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どこか遠くへ

 1945年、晩夏。最早誰にも縛られることのなくなった己の身体ひとつだけを携えて、田崎は大東亜文化協會の扉に手を掛けた。

「行くのか」

 振り返れば、柱に背を預けただ静かにこちらを見つめる神永の姿があった。田崎が任務でこの地を離れる前、最後に目にした時よりも、些か痩せたように見える。

「生憎、死ぬ前に訪ねておかなきゃならない場所が出来てしまったんだ」

 噛みながらその田崎の返答に「そうか」と短く応え、ふうと長い息を吐いた。その目元がほんの少しだけ頼り無さ気に揺れたのは、きっと田崎の見当違いではないだろう。

「……まず小田切がいなくなって、それから、三好。甘利もここには帰ってこない。実井も福本も、今頃どこで何をしていることやら」

 薄い笑みを零しながら、神永が淡々と告げる。

 田崎が遠い海の向こうの任務先から帰還した際、かつて機関員達の日々の営みを支えていた協會内は水に打たれたように静まり返っていた。D機関が設立されたあの頃のままその姿を変えることなく厳かに鎮座している魔王と、その隣に寄り添うように佇んでいた神永の姿が、田崎の脳裏に浮かんで消える。

「神永。お前を一人置いていく俺を許してくれ」
「馬鹿、誰が行かないでくれだなんて言った。お前は恐らく、俺達の中で最もここにいちゃあいけない奴なんだよ」
「それは褒め言葉として受け取っておくよ」

 皮肉っぽく発せられた神永の声に眉を下げて笑い、田崎は踵を返した。もう二度と開くことも閉ざすこともないであろう扉が田崎の視界を埋める。これをくぐれば、田崎は「田崎」でなくなるのだ。

「元気で。それから、波多野によろしく」

 餞別の言葉を背中でしっかりと受け止めて、田崎はドアノブへとその腕を伸ばした。
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