raison d'etre
窓から射し込む光が優しい日曜の午後。
大東亜文化協會の食堂では、D機関の面々が思い思いの休日を謳歌していた。
部屋の隅で静かに読書を楽しんでいる実井。皆に振る舞った昼食の後片づけに黙々と勤しむ福本。三好や波多野、田崎、神永は円卓でポーカー(珍しく本当にただのポーカーである)に興じている。小田切はと言うと、実井の隣で読み掛けの本を閉じ一服中である。
非番の日は一日がゆったりと長い。この上なく平和なひと時が流れながらもどこか気怠さの漂う空間に、部屋の入り口に立つ甘利の間延びした声が響いた。
「ねえねえ見て見て。面白いもの貰っちゃった」
そう言って甘利が掲げてみせた右手に握られていたのは、真新しい写真機だった。
「ほらほら三好〜笑って〜」
「ちょっと、勝手に写さないで。撮影料取るよ」
「まあまあそう堅いこと言わずに」
先ほどまでのんびりとした時間を過ごしていた機関員達の目の前で、写真機を手にした甘利が三好を執拗に追い回している。
三好が頑なにレンズから逃げ回るのは、今日が生憎の雨だからだ。流石の三好でも、湿気に反応してうねる前髪はどうにも出来ないらしい。プライドの高い三好としては、完璧とは到底言えない自身の姿を写されるなど言語道断なのだろう。
三好の離脱により中途半端なまま止まってしまった卓に溜息を吐いて、波多野が甘利に問う。
「お前、それどうしたの?」
「昨日知り合った女の子が『壊れて使えない』って今にも放り出さん勢いだったから貰ってきちゃった」
このご時世、写真機と言えば超の付く高級品である。にも拘らず、ちっとも悪びれずウインクまで飛ばす甘利の姿に、「お前一体どこのお嬢様をたらし込んだんだよ……」とその場にいた七人全員の心が一つになったのは言うまでもない。
「で、そのお嬢さんの言うところによると、それは壊れてたんじゃあなかったのか?」
「うん、そう言ってたんだけどね。帰ってきてから分解してちょろっと弄ったらすぐ直ったよ」
「まあ、年季が入ってるって訳でも無さそうですし。単純な初期不良か何かだったんでしょうね」
「甘利ッ!だから撮るなと言ってるだろうが!」
神永の問い掛けに答えた甘利が三好に向かってシャッターを切ると、それまで黙って成り行きを見守っていた実井も会話に加わった。
「甘利さん、三好さんの無様な写真が撮れたら是非見せてくださいね」
「おい、実井貴様」
「いいよ〜。せっかくだから現像しようと思ってるし」
「へえ、それはいいですね。人一倍自意識過剰な三好さんの慌てた顔が少しの間でも形として残ると思うと、愉快で仕方ありません」
人当たりの良さそうな顔であっけらかんと言ってのける実井に、三好が露骨に嫌な顔をした。それを見た波多野が「顔崩れてんぞ三好ィ〜」と茶々を入れる。
まだ訓練中の身であるとは言え、ここにいる八人は後々スパイとして各地に送られることとなる。写真という形でその存在を残しておくことなど、勿論許されることではないだろう。
それでも、殺伐とした未来に踏み出すためのほんの余興として、甘利は機関員達の姿をフィルムに残そうと考えたのかもしれない。
「よし、じゃあ今日は皆で撮影会と洒落込もうじゃないか」
ぱん、と手を打ち立ち上がったのは神永だ。神永は甘利の手から写真機を受け取ると、新しい玩具を買って貰った子どものようにそれをしげしげと眺めては楽しそうにしている。
甘利と同じく年長者である神永の提案に、波多野がうんざりした顔で不平を漏らした。
「おいおいしっかりしてくれよ年上組よお」
「たまには思いっきりふざける時間だって必要だろ?なあ田崎くん」
「え、そこで俺に振るのか」
「ほらほら〜田崎もお兄さん達と一緒に遊ぼうよ」
やいのやいのと盛り上がる面々を尻目に、小田切がそっと溜息を吐いた。それに反応したのは、それまで沈黙を守っていた福本だった。
「小田切、せっかくだからお前も撮って貰ったらどうだ」
「……いや、何がせっかくなんだ」
「良いじゃないですか。何ならお二人でツーショットでもどうです?」
「ああ、それも良いな」
それまで自分と同じように傍観を決め込んでいた福本が実井の提案に案外乗り気で返事をしているのを、小田切は呆然と眺めることしか出来なかった。
なんだかんだ言って、ここにいる連中は皆少なからずそれがどんな形であれ『面白い』ことが好きなのだ。先程から不満ばかり漏らしている波多野も、今となってはすっかりその口元をにやにやと緩めている。
「そうと決まればこうしちゃいられない。なるべくなら『休日のちょっとした一幕』みたいな態で撮りたいから、各自適当と思われる場所へ散ってくれ」
すっかりプロのカメラマンにでもなったかのような物言いの神永に、小田切は心の中で「持ち前の自尊心をこんなところで発揮しないでくれ」とややうんざりしながらも律儀に突っ込みを入れた。
「生憎、僕はまだ付き合うなんて言ってないんだけど?」
「三好くんの意見は却下ですーD機関員は強制参加ですー」
毒気がたっぷり含まれた三好の文句を口笛ひとつでさらりと躱し、神永は「ほら行った行った」と渋る三好の背をぐいぐいと押した。
「じゃあ俺は屋上の鳩舎の様子でも見に行って来ようかな」
「おっ良いねえ。さすが鳩のおじさんこと田崎」
「甘利におじさんって言われるのはちょっとな……」
「じゃあ俺は道場にでも行くかな。甘利、お前一緒に来いよ」
「ええっ俺波多野に投げ飛ばされてるところ撮られるの?」
「まさに日常って感じで和むし良いと思いますよ。では僕は資料室に」
神永の鶴の一声で機関員達がばらばらと席を立ち、食堂には小田切と福本の二人のみが残った。
「……福本、お前はどこかに行かないのか」
「お前こそ」
「俺は……ここで読書をしていることが多いから」
「俺も、休日はこうして台所に立っていることが殆どだな」
「…………」
「…………」
静まり返った食堂に、福本が調理器具を出し入れする音と、小田切が文庫本のページを捲る音だけが響き始めた。
大東亜文化協會の食堂では、D機関の面々が思い思いの休日を謳歌していた。
部屋の隅で静かに読書を楽しんでいる実井。皆に振る舞った昼食の後片づけに黙々と勤しむ福本。三好や波多野、田崎、神永は円卓でポーカー(珍しく本当にただのポーカーである)に興じている。小田切はと言うと、実井の隣で読み掛けの本を閉じ一服中である。
非番の日は一日がゆったりと長い。この上なく平和なひと時が流れながらもどこか気怠さの漂う空間に、部屋の入り口に立つ甘利の間延びした声が響いた。
「ねえねえ見て見て。面白いもの貰っちゃった」
そう言って甘利が掲げてみせた右手に握られていたのは、真新しい写真機だった。
「ほらほら三好〜笑って〜」
「ちょっと、勝手に写さないで。撮影料取るよ」
「まあまあそう堅いこと言わずに」
先ほどまでのんびりとした時間を過ごしていた機関員達の目の前で、写真機を手にした甘利が三好を執拗に追い回している。
三好が頑なにレンズから逃げ回るのは、今日が生憎の雨だからだ。流石の三好でも、湿気に反応してうねる前髪はどうにも出来ないらしい。プライドの高い三好としては、完璧とは到底言えない自身の姿を写されるなど言語道断なのだろう。
三好の離脱により中途半端なまま止まってしまった卓に溜息を吐いて、波多野が甘利に問う。
「お前、それどうしたの?」
「昨日知り合った女の子が『壊れて使えない』って今にも放り出さん勢いだったから貰ってきちゃった」
このご時世、写真機と言えば超の付く高級品である。にも拘らず、ちっとも悪びれずウインクまで飛ばす甘利の姿に、「お前一体どこのお嬢様をたらし込んだんだよ……」とその場にいた七人全員の心が一つになったのは言うまでもない。
「で、そのお嬢さんの言うところによると、それは壊れてたんじゃあなかったのか?」
「うん、そう言ってたんだけどね。帰ってきてから分解してちょろっと弄ったらすぐ直ったよ」
「まあ、年季が入ってるって訳でも無さそうですし。単純な初期不良か何かだったんでしょうね」
「甘利ッ!だから撮るなと言ってるだろうが!」
神永の問い掛けに答えた甘利が三好に向かってシャッターを切ると、それまで黙って成り行きを見守っていた実井も会話に加わった。
「甘利さん、三好さんの無様な写真が撮れたら是非見せてくださいね」
「おい、実井貴様」
「いいよ〜。せっかくだから現像しようと思ってるし」
「へえ、それはいいですね。人一倍自意識過剰な三好さんの慌てた顔が少しの間でも形として残ると思うと、愉快で仕方ありません」
人当たりの良さそうな顔であっけらかんと言ってのける実井に、三好が露骨に嫌な顔をした。それを見た波多野が「顔崩れてんぞ三好ィ〜」と茶々を入れる。
まだ訓練中の身であるとは言え、ここにいる八人は後々スパイとして各地に送られることとなる。写真という形でその存在を残しておくことなど、勿論許されることではないだろう。
それでも、殺伐とした未来に踏み出すためのほんの余興として、甘利は機関員達の姿をフィルムに残そうと考えたのかもしれない。
「よし、じゃあ今日は皆で撮影会と洒落込もうじゃないか」
ぱん、と手を打ち立ち上がったのは神永だ。神永は甘利の手から写真機を受け取ると、新しい玩具を買って貰った子どものようにそれをしげしげと眺めては楽しそうにしている。
甘利と同じく年長者である神永の提案に、波多野がうんざりした顔で不平を漏らした。
「おいおいしっかりしてくれよ年上組よお」
「たまには思いっきりふざける時間だって必要だろ?なあ田崎くん」
「え、そこで俺に振るのか」
「ほらほら〜田崎もお兄さん達と一緒に遊ぼうよ」
やいのやいのと盛り上がる面々を尻目に、小田切がそっと溜息を吐いた。それに反応したのは、それまで沈黙を守っていた福本だった。
「小田切、せっかくだからお前も撮って貰ったらどうだ」
「……いや、何がせっかくなんだ」
「良いじゃないですか。何ならお二人でツーショットでもどうです?」
「ああ、それも良いな」
それまで自分と同じように傍観を決め込んでいた福本が実井の提案に案外乗り気で返事をしているのを、小田切は呆然と眺めることしか出来なかった。
なんだかんだ言って、ここにいる連中は皆少なからずそれがどんな形であれ『面白い』ことが好きなのだ。先程から不満ばかり漏らしている波多野も、今となってはすっかりその口元をにやにやと緩めている。
「そうと決まればこうしちゃいられない。なるべくなら『休日のちょっとした一幕』みたいな態で撮りたいから、各自適当と思われる場所へ散ってくれ」
すっかりプロのカメラマンにでもなったかのような物言いの神永に、小田切は心の中で「持ち前の自尊心をこんなところで発揮しないでくれ」とややうんざりしながらも律儀に突っ込みを入れた。
「生憎、僕はまだ付き合うなんて言ってないんだけど?」
「三好くんの意見は却下ですーD機関員は強制参加ですー」
毒気がたっぷり含まれた三好の文句を口笛ひとつでさらりと躱し、神永は「ほら行った行った」と渋る三好の背をぐいぐいと押した。
「じゃあ俺は屋上の鳩舎の様子でも見に行って来ようかな」
「おっ良いねえ。さすが鳩のおじさんこと田崎」
「甘利におじさんって言われるのはちょっとな……」
「じゃあ俺は道場にでも行くかな。甘利、お前一緒に来いよ」
「ええっ俺波多野に投げ飛ばされてるところ撮られるの?」
「まさに日常って感じで和むし良いと思いますよ。では僕は資料室に」
神永の鶴の一声で機関員達がばらばらと席を立ち、食堂には小田切と福本の二人のみが残った。
「……福本、お前はどこかに行かないのか」
「お前こそ」
「俺は……ここで読書をしていることが多いから」
「俺も、休日はこうして台所に立っていることが殆どだな」
「…………」
「…………」
静まり返った食堂に、福本が調理器具を出し入れする音と、小田切が文庫本のページを捲る音だけが響き始めた。
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