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アルベールと雨

大切な人が消えた。音もなく、跡形もなく消えた。

驟雨の最期

私と彼は付き合っていたわけではない。いや、むしろ私の事情で付き合えなかったと表現するべきだろうか。
出会いは爆音響かせるクラブだった。
一人でよく通っているが、そこに行けば明るい仲間に出会えた。よく会う気の置けない友人から、初めましての人まで居るのがクラブというもの。踊って叫んで話して、そこで馬が合えば出会って一晩で連絡先を交換できてしまうのが利点だった。私がクラブで会う友人たちはそこで出会った人達である。しかし、私のスマートフォンの電話帳には両親と高校時代の友人数人、それからもう一台は仕事関係の人達のみ。
クラブでは連絡先を交換しない。これが私のモットーだった。もし万が一、誰かに自分のスマートフォンの電話帳を見られたら。誰かにクラブに通う女だと思われたら。尻軽だと軽蔑されたら。その危惧が払拭できないことには、交換など恐ろしくてできやしなかった。
そんな私の恐怖すらも吹っ飛ばす出会いをしたのが彼だった。ふと視線を感じて、友人との会話中にチラッとその方向を向いてしまったのが運の尽き。彼もたまたま誰かと話している最中らしかったが、私がそちらに顔を向けるとあちらもこっちを見ていた。
顔は中の上といったところで『まあ悪くない』部類。今までの私ならもっと上を探すのだが、その時二十数年間の人生で初めてビビっと脳内に『何がなんでもこの人を逃がすな』と信号が響き渡った。スマホが見られたら、なんて声は掻き消えた。
かくして私達は一晩で連絡先を交換した。
しかし何もなかった。お互いアクションを起こさなかった。彼は友人の先を望んでいたようだが、私がその先を言わせなかった。もちろん、自分もその先を望んだ。彼から言ってくれれば、なんて淡い夢のようなことも考えなくはなかった。
けれど、だめなのだ。やはり怖いのだ。スマホが見られたら、という恐怖ではなく。むしろその危惧は、連絡先を交換した時点で無かったも同然となっていた。
いや、それは建前だ。わかっていた。本当に怖がっていたのはそこではないと。また、隣から人が消えるのではないのか。心の奥深くにあるのはその一つだ。

高校二年生の頃、私は『男漁りが趣味の女』として有名だった。先に言わせてもらうと、男漁りなどしたことがない。ちょっとした反抗期で毎日のように放課後、男の子を交えてカラオケに行ったり、ゲームセンターへ繰り出したりしていただけだ。大人に隠れてタバコを吸うのも日常茶飯事で、バードキス程度なら誰であろうと戯れである。
そんなことを繰り返していると、いつの間にか陰でビッチや男たらしだと言われるようになった。同性からの陰口は鋭いナイフと大差ない。そのナイフがだんだんと大振りの剣サイズになる頃には異性も知るところとなった。
私は入学当初に一目惚れした男の子がいた。思いの外一途だった私は、二年生に上がってからも一人思い続けた。パッと見は真面目な印象を持つ彼は、しかし根暗とは違い、友人は多くノリも良い方だった。意外にも物事ははっきりと言うタイプで、例え友人でも嫌な頼まれごとだった時は「嫌だ」と断っている姿を何度か見たことがある。白黒はっきりしているその性格に尚更惹かれたのは言うまでもないだろう。
そんな彼に告白することを決めたのは、高校二年の秋口のこと。彼に告白しようとしている女子がいるらしいと噂を耳にした。その女子は、言うなればゆるふわ系で男子からの人気も高い子だった。
あの子に告白されたらきっと、付き合い始めるに違いない。そう信じ込み勝手に焦った私は放課後、イツメンからの遊びの誘いを断り、彼を空き教室に呼び出した。
「私、三組の遊川。好きです、付き合ってください」
当時にして一世一代の告白。面白みも何もない、使い古された文句。だが、他に言葉が出てこなかった。
それに対する返答は、
「ごめんだけど、ビッチとは付き合えない」
そんなやつだとは思ってなかったから、あの噂が聞こえてきた時、げんなりしたんだよね。そう続けられ、彼は机に置いていたカバンを手にして空き教室を出ていった。恋路は絶たれた。
けれど、考えてみれば全ては自分の行いのせいであった。所詮噂だからと、大っぴらに否定することもなく話題にすることもなかったのが大きな間違いだった。
信じてもらえる過ごし方をしていれば良かった。噂を否定しておけば良かった。彼と友達になって、それから告白すれば良かった。たくさんの後悔を身体が取り巻き、動けなくなった。近くに椅子があるのに座ることもできず、その場で蹲っていつまでも嗚咽を漏らしながら泣き続けた。
この日の天気は曇りで、教室には西日が射し込むことはなく。周りには自分を励ましてくれる存在もなかった。
私は卒業するまで、そして卒業してからも彼と接触しなかった。

ふと目を開けると常日頃見る黄色く煤けた天井が写った。自室のベッドで寝ていたようだ。いつもの如くクラブで、いつもより多くお酒を呑んだことは覚えている。その後どうやって帰宅したか、まるで記憶にないということは恐らく想像よりもしこたま呑んだのだろう。何故そんなにもアルコールを大量摂取したのかも、現状脳内には残っていなかった。頭を上げただけで頭痛と吐き気が襲う。これはしばらく動けない。
頭を枕に戻すと、枕が濡れている気がした。まさかヨダレでも流しながら寝ていたのだろうかと、顔を触るとベタついた感触はなくサラッとしていた。涙を流しながら寝ていたのだった。
「……なんもおぼえてねえよ」
ぽつりと呟く声は空間に融けて消えた。
今日の天気は曇りのようだ。

動けるようになるには一時間半ほどかかった。二度寝しようにも身体の状態があまりに悪くできたものではない。大人しくそばにあった推理小説を読んでいた。
正直推理小説など好みでは無かったのだが、高校に入学した頃からいつの間にか嗜んでいた。あのとき抱いた淡い恋心の影響で、興味もない本を読むのは最初こそ苦痛だった。しかし次第にそんなことも関係なくなっていき、ついには昼休みに図書室へ通いつめて端から端まで推理小説を読み漁っていた。恋が破れても好きになってしまった推理小説だけは手放せなかった。
手中にあった本を起き上がって棚に戻す。推理小説家が自身で考えた四十六番目の密室トリックで殺されたお話だった。ちなみにこの作家は殊更応援しており、棚には外国の国名から始まるタイトルの短編推理小説が並んでいたりする。他の作家のものも並んではいるが、読んだり読まなかったりなので多くはない。
そろそろ棚を拡張するか、別の場所に本を移すかしないと置き場がなくなりそうだ。そう思いながらスマートフォンに手を伸ばす。明るくなった画面には通知が三つ入っていた。クラブで出会った彼と連絡先を交換した時に、断りきれずついでに交換した友人からであった。
【おまえ、あいつと何があった?】
【夜来なかったから連絡してみたけど、繋がらない】
【さっきも電話したけど使われてないって。なあ、何があったんだよ、返事くれ】
昨日のことが津波のように襲いかかってきた。
ああ、そうか。そうだった。私、同じ人に恋をして振られたんだ。

連絡先の交換を始め、クラブで名乗る名前は別に本名でなくてもいい。それが仇となって、昨日までまるで気が付かなかった。
クラブで一目惚れした彼は、高校の時に告白したあの男子であった。

昨日は、日中に彼から話があると呼び出された。メッセージを送り合う仲ではあるが、これこそ回数は多くない。珍しいと思いつつ適度な、陽のもとを出歩けるおしゃれな格好をし待ち合わせ場所へ向かった。
待ち合わせ場所に着くと彼がいつもと変わらない格好で先に待っていた。クラブでは溶け込む格好でもお昼の駅前では人々から距離を取られる攻撃的な柄シャツ。
ああ彼だ、私の好きな彼。
「ごめんね、お待たせ」
「いや、早く着いちゃって。とりあえず行くか」
まるでカップルのようだな、と内心ニヤつきながらも彼のエスコートで歩き出す。
到着したのはカラオケだった。彼が部屋を取り、お互いがドリンクコーナーからソフトドリンクを持ってきたところで口を開かれた。
「聞きたいこと、というか確認したいことがある」
「なに?」
「……もしかして、なんだけど。お前、高校の時、二年三組だった遊川彩?」
どうして。なぜそれを知っている?
固まった私を是と捉えた彼は、今更すぎる自己紹介を始めた。
「遊川に告白されて振った、壱丸です」
壱丸澄人。よく覚えている。むしろ忘れられるわけがない名前。
「遊川のフルネーム、図書室で覚えちゃった。おれが読んだ推理小説から、まだ読んでいないやつまでほとんど全部貸出表に名前書かれてるんだから」
「……どうしてわかったの。その、私だって」
そういうと壱丸くんは数秒悩んだようにしてまた話し出した。
「話される内容が、身に覚えすぎる」
そして、今度は重々しく低い声で私に尋ねた。
「お前は、気付かなかったんだよな。おれだって」
首を縦に振るだけで精一杯だった。
「だよな。まあ、そうかなとは思っていた。最初は『また今度は何を企んでんだ』って毎晩考えていたけど、気付いていないなら話は別だ。今だから言うけれど、おれは遊川のこと、好きだったよ」
衝撃的事実に咄嗟に顔を合わせてしまう。そこにあったのは侮蔑の顔ではなかった。優しい、けれど遠くを見た目を携えていた。
「ガキの頃は趣味が合うだけで恋に落ちたりするものだろ。たまたまこの作家が好きなのかなと思ったら、どうやら推理小説全般が好きらしいとなると話してみたくもなるだろ。一年の頃は遊川のクラスの友人に話しかけるフリをしてお前のことを見てみたりしたもんだぜ」
「……そうなんだ」
「でも、まあ。二年の頃に横行した噂一つで掻き消えてしまったけどな」
そう言った彼はどこか悲しそうだった。
「あの噂、最初聞いたときは信じられなくて色々な人に確認してみたけれど。どうやらマジらしいって口を揃えて言うから、その日の夜は大号泣したよ」
「……ごめん」
それからはどうして私に気が付いたか一通り喋り始めた。彼も最初は、私のことにはまったく気が付かなかったという。しかし、好きな小説家の話や高校の頃は夜遊び三昧なこと、一目惚れして告白したが振られたことを聴き薄々気付き始めたらしい。極めつけは影で呼ばれていた『男漁りのビッチ』で決まりだったようだ。陰口の話までした覚えはないのだが、これも恐らく酔っ払ってしてしまったのだろう。直近で酔っ払った回数など多くはないがゼロでもない。
最後に、こう締め括った。
「この間『男漁りなんかしたことがない。ましてや誰かと愛情もないのに寝るなんて論外。みんな友達で気が合ったから普通に遊んでた、ただの反抗期』って聞いて、高校時代のおれはなんてバカだったんだって思った。何より本人に聞いてみればよかったんだよな」
ごめんな、おれ臆病者で。
その一言で、緊張の糸が切れて口走っていた。
「好きなんだ、壱丸くんのこと。好きなの」
ごめん、ごめんなさい。ずっと引きずってて。
眼の上に涙が溜まっていく。もう耐えきれなくて下を向くと溢れた涙が幾筋も作って伝っていった。
彼はそんな私に頭をそっと撫でながら、同じようにごめんと一言謝った。
少しして、あの時と同じように彼は部屋を出ていった。私はソファに座りながら、部屋の内部電話がかかるまでまた嗚咽を漏らしながら泣いていた。まるで成長していない自分を呪いながら。

【何もないよ。昨日はたしかにお昼時に会ってカラオケに行ったけど、それだけ】
友人にメッセージを返し、出かける準備をした。もちろん、彼を探すため。
どこをどう探すかは見当もつかないけれど、とりあえずいつものクラブに行ってみよう。営業時間外ではあるけれど、もう正午すぎだからマスターか管理人くらいは居るだろう。
そこで有益な情報が得られなかったら、昨日のカラオケや行きそうなショッピングセンターに向かってみようか。それでもだめだったら。
どうしてもネガティブ思考に傾いてしまう自分を叱咤しつつ必要最低限のものを持って外に出た。

結果から言って惨敗だった。何時間も走り回り、歩き回ったが一つとして収穫はなかった。自分からも電話をしてみたが、この電話番号は現在使われておりませんと機械越しに女声が流れたのみだった。
もう夕方も終わる頃。天気は曇りだったが三十分ほど前から雨が降り始めていた。傘など持ってきていない。
こんなことなら、住所を聞いておけばよかった。お昼に会いたいなんて珍しいね、と聞いてみればよかった。
恐らく、カラオケの帰りに携帯電話の解約をしたのだろう。
どうして、なぜ。そればかりが脳を支配しておかしくなりそうだ。
もう、立てない。
雨が強まる。身体にぶつけられる粒はまるで罪人に投げられる石のように感じた。
「ーーー!」
「ーーー!」
「ーーー!」
息の続く限り叫び、吸い込みまた叫び。涙はもう出なかった。それどころか流していてもいなくても雨に当たっているこの状況はどちらにせよ同じであった。その代わり声が枯れるまで声を吐き続けた。けれど、ざあざあと降るその雨音で叫びは片っぱしから吸収されていく。どこにも届くことはない。

翌朝の新聞に小さく彼の記事が載っていたことを新聞を取らない遊川は知らない。自室で首吊りしていたことも。遺書には『最期に会いたかった。会えてよかった』とだけ書かれていたことも。自殺で捜査が進んでいることも。原因は判明していないことも。なにも知らない。

――雲間から残酷に
光の筋が伸びる
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