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分からないが言えるまで
放課後の教室には、チョークの粉っぽい匂いと、西日の淡い橙色が残っていた。
窓の外からは運動部の掛け声が遠く聞こえてくる。けれど、それ以外は驚くほど静かで、教室に響くのは紙をめくる音と、シャーペンの走る音だけだった。
「……なんで今日提出なのよ」
昼休みに
『河島。今日中に提出して帰れよ』
クラスの視線が集まって、莉紗は思わず舌打ちしそうになった。最悪だ。
小春が途中まで一緒に残ってくれていたけれど、家の用事があるらしく、申し訳なさそうに帰っていった。
『ごめんね、莉紗ちゃん……!』
『別にいいし。さっさと行きなよ』
強がってそう返したものの、一人になった教室は思ったより広く感じる。机の列が整然と続いているだけで、さっきまで確かにあったはずのざわめきが、どこか遠いものになっていた。
寂しい、なんて思ってない。思ってない、けど。
「……っ、意味わかんないんだけど」
問題集の途中で、莉紗の手が止まった。何度式を見直しても分からない。数字を見れば見るほど頭がこんがらがっていく。
苛立ってシャーペンを机に置いた、その時だった。
ガラ、と教室の扉が開く。
反射的に顔を上げると、そこに立っていたのは
藍色の髪、黒縁の眼鏡。クラス委員の優等生。
そして、昼休みに。あたしのことを、庇ってくれた人。
胸の奥がざわりと揺れる。
気づかれてないはずだ。廊下にいたのは自分だけで、冬人は教室の中にいた。でも、それでも。こうして目の前に現れると、どうしても意識してしまう。
「……
声が少しだけ上ずった気がして、莉紗は内心で舌打ちした。
冬人は教室に莉紗しかいないことに少し驚いたようだったが、すぐにいつもの無表情に戻る。
「ああ、まだ残ってたんだ」
その一言だけで、莉紗の胸の奥が妙にざわついた。きっと今日、提出できなかったことを知っている。数学の授業中、冬人は前の席で全部見ていたはずだ。
恥ずかしい。見られたくなかった。
昼休みのことも、今日のことも、全部。
「……何。笑いに来たわけ?」
思ってもない言葉が口から出る。言った瞬間、自分で嫌になる。
どうしてあたしはこうなんだろう。意識すればするほど、素直になれない。
けれど冬人は表情を変えなかった。
「別に。忘れ物取りに来ただけだから」
そう言って、机の上に置かれていたノートを手に取る。眼鏡の奥の瞳が、一瞬だけ莉紗を映した気がした。
「……邪魔して悪かった」
静かな声を残して、そのまま教室を出て行こうとする背中。
莉紗は視線を落とした。
……最低。
なんで素直に話せないんだろう。本当は、少し安心したくせに。
分からない問題は相変わらず分からないままで、答案用紙の空白だけが増えていく。シャーペンを持つ手が止まった。
◇ ◇ ◇
廊下に出た冬人は、そのまま足を止めた。
ノートを手の中で持て余しながら、さっきの教室の空気を思い返す。
広い教室に一人で残って、プリントを睨んでいた河島の顔。
昼休み、噂話を聞いた時。河島はあの場にいなかった。だから直接伝わることはないと分かっていたけれど、それでも黙っていられなかった。
見てもいないことを事実みたいに話すのは、ただ、違う。
それだけのことだった。
なのに今、一人で残っている河島を見たら、胸の奥に妙な感覚が生まれた。
いつもは誰に対しても強気で、少し棘のある物言いをするくせに、あの時だけは妙に小さく見えた。
……別に、関係ない。
自分に言い聞かせるように思う。でも、足は動かなかった。
河島莉紗は自分のことが嫌いなんだろうと、冬人はずっと思っていた。話しかけるたびに返ってくる憎まれ口。距離を置くような目線。
だから関わらない方がいい。
分かっている。
それでも、頭の中に浮かぶのは、さっきの答案用紙の空白だった。あの顔が、どうしても引っかかって離れない。
「……はあ」
小さく息を吐いて、冬人は踵を返した。
◇ ◇ ◇
——「河島」
さっき出て行ったはずの声が、すぐ近くから聞こえた。
顔を上げると、戻ってきた冬人が莉紗の机の横に立っていた。
「……は?」
冬人は莉紗の答案を見下ろす。数秒視線を巡らせてから、淡々と口を開いた。
「どの問題?」
「え……」
「僕で良ければ教えるけど」
予想外の言葉に、莉紗は目を瞬かせた。
どうして、と思う。どうして戻ってきたのか。どうして教えようとしてくれるのか。
「……いいって。用事とかあるんじゃないの」
また可愛くないことを言ってしまう。この性格を直したい、と何度思ったか分からない。けれど冬人は気にした様子もなく、
「用事があったらさっき帰ってる」
と静かに返した。
「ないからここにいるんだ」
その言葉に、莉紗の胸がどくりと跳ねる。
まるで自分のために残っているみたいな言い方だった。いや、違う。きっと如月はそういう意味で言ったわけじゃない。
昼休みのことだって、たまたまそこにいただけで、あたしのためなんかじゃない。
分かっているのに、顔が熱くなる。
「……ここ」
誤魔化すように、莉紗は問題を指差した。プリントの中ほどにある、何度やっても解けない二次方程式。
冬人は隣の席の椅子を引いて座る。座ると思ったよりも距離が近くて、莉紗はこっそり姿勢を正した。
「ここは、この式を先に整理する」
低く落ち着いた声。ノートに書かれる文字は綺麗で、説明も驚くほど分かりやすかった。さっきまで意味不明だった数式が、少しずつ繋がっていく。
「……あ、そういうこと?」
「そう」
「え、待って。解けるかも」
「だから言っただろ」
淡々とした口調なのに、どこか優しい。
莉紗は夢中でシャーペンを動かした。
途中で手が止まるたびに、冬人は急かすでもなく、ただ静かに待っていた。どこで詰まっているのか、言葉にしなくても分かるみたいに、必要な時だけ口を開く。
こんな人だったんだ、と莉紗はぼんやり思った。
昼休みも、今も。余計なことは言わない。でも、必要な時にだけ、ちゃんとそこにいる。
「次、ここも分かんない」
「見せて」
また式を一緒に辿る。さっきより少しだけ、声が素直に出た気がした。
そして最後まで解き切った瞬間、ぱっと顔を上げる。
「……解けた!」
嬉しくなって思わず声が弾む。
その瞬間。
すぐ近くに冬人の顔があった。
思った以上に距離が近い。答案を覗き込んでいたのか、眼鏡の奥の黄金色の瞳と、真正面から目が合う。
冬人の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「良かった」
それを見た瞬間、莉紗の思考が止まる。
「っ……」
熱い。顔が。
近いし、笑うし、何なのよ……!
莉紗は慌てて視線を逸らした。窓の外に目をやると、いつの間にか運動部の声も遠のいていた。
そんな莉紗の様子に気づいているのかいないのか、冬人は何事もなかったように本を開く。
「続きもやるんだろ」
「……やる」
その後も、莉紗が詰まるたびに冬人は淡々と教えてくれた。余計なことは言わない。けれど、急かすこともない。式の意味を丁寧に拾い上げるように、ひとつひとつ言葉を置いていく。
最初は怖くて聞けなかった「分からない」が、少しずつ言えるようになっていた。
気づけば教室の外はすっかり夕焼け色になっていた。黒板も机も、全部がじんわりと橙色に染まっている。さっきまであんなに憎らしかったプリントが、今は嘘みたいにすっきり見えた。
最後の問題を解き終えた莉紗は、大きく息を吐く。
「……終わった」
冬人は本を閉じ、立ち上がった。
「終わったみたいだし。帰るか」
鞄を肩に掛け、そのまま歩き出す背中。
その姿を見て、莉紗の胸の奥が妙に焦った。このまま帰らせたら駄目な気がした。
「あ……あの!」
冬人が振り返る。
夕日の光が斜めに差し込んで、藍色の髪を少し明るく照らしていた。
莉紗はぎゅっとシャーペンを握り締める。
「如月がいなかったら、終わってなかった」
声が少し震えた。
「だから……ありがと」
素直な言葉が零れ落ちる。言ってから、じわじわと恥ずかしくなった。でも、後悔はなかった。
冬人は一瞬だけ目を見開いた。
驚いたような顔。
莉紗に素直に礼を言われたのは、初めてだった。いつも棘のある言葉ばかり返ってきていたのに。
けれどすぐに、その表情は柔らかく崩れる。
「……どういたしまして」
微かに笑ったその顔に、莉紗の心臓はまたうるさく跳ねた。
夕暮れの教室に、二人分の足音が静かに重なって、廊下へと消えていった。
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