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君だけが知っている


放課後の教室は、昼間より少しだけ静かだった。運動部の掛け声や廊下の足音が遠ざかり、窓から差し込む夏の日差しだけが、机にじんわりと熱を残している。ぬるい風に、遠くの蝉の声が揺れていた。

その中で、白崎しろさきすずは一人、机の上に積まれたプリントを整理していた。指先でプリントの端を揃えるたび、低い位置にまとめた薄茶色の髪がさらりと揺れる。今日一日のことを頭の中でなぞる。朝のホームルームで先生に頼まれた配布物。昼休みに委員会の仕事で走り回ったこと。放課後になって、また別の頼みごとが重なったこと。

「白崎さん、これ先生に渡しておいてもらえる?」

「はい、分かりました」

「あと、明日の係の確認もお願いしていい?」

「はい、大丈夫です」

「いつもありがとう」

そう言われて、すずはいつものように笑った。

「いえいえ、私が好きでやっていることなので」

嘘ではなかった。頼られることは嬉しい。誰かの役に立てることも嬉しい。だから、断る理由なんてなかった。胸の奥にそっとしまって、口元に笑みを乗せる。
本当は、肩の力を抜きたかった。それでも、顔には出さなかった。

「大丈夫です」

そう言えば、みんな安心するから。それでよかった。それでいいと思っていた。

クラスメイトが去っていく背中を見送り、プリントを揃え終えて席を立とうとした、そのとき。椅子の脚につま先を引っ掛けた。

「わっ……」

小さくよろけて、抱えていたプリントが宙に舞う。慌てて拾い集めながら、頬がじんわりと熱くなった。今日何度目の失敗だろう。数えるのはとうにやめている。誰にも見られていませんように、と思いながら顔を上げると——隣の席の呆れたような視線とぶつかった。

「……大丈夫かよ」

「だ、大丈夫です!」

反射的に出た言葉に、自分でも小さく笑ってしまう。本当に、口癖みたいになっている。

「……白崎」

不意に名前を呼ばれて、すずは顔を上げた。
隣の席、黒井京介くろいきょうすけがこちらを見ていた。頬杖をついたまま、少し眉を寄せている。水色の瞳がまっすぐにすずを捉え、耳元の小さなピアスが西日を受けて鈍く光った。
目つきが鋭いから、怒っているように見えるのはいつものことだった。でも、すずはもう慣れていた。あの目が怒っているわけじゃないことを、知っていたから。

「はい?」

「お前」

京介は少し間を置いた。

「今日、何回『大丈夫』って言った」

「……え?」

予想外の言葉に、すずは目を瞬かせた。京介はため息をついて、窓の外に視線を向ける。

「さっきも転びかけて『大丈夫』、その前も『大丈夫』。数えてねぇけど、たぶん十回は超えてる」

「……」

「笑って誤魔化してんの、バレバレだ」

すずは何も言えなかった。先生もクラスメイトも誰も気づかなかった。いつも通り笑っていたつもりだった。ノートを取る手のスピードも、返事をするタイミングも、全部いつも通りにしていたつもりだった。
なのに。

「黒井くんは……すごいですね」

「は?」

「私、そんなに分かりやすいですか?」

京介は少しだけ視線を逸らした。耳の先が、わずかに赤くなる。

「別に。ただ」

少し間を置いて。

「お前、いつも自分のこと後回しにしてるだろ」

その言葉が、すずの胸にすとんと落ちた。後回し。自分ではそんなつもりはなかった。ただ、誰かが困っているなら助けたかった。頼まれたなら応えたかった。それだけだった。
でも、京介の言葉を聞いて、初めて気づいた気がした。気づかないふりをしていた疲れが、静かに積み重なっていたことを。

黒井京介は、怖い人だと思われている。目つきが悪い。口が悪い。いつも怒っているように見える。
でも、すずは知っていた。
席が隣になって一週間も経たない頃、教室に落ちていた筆箱を、京介がそっと拾って持ち主の机に置いていたのを。声をかけるでもなく、名乗るでもなく、ただそれだけして立ち去った。
不器用なのに、誰よりも周りをよく見ている人。すずがそう思ったのは、あのときだった。

「黒井くん」

「ん」

「優しいですね」

「……は?」

京介が固まる。頬杖をついていた手が、わずかにずれた。

「何言ってんだよ」

「本当のことです」

「俺が?」

「はい」

すずは迷いなく頷いた。

「黒井くんは、ちゃんと人を見ています」

京介は黙った。何か言い返そうとして言葉を探して、それでも何も出てこなくて。結局、また窓の外に視線を逃がした。

まぶしい午後の光が、その横顔をぼんやりと縁取っていた。

◇ ◇ ◇


それから少し経ったある日。
放課後の教室に残っていたのは、また二人だけだった。
すずは珍しく、机に突っ伏していた。火照った頬を、机のひんやりとした面に押しつけて、目を細める。

今日も一日、よく頑張った。そう自分に言い聞かせても、体の奥に残る重さはなかなか消えなかった。

「……疲れたな」

小さな声だった。誰かに聞かせるつもりなんてなかった。ただ、口から自然に出てしまっただけだった。

「……白崎」

足を止める気配にすずはゆっくりと顔を上げた。頬を机につけたまま、視線だけをそちらへ向ける。帰り支度をしていたらしい京介が、こちらを見ていた。

「はい」

「今の、誰にも言ったことないだろ」

すずは少し驚いた顔をした。

「……どうして分かるんですか?」

「分かる」

京介はそう言って、視線を逸らした。

「お前、いつも大丈夫って言うからな」

それから、少しだけ間を置いて。

「たまには言えよ。疲れた、とか」

「……」

「俺の前くらい」

ぶっきらぼうな声だった。でも、その言葉は柔らかかった。すずはしばらく黙っていた。

俺の前くらい。
その言葉が、胸のどこかにじんわりと染み込んでくる。誰かにそんなふうに言われたのは、初めてだった。疲れていても大丈夫と笑うのが当たり前だと思っていた。そうしていれば誰も困らないし、誰も心配しなくていいから。なのに京介は、そうじゃなくていいと言う。
うまく言葉にできない、初めての感覚だった。

「不思議ですね」

「何が」

「黒井くんといると」

すずは胸元でそっと手を握った。

「安心するんです」

京介の動きが止まる。視線だけがすずに向いて、それからゆっくりと床に落ちた。

「……なんでだよ」

かすれた声だった。すずは首を傾げた。

「黒井くんは、怖いって言われることもあるけど……私には、すごく安心できる人です」

静かな教室に、その言葉が落ちた。京介は何も言えなかった。怖がられることには慣れていた。誤解されることにも。だから、人に何かを言われても、たいていは聞き流せた。

でも。安心する。そんな言葉は初めてだった。胸の奥のどこかが、小さくざわつく。それが何なのか、京介にはまだ分からなかった。

最初は、うるさいやつだと思っていた。誰にでも愛想よく笑う顔も、頼まれごとを何でも引き受けてしまう性格も、正直、苦手だった。それがいつからだろう。目で追うようになったのは。

「白崎」

「はい?」

「お前も……」

京介は少しだけ言葉に詰まる。喉の奥で一度言葉を飲み込んでから、また口を開いた。

「無理すんな。ちゃんと頼れ」

ぶっきらぼうで、不器用で。それでも、京介なりの精一杯だった。すずは嬉しそうに笑った。

「はい」

「黒井くんにも、そう言いますね」

「俺? なんでだよ」

すずは首を傾げる。

「だって黒井くんも、よく無理してるから」

「……」

その瞬間。京介は何も言えなくなった。自分が見ていたつもりだった。でも気づけば、すずの目もずっと自分に向いていた。

いつからだろう。隣にいることが当たり前になったのは。いつからだろう。この小さな笑顔を見ると、少し安心するようになったのは。

傾いた西日が窓から差し込んで、二人の間に短い影を落としている。教室はもう、ほとんど誰もいない。それでも、なぜか広さを感じなかった。

「……変なやつ」

京介が呟く。

「え?」

「なんでもねぇ」

そう言いながら。口元がほんの少しだけ緩んで、小さな牙のような歯が覗く、普段の鋭さが少しだけ和らいで見えた。

彼女は知らない。隣にいるだけで、彼が少し息をできることを。
彼は知らない。「俺の前くらい」の一言が、彼女の支えになっていることを。
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