その目がまっすぐに京介を見ている。
「黒井くんが来てくれて、よかったです」
それだけ言って、すずはまた歩き出した。ふわりと揺れる薄茶色の髪。その後ろ姿を、京介はしばらく見ていた。
よかった、という言葉が、頭の中でぐるぐると回る。京介は小さく息を吐いた。それから、少し早足ですずに追いついた。
「……歩くの遅ぇな」
「え、普通だと思いますけど……」
「遅い」
「黒井くんが早いんだと思います」
「俺に合わせろ」
「黒井くんが合わせてくれたら、嬉しいです」
「……はぁ」
ため息をついて、京介は歩幅を少しだけ緩めた。すずは、その変化に気づいていた。いつもなら京介は少し前を歩く。でも今日は、隣にいる。
「黒井くん」
「ん」
「歩くの、合わせてくれてますか?」
「……」
「違いました?」
「……うるさい」
京介は視線を逸らした。
「ふふ」
すずは嬉しそうに笑った。理由は分からなかった。ただ、こうして隣を歩いてくれることが、少しだけ嬉しかった。
隣に、すずの気配がある。こんなに当たり前になったのは、いつからだろう。
西日の眩しい帰り道。二人の影が、道の上に長く伸びていた。
彼はもう、気づいてしまっていた。それが特別な感情だということに。けれど彼女は、まだ知らない。
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