Novel
甘えているのは
夕方の空は、まだ少しだけ明るさを残していた。オレンジと群青のあいだで揺れる色が、街の輪郭をやわらかくぼかしている。
放課後。
晃はなんとなく足を止める。コンビニの袋をぶら下げたまま振り返ると、少し後ろを歩いていたほのかがこちらを見上げた。
「ほのかちゃん」
声をかけると、ほのかの肩がびくりと揺れる。
「は、はい……」
相変わらず控えめな返事に、晃はくすっと笑った。
「これ、新商品だって。甘いやつ」
袋の中から取り出したのは、小さなカップデザート。軽い調子で差し出すと、ほのかは一瞬ためらった。
「えっと……でも、いつも……」
「いいって、いいって。ほのかちゃん、こういうの好きそうじゃん」
深く考えた様子もなく言うと、ほのかは戸惑いながらも、そっと受け取った。
「……ありがとうございます」
小さな声。それだけなのに、なんとなく満足している自分に、晃はまだ気づいていなかった。
「ほら、座ろうよ」
晃が軽くベンチに目をやると、ほのかは少し迷ってから腰を下ろした。晃もその隣に座る。ちょうどいい距離。けれど、いつもよりほんの少しだけ近い。
ほのかは膝の上にカップを置き、慎重にふたを開けた。ふたを開けた瞬間、甘い匂いがふわりと漂う。
スプーンですくって、ひとくち。
——もぐ。
ほっぺたが、ふわっと丸くなる。
もうひとくち。
——もぐ、もぐ。
さっきまでの遠慮が嘘みたいに、少しだけ夢中な動き。小さな口いっぱいに頬張って、ゆっくり味わっている。その様子を、晃はなんとなく眺めていた。
やっぱ、こういうの好きなんだな。
特に意味もなく始めたことだった。楽しそうだから。面白そうだから。ただ、それだけのはずだった。
——もぐ。
ほのかの頬が、また少し膨らむ。まるで、リスみたいだ。
——と思った次の瞬間。
ほのかは小さくカップを傾けた。底に残ったわずかなひとくちを、丁寧にすくい取ろうとしている。無意識の動作だった。ただ、食べることに夢中になっている。
そして。最後のひとくちを口に入れると、ほのかはゆっくりと味わうように目を細めた。
ふと、ほんの一瞬だけ。その目が、きらりと光った。わずかに口元が緩んで、誰にも見せていなかったような、やわらかな笑みがこぼれる。
「……」
晃の中で、時間が止まった。音も、色も、全部が遠のいていく。目の前にあるのは、ただ一つ。その顔。
胸の奥に、何かが落ちた。
あ、そっか。
やけに静かな納得だった。ずっと前から知っていたみたいに、するりと理解してしまう。
(俺、これ見たくてやってたんだ)
軽い気持ちなんかじゃない。ただの気まぐれでもない。この、無防備で幸せそうな、ちょっとだけ子どもみたいな顔を。
見たくて。
小さく息を吐く。なんだそれ、と自分で思う。でも、否定できなかった。
——甘えてんの、俺じゃん。
与えているつもりだった。あげる側だと思っていた。
でも、違う。もらっていたのは、ずっと——
「……日向くん?」
不思議そうな声に、はっとする。顔を上げると、ほのかがこちらを見ていた。スプーンを持ったまま、少しだけ首を傾げている。
何も知らない顔。何も気づいていない目。晃は一瞬だけ言葉を失った。それから、いつものように口を開く。
「うまい?」
軽い声。いつも通りの調子。ほのかは少しだけ間を置いてから、
「……はい。美味しいです」
そう答えた。その言い方も、表情も、いつもと変わらない。さっきの一瞬が、幻だったみたいに。
「そっか」
晃は笑う。いつも通りに、何も変わっていない顔で。
でも。胸の奥だけが、さっきまでと少し違う感触をしていた。さっきよりも、ほんの少しだけ重くて。ほんの少しだけ、あたたかい。
やばいな、と思う。
言葉にはしない。まだ名前もつけない。ただ、確かにそこにある感覚を抱えたまま。
「ほのかちゃん、それ食べ終わったらさ」
「……はい?」
「なんか飲む? 甘いやつ」
「え、あの……」
困ったように視線を泳がせるほのかを見て、晃は笑った。
やっぱり、楽しい。
——いや、違うか
楽しいだけじゃない。
この時間が、惜しい。終わってほしくないと思っている。そのことに、さっきより少しだけ正直になれた気がした。
その先までは、まだ考えない。ただ今は。この時間を、もう少しだけ。隣で続けていたいと思った。
夕焼けの中、ベンチに並ぶ二人の影が、少しずつ長く伸びていく。
それはまだ、名前のない関係のまま。けれど確かに、どこかへ続いていた。
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