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どこか遠くへ

 海岸沿いに、浜木綿が群生している。もう少しして陽が沈んだら一斉に花開いて、辺り一面真っ白に染まることだろう。

 肌をくるむように撫でる熱帯の生温い風が、田崎の帽子を攫った。宙を舞ったそれは浜辺をゆらゆらと歩いている遠くの影の元へ飛び、そしてひらりとそのまま落ちた。

「……田崎?」

 飛ばされた帽子を手にこちらに駆け寄って来た男は、丸みを帯びた目蓋を驚きに見開いている。彼の手からふっと力が抜け、田崎の帽子は再び砂の上へと音もなく着地した。

 記憶の中よりも、柔らかい光を灯すようになった瞳。着崩された白いシャツから覗く鎖骨のラインも、田崎の知っているものよりずっと滑らかになっている。

 そんな彼の様子を、どうして腑抜けたと笑うことが出来ようか。きっと、田崎も彼と同じ顔をしている。

「元気だった?」
「お前、どうして」
「質問に質問で返す癖、変わってないね、波多野」

 指摘すれば、男はーー波多野はぐっと押し黙り、きまり悪そうに田崎を見た。その様がいじらしくて、田崎の唇は自然と上を向く。

 目の覚めるような青が打ち寄せる海岸通りを二人は歩く。素足の波多野と同じように、田崎も革靴を脱いで裸足で砂を踏んだ。

「中佐がね、教えてくれたよ。波多野はきっとここにいるだろうってさ」

 聞いた波多野はぎょっとした顔をして、「あの魔王……」と低く唸った。田崎の読み通り、やはり波多野は結城中佐に告げることなくこの南の離島へと身を寄せていたらしい。

 彼が何を思い、何を考え一人こうして未知の島で暮らすことを決めたのか、それを田崎が知る由はない。それでも、また隣に立ちたいと一度でも思ってしまえば、その願いを忘れることなど不可能だった。

「波多野、俺を人間にしてくれないか」

 田崎の口から放たれたその言葉に、波多野は再び瞠目し、それから声を上げて笑った。今まで一度も目にしたことのない、無邪気さを微塵も隠さない、弾けるような笑顔だった。

 己を縛っていたもの、そのすべてをどこかへそっくりそのまま置き去りにしてきたように、波多野の声は踊る。

「美味いものをたらふく食って、美味いって言って」
「うん」
「綺麗なものを見て、綺麗だなって言って」
「うん」
「好きな時に誰かに触れて、好きだよなんて言って」
「うん」
「俺はお前を、そういう糞みたいにありふれていて退屈極まりない人間にしてしまっていいのか」

 人肌ほどの熱さの砂を蹴りながら、波多野が詩人のように言う。田崎が足を止めれば、波多野も歩みをやめて、くるりと振り返った。

 夕暮れだ。波多野の背、西の方から橙が顔を覗かせている。波多野の栗色の髪の輪郭が曖昧になって、夕日に溶け出しているようだった。

「俺はね、波多野。その『糞みたいにありふれていて退屈極まりない人間』に、波多野もなってくれたらって思うよ」

 彼の目を真っ直ぐに見つめる。その瞳が他でもない自分だけを映していることが、今の田崎にとってはすべてだった。

「……それも悪くないかもしれないなんて思うくらいには、俺は多分もうとっくにつまんない人間に成り下がってるよ。少なくとも、お前の前ではずっと」
「それは、自惚れても良いってことかな」

 そっと目を伏せた波多野の口元は、次の瞬間確かな微笑みを湛えた。それを答えと受け取って、田崎は波多野の身体を自身の方へと引き寄せる。その肩口に顔を埋めて、田崎は、否、『田崎だった男』は祈るように瞳を閉じた。

 解ける夏を見送りながら、二人の名もなき人間が楽園の扉を叩いた。
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