Novel
放課後の寄り道
放課後のチャイムが鳴ると、教室の空気が一気にほどけた。さっきまでの授業の緊張が嘘のように消え、友達同士の笑い声や、帰り支度を急ぐ足音があちこちで重なり合う。一日の終わりらしい、少しだけ騒がしい時間。
「ほのかちゃん、帰るとこ?」
不意に声をかけられ、ほのかの肩が小さく揺れる。聞き慣れた声だった。
振り返ると、そこには
思いがけず近い距離に、心臓がどくんと鳴った。
「……はい」
うまく言葉を探せなくて、短く答えるだけになる。それでも晃は気にした様子もなく、「よかった」と軽く笑った。
「今日さ、購買すぐ売り切れててさ。全然買えなかったんだよね」
「あ……そうなんですか」
「うん」
そこでほんの少し言葉を切り、晃はこちらを見る。
「一人で食べるのもつまんないしさ」
いつもの軽い調子。けれど、ほんの少しだけ様子をうかがうような間があった。
「帰りに、一緒になんか食べてかない?」
途中まで帰り道が同じなのは知っている。だから、時々一緒に帰ることも何度かあった。それでも、こうして改めて誘われると、それまで当たり前だった帰り道が急に特別なもののように思えてしまう。胸の奥が、少しだけざわついた。
「えっと……」
ちょうど、お腹も空いていた。断る理由も、特に思いつかない。それに、晃はいつも通りの顔で笑っている。本当に、お腹が空いただけなのかもしれない。そう自分に言い聞かせるように考えながら、ほのかは小さく頷いた。
「少しだけ、なら」
そう答えた瞬間、晃の表情がぱっと明るくなった。
「やった」
たった一言。けれど、その声は思っていたよりずっと嬉しそうで。ほのかは思わず視線を逸らした。
なんだか、くすぐったい。
◇ ◇ ◇
教室のざわめきが遠ざかるにつれて、二人の間だけがやけに静かになった。
校門を出ると、放課後の空気が肌に触れる。昼間より少しだけ柔らかくなった光の中を、帰り道を歩く生徒たちの影が長く伸びていた。
商店街に差しかかると、揚げ物の香ばしい匂いと甘い香りが流れてくる。ほのかのお腹が、きゅっと鳴りそうになった。
「どれにする?」
晃は迷う様子もなく歩きながら尋ねてくる。まるで、こういう寄り道が当たり前のことみたいに。
「えっと、迷います……」
正直な気持ちだった。コロッケの香ばしい匂いも、たい焼きの甘い香りも、どれも美味しそうで選びきれない。ほのかが少し足を止めて店先を眺めていると、晃が言った。
「じゃあさ、いっぱい買って半分こしよ」
さらりとした声だった。あまりにも自然に言われたせいで、ほのかは一瞬、その意味を理解するのが遅れた。
「は、半分こ?」
思わず聞き返す。言葉のやりとりも、隣に立つ距離も、いつもより近く感じる。けれど晃は、それが当然のことのような顔をしていた。
「いろいろ食べた方が楽しいじゃん」
断りにくい、と思った。なのに、不思議と嫌な気持ちはしなかった。むしろ、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「じゃあ、これ」
ほのかが指さしたのは、揚げたてのコロッケだった。衣はきつね色に染まり、そこから白い湯気がふわりと立ちのぼっている。
「いいね。じゃ、あれも」
晃は迷いなく、たい焼き屋を指さした。
気づけば、二人の手にはいくつかの袋が増えていた。揚げたての香ばしい匂いと甘い香りが、紙袋の中から漂っている。
近くのベンチに並んで座る。カバンを足元に置き、買ったものを膝の上に広げた。夕方の風が、少しだけ涼しい。肩が触れるほどではない。けれど、手を伸ばせば届きそうな距離。ほのかは、なぜだかその距離が気になった。
「はい」
晃が、割ったコロッケを差し出す。
「ありがとうございます」
受け取って、一口かじる。衣がさくっと音を立てた。中のじゃがいもはほくほくとしていて、ほんのり甘い。
「おいしい」
思わず頬が緩む。その瞬間。
「やっぱ、そういう顔するよね」
「……え?」
顔を上げると、晃がこちらを見ていた。どこか満足そうな、やわらかな表情。
「ほのかちゃんってさ」
少しだけ身を乗り出して、こちらを見る。
「いつも、めちゃくちゃ美味しそうに食べるじゃん」
「……っ」
ほのかは何も言えず、視線を落とした。
「なんか、見てると」
続く声は、さっきより少しだけ軽くて。けれど、その奥には妙に真っ直ぐなものがあった。
「こっちまで嬉しくなるんだよね」
その言葉が、ゆっくりと胸の奥に落ちてくる。
「……変、です」
やっとのことで絞り出した声は、小さくて頼りなかった。
「そうかな?」
あっさり返す声。それから、ほんの少しだけ笑って——
「……好きだから、かな」
ほのかの息が、一瞬止まった。
——好き。
その言葉だけが、頭の中に残る。鼓動が、大きく跳ねた。
けれど。
「……食べてるとこ、ね」
軽く続いた言葉に、止まっていた時間が動き出す。
「……あ」
分かっていたはずなのに。どこかで、違う意味を探していた自分に気づく。じわりと頬に熱が集まった。それでも。ほんの少しだけ、ほっとしてしまった。
「たい焼きも食べる?」
晃が紙袋を開きながら言う。
「……はい」
甘い香りがふわりと広がる。
「ほのかちゃん、あんことクリームどっち食べたい?」
「えっと……両方」
「じゃあ、これも分けよう」
そんな何気ない会話さえ、楽しかった。特別なことをしているわけじゃない。ただ、一緒に食べて、話しているだけ。それなのに。この時間が、いつもより少しだけ大切なものに思えた。
「そろそろ帰る?」
「……はい」
帰り際、残ったお菓子の袋をカバンにそっと仕舞う。
商店街を抜けると、帰り道は急に静かになった。さっきまでの賑やかな音が遠ざかり、聞こえるのは二人の足音だけ。並んで歩く距離が、さっきより少しだけ近い。
「またさ」
晃が、何気なく言った。
「お腹すいたら、誘うね」
いつもと同じ、軽い言い方。けれど、それだけじゃない気がした。そう思ったのに、嫌な気持ちはしなかった。むしろ、少し嬉しい。ほのかが小さく頷くと、晃は満足そうに笑った。
歩幅が少しずつ重なっていく。肩が触れそうなほど近づいて、ほのかは気づかないふりをしながら、そっと半歩だけ距離を詰めた。晃はそのことに気づかないまま、いつも通り楽しそうに歩いている。
夕焼けに染まる帰り道。二人の影が、並んで長く伸びていた。急ぐ理由は、どこにもない。
——この寄り道が、いつか当たり前になる気がして。
ほのかは、カバンの中のお菓子の袋を、そっと握りしめた。
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