Novel

傘の中、半分だけ


梅雨に入ってから、空はずっと機嫌が悪い。

灰色の雲が低く垂れこめて、太陽の在処ありかすらわからなくなる日が続いていた。今日も朝からその気配は変わらず、昼休みの窓の外には湿った匂いだけが満ちていた。そして放課後、とうとう我慢の限界を迎えたように、空はぽつぽつと雨を落とし始めた。

下駄箱の前で、本條蒼ほんじょうあおいは立ち止まっていた。
傘立てを覗き込む。
——ない。

そういえば、と思い出す。
先週、傘を差さずに帰った日があった。たぶん、あのまま教室のどこかに置いてきたのだろう。記憶を辿ってみても、はっきりとした映像は浮かばない。蒼にとって、そういう細かいことはいつも輪郭がぼやけている。

特に焦りはしなかった。
濡れて帰ればいい。それくらい、どうということもない。

昇降口のドアを開けると、雨の匂いが強く鼻をついた。
灰色の空から、まっすぐな雨脚が地面を叩いている。校庭の土はもう黒く湿り、傘を差した生徒たちが足早に校門へ向かっていくのが見えた。

蒼は鞄を小脇に抱え、一歩踏み出した。

「——本條くん?」

後ろから声がした。
振り返ると、花岡小春はなおかこはるが傘を差して立っている。淡いクリーム色の傘の下、髪が少し湿った頬にかかっていた。

「傘、忘れたの?」

「ん。たぶん教室」

「たぶんって……」

小春は呆れたように、それでもどこか予想通りだったような顔をした。本條くんならそういうこともあるだろう、というふうに。眉尻が下がり、ため息混じりの表情。蒼にとっては見慣れた顔だった。

「取りに戻る?」

「面倒くさい」

迷いのない即答だった。
小春は小さく息を吐く。呆れと、それでも見捨てられない気持ちが混ざったような吐息だった。

「このまま帰る気だったでしょ」

「うん」

「濡れるよ」

「平気」

「本條くんの平気は信用できないんだよね」

平気ではない。誰がどう見ても、傘なしで雨の中を歩くのは平気の範疇はんちゅうではない。けれど蒼の声には、本当にどうでもよさそうな響きがあった。雨粒が彼の前髪に落ちて、小さな雫を作り始めている。それでも表情ひとつ変えない。

小春はしばらく蒼を見ていた。
雨脚は強まる一方で、迷っている時間すら惜しいくらいだった。やがて諦めたように、小さく息を吐いて傘を持ち直す。

「入って」

「いいの?」

「いいから。このまま帰ったら、風邪ひくよ」

蒼は少し考えてから、小春の傘の下に入った。

——思ったより、近い。

傘はそれほど大きくない。二人分の肩幅を収めるには、どうしても距離が縮まる。雨音が傘の布を叩く音だけが、二人の間を埋めていた。

「……ありがと」

「いいよ、別に」

小春はまっすぐ前を向いたまま言う。頬のあたりが、心なしか赤い気がした。雨のせいかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

歩き出すと、傘の中の空気がふわりと揺れる。雨粒が傘の表面で弾ける音と、二人の足音だけが続いていた。

蒼はちらりと隣を見る。

小春の髪が、少しだけ湿気で癖づいている。頬には、雨のしずくが一粒。傘を持つ手は、いつもより少し力が入っているように見えた。

「花岡さん」

「なに」

「傾いてる」

「え?」

「傘。俺のほう、濡れてないから」

指摘されて、小春は自分の持ち方に気づいたらしい。傘の柄は、たしかに蒼のほうへ大きく傾いていた。自分の右肩は、もうしっとりと雨に濡れている。制服の肩口に、雨が染みを作り始めていた。

「あ、あー……ほんとだ。気がつかなかった」

慌てて傘を持ち直そうとするが、今度は逆に蒼のほうが濡れそうになる。かといって真ん中にすると、二人の距離がさらに縮まってしまう。傘の柄を握ったまま、小春の腕がぎこちなく上下した。

「無理しなくていい」

「無理してないよ」

明らかに無理をしている横顔で、小春は言う。傘の柄を握る手は、ずっと不自然な角度に傾いたままだった。蒼の身長に合わせて傘を上げようとすると、どうしても腕が突っ張ってしまう。肩のあたりが、徐々に強張っていくのがわかった。

蒼はその様子をしばらく見ていたが、やがて手を伸ばした。

「貸して」

「え?」

「俺のほうが背、高いから。そのほうが楽」

「……でも、本條くんが濡れちゃうよ」

「俺は平気。花岡さんが無理してるほうが気になるから」

有無を言わさず、傘の柄が蒼の手に渡る。小春が止める間もなかった。大きな手が柄を包むように握ると、傘はそれだけで安定したように見えた。

蒼が持つと、傘の位置がすっと上がった。小春の腕は、もう突っ張らなくていい。雨音の角度が少し変わって、傘の中の空間が広くなったように感じられた。

「……そっか。身長差、考えてなかった」

「俺は最初から思ってた」

「言ってよ」

「花岡さんが頑張ってたから」

蒼は涼しい顔で言う。小春は何と返していいか分からず、小さく唇を尖らせた。頬の赤みは、まだ引いていない。

傘の中心は、自然と蒼に合わせてずれていく。小春のほうへ少し傾けながら、蒼は黙って歩幅を合わせた。彼女の歩幅が小さいことも、傘の重さも、特に意識した様子もなく、当たり前のように調整していく。

肩が触れる。

「近い……」

「これなら、ちょうどいい」

蒼は淡々と言った。傘を持つようになっても、距離はそう変わらない。むしろ前より近くなったかもしれない。

——けれど。

肩の触れる感覚は、思っていたよりもずっと、はっきりしていた。布越しに伝わる体温。雨の冷たさの中で、そこだけがやけに温かい。蒼はそのことに気づいていたが、特に何も言わなかった。ただ、悪くないと思っていた。

小春は何も言えなくなって、ただ前を見て歩く。心臓のあたりが、いつもより少し速く動いている気がした。雨音が、やけに大きく聞こえる。

しばらく無言の時間が続いた。
気まずいわけではない。ただ、いつもより少しだけ、空気が違う気がした。

「……雨、強くなってきたね」

沈黙に耐えかねたように、小春が口を開く。

「うん」

「梅雨だから、しばらく続くかも」

「そうだね」

会話というには、あまりに短い。それでも、途切れない。

赤信号で、二人は足を止めた。傘の中、横に並んだまま、しばらく雨を眺める。

「本條くんって」

「ん」

「傘忘れても全然焦らないよね」

「そう?」

「うん。私だったら、絶対走って戻る」

「花岡さんらしい」

「それ、褒めてる?」

「褒めてる」

短いやりとりに、小春はふっと頬を緩めた。強張っていた肩から、少しだけ力が抜けたのがわかった。

信号が青に変わる。二人はまた歩き出した。

「私さ」

ふいに、小春が言う。

「本條くんがそうやって、何でも平気そうにしてるの、ちょっと心配になるんだよね」

「平気だよ」

「それが心配なの」

蒼は少し黙った。雨音だけが、しばらく二人の間を満たす。傘を持つ手に、わずかに力がこもった。

「……今日は、平気じゃなかった」

「え?」

「傘、なかったから」

蒼はまっすぐ前を見たまま言う。

「花岡さんが来なかったら、濡れて帰ってた」

「困ってる人を放っておけないだけだよ」

「ありがたいと思ってる」

いつもよりすこし長い言葉だった。小春は、隣を見上げる。

蒼の表情は、いつもとそう変わらない。けれど声の温度だけ、ほんの少し違う気がした。雨に濡れた前髪の下で、目だけがまっすぐに前を見ていた。

「……次は、忘れないでね」

小春は前を向いたまま、小さく笑った。

雨は止む気配を見せない。傘の中は狭くて、肩は触れたままで、二人の歩幅はいつの間にか揃っていた。

会話はまた途切れる。けれど、気まずさはどこにもなかった。

ただ雨の音と、隣にいる体温と、揃った足音だけが続いていく。アスファルトに跳ねる水しぶきも、側溝を流れる水音も、すべてが二人を包む膜のように感じられた。傘の外側では雨が容赦なく降り続けているのに、その内側だけが妙に静かだった。

——傘を忘れて、よかったかもしれない。

蒼はそんなことを、ぼんやりと思った。理由は、うまく言葉にできなかったけれど。

梅雨はまだ、しばらく続く。

それは少しだけ、悪くないことのようにも思えた。
1/12ページ