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理想郷

テレビは点いていなかった。ガスコンロも炊飯器も電子レンジや洗濯機、掃除機……、家庭用機器と呼ばれる物はこのワンエルケーの部屋の中では何一つ動いていなかった。ただ一つ、ウォークマンだけがイヤホンを通じて一曲リピート再生されていた。多少アップテンポではあるが明るいJ-POPではなく『生きる』ことを題材としたバンドの曲だった。
イヤホンをしている張本人は壁を背にして、床に横たわっていた。眉間に皺を寄せて少し苦しそうだが、呼吸数、脈拍も弱くなっている。目は既に閉じられているのでじきに止まるだろう。
ドアやレースのカーテンが引かれた窓には隙間なく目張りされ、部屋の真ん中にはドンと炭が焚かれパチパチと鳴っている七輪が置かれていた。
外では元気に遊んでいるこどもの声と車の走行音が響く昼日中。
一人の女性が、最期に好きな音楽を聴きながら安らかに亡くなろうとしていた。

目が醒める。荒い呼吸と額からの汗、強ばった肩からうなされていたことを悟った。夢の中では床に横たわっていたが、見える天井と背中から感じる柔らかい材質によって、今自分はベッドに寝転がっていることも理解した。
取り敢えず身体を起こし、洗面台に向かう。顔を洗ってうがいをし、台所でコップ一杯分の水を味わうようにゆっくりと飲んだ。外はまだ暗い。恐らく三時か四時といったところか。
ベッドに戻って腰掛ける。荒れた呼吸はとっくに治まっていた。時間から考えるにまだ眠れそうではあったが、同じような夢をもう一度見かねないと思い至り体育座りでベッドの上で蹲った。あんな夢はもう今日は見たくない。目をつぶると、溢れ出るように一筋涙が零れた。

あれは、自分だった。苦しい人生から逃げる自分だった。何よりもああしたいのは私なのに、夢の中でしか行動できない自分に対して静かに泣いた。
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