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ホワイトホールの恋人たち

 ダンスホールの夜は薄白く深まる。

 きらびやかに着飾った気位の高そうなご婦人に、慣れない礼服に身を包み緊張した面持ちのいかにもおぼこい青年。はたまた、優雅な所作で女性の手を取る壮年の紳士。外の世界では交わることのない彼らも、この灯りの下ではみな同じだった。日々現実味を増していく大戦の兆しや、日常に潜む些細な陰りをその踵に乗せて、軽やかにステップを踏み鳴らしている。

 しかし、今晩ばかりはそこに少しの例外が存在している。フロアから少し離れた飲食席に、円卓を囲んでいる若者たちの集いがあった。帝国陸軍内の組織であるスパイ養成学校、通称D機関。その一期生である彼ら八人は、このダンスホールへ自らに課された訓練の一環として夜を更かしに訪れている。

「あそこの薄紅色のドレスの子、どうよ?」
「うーん、かわいいとは思うけど、俺の好みじゃないかな。もっとこう、淑やかな色気のある大人の女性がいい」
「神永は別にお前の好みは訊いていないと思うが」

 人懐こそうな笑みを浮かべ、くい、と顎を持ち上げたのは神永。甘利がそれに大げさに首を振ったのがおかしくて、田崎はつい笑って茶々を入れた。

 店に足を踏み入れたその瞬間から、神永と甘利の二人は軽快なバンドの演奏の響くフロアへ値踏みするような視線をひっきりなしに投げ掛けている。昼間に教わった女の口説き方を早速実践してやろうと息巻いているのだ。

 最も、彼らの場合は単に根がどうしようもない女好きであるに他ならない。彼ら以外のメンバーの中には、「講習の復習」という名目のもと、この場所に集う他の客と同様に息抜きを兼ねて夜の街に繰り出している者も少なからずいることだろう。神永などには何故だか自分も彼と同じように女性を口説きに来ていると思われているようだが、どちらかと言えば田崎は後者の方だった。

 「あっちの子が」、「いいやあっちがいい」などとやあやあ言い合っている隣の二人にそっと苦笑して、田崎は向かい側の席へと視線を戻した。自身の左隣から、波多野、実井、三好、福本、小田切と並んでいる。

「しかしまあ、毎度毎度飽きずによくやりますね。神永さんも三好さんも」

 飴色のアルコールがなみなみと注がれたウィスキーグラスを持ち上げて、実井がにっこりと微笑んだ。かわいらしい外見とは裏腹に機関員の中でも屈指の酒豪であるこの男は、酒が回ると常よりもやや饒舌になる。そして、彼の放つ言葉はどれも容赦なく他人の神経を逆撫でするので性が悪かった。

「おや、神永たちは良いとしても、僕に関しては一体何のことを言っているのかさっぱり分かりかねるのだけど?」
「しらばっくれなくたって良いんですよ。三好さん、あなた今晩も佐久間さんに振られてましたよね。ふふ、これでもう何度目になりますかねえ」
「うわっ、お前あれまだやってたのかよ。懲りねえなあ。好いた男に一途な生娘じゃあるまいし、早く止めれば?」
「いやいや波多野さん。実は三好さんこそ、その生娘なんですよ。ねえ?」

 澄まし顔の三好に、実井と波多野が底意地の悪そうな笑顔で詰め寄っている。安っぽい挑発に三好がご丁寧に応戦しているのはアルコールのせいか、図星を突かれて動揺しているせいか。何にせよ、やたら早口に苦しい言い訳を繰り返している。絵面がむさ苦しくない分まだ救えるが、こちらはこちらで右側の二人に負けず劣らず騒がしい。

 大げさに肩を竦めて「僕は別に佐久間さんのことなんて何とも思ってませんよ」と頭を振っている三好の横では、福本と小田切が黙々と酒を飲み交わしていた。

 はっきり言って、小田切は酒に弱い。もちろん一般的に見れば下戸と言うほどではないのかもしれないが、軒並み酒に耐性のある機関の者たちと比べると、その差は歴然だった。それ故に、お目付け役という意味で、福本は常々小田切の隣の席を確実に確保している。

「さて、それじゃあそろそろ狩りに出掛けますか。甘利、俺の選んだ子の方が良かったって後で泣きついても遅いからな」
「ご冗談。俺の審美眼に狂いはないさ」

 談笑の輪が少々収まったところで、先ほどからさりげなくかつ熱心に女性たちを品定めしていた二人が席を立った。神永は結局一番最初に目を付けた薄紅色の少女を今夜の相手に選んだらしい。一方、甘利は濃紺のドレスを纏った少し陰のある面持ちの女性へと歩み寄っていく。その後ろ姿に「健闘を祈るよ」と声を掛け、田崎はひらひらと手を振った。
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