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センス・オブ・ワンダー

 最低な気分だ。
 マリエン広場の人混みの間を器用にすり抜けながら、波多野は小さく溜息を零した。
 まったくもって、今日は朝からついていなかった。普段であれば考えられないような寝坊をし、大学の講義に向かうべく慌てて支度をする羽目になったために腕時計を忘れた。そのせいで地下鉄に乗り遅れ、始業には紙一重で間に合わなかった。極めつけに、一日の講義を終え椅子から立ち上がった丁度そのタイミングで、靴紐が切れた。しかも、ご丁寧に両方ともだ。
 日本人ながら、波多野は生まれも育ちもミュンヘンだ。商社に勤める父親の関係で、波多野はドイツ人に囲まれて育った。両親の方針から家の中では日本語を話し、一歩外に出れば地元の子供たちと遊んだ。
 物心ついた頃から、自分がどこか周りの子供とは異なる存在であることは自覚していた。語学や数学、歴史科学に至るまで、幼子が大人に習うような物事に関するすべてを、波多野は一度で習得してみせた。十になる頃には大学生並みの教養が身についていたように思うが、そのどれについても、難しいと感じたことは一度もなかった。
 そして、波多野の頭脳に目をつけた大人たちが「神童だ」と騒ぎ出す頃には、ある一つの記憶が「本来の」波多野を呼び起こすこととなる。
 D機関。結城中佐の指揮のもと、そこで訓練を受けていた自分。自分に負けず劣らぬ自負心を持った7人の同胞、否、人でなし達。そして、その中でも最も趣味の悪かったあの男――。
 それらすべての記憶をしっかりと抱いたまま、何の因果か波多野はドイツの地に二度目の生を受けたのだった。
 記憶を取り戻した波多野は、それまでの天才児としての仮面をあっさりと脱ぎ捨て、一転して慎ましく振舞った。目立ちたくない。というよりも、目立ってはならないと感じたのかもしれない。骨の髄まで染み込んでいるスパイ精神に内心苦笑しつつも、特段周囲の目を惹かない程度の優等生に留まることにしたのだ。争い事のない今この時、もちろんそうした身の振り方を強要されることはない。それでも、一度思い出してしまえば、嫌でも当時の自分自身が顔を出す。いくら違う時代に生まれたと言っても、波多野はやはり「あの」波多野なのだ。

 十七時、広場には様々な人種の人間が多く集まって来ている。市庁舎の仕掛け時計が動き出すと、行き交う観光客たちがわっと歓声を上げた。その浮足立った声を受け流しながら、波多野は行きつけのビアホールへ足を踏み入れた。
 広場の隅にひっそりと位置し、一見強面に見える店主の切り盛りしているこの店は、観光地にありながら地元の人間の憩いの場となっている。そのため居心地が良く、波多野も日頃からよく利用していた。こんなひどい気分の時は、尚更だ。
 「おっちゃん、いつもの」と早口に注文し、壁際一番端のお決まりのカウンター席へ。店内のテーブルでは、気の良さそうな笑顔を浮かべた男たちが豪快にビールを煽っている。
 程なくして運ばれてきたグラスに手を掛け、その中身を一気に乾いた喉へと流し込んだ。些かではあるが、萎れていた心が潤っていくような感じがする。やはり、やるせない気持ちには酒が効く。朝方からの騒動を苦々しく思い出しながら、波多野は再び周りには気取られない程度に息を吐いた。
 頬杖をつき、つまみでも頼もうかとぼんやりと思案しながら再びグラスに手を伸ばしたところで、波多野の耳が一人の人間の足音を拾った。普通の足音ではない。これは、意図的に音を立てまいと細心の注意を払っている者のそれだ。
 店内の喧騒に掻き消されてしまってもおかしくないほどの至極微かなそれは、確かに波多野の方へと近付いてくる。恐らく、波多野以外の人間の耳には届いてすらいない。最も、ざわついたフロアでは、誰かの足音が聞こえようが聞こえまいが誰も気には留めはしない。
 一体何故、こんな場所で足音を消す必要があるのか。平和を絵に描いたような酒場の空気とは似ても似つかぬその洗練された所作に、波多野は「まさか」と一つの可能性を思い浮かべ、それから小さく頭を振った。
 まさか、彼らの内の誰かが自分に会いに来たなどと、そんなことを望むのは馬鹿げている。そもそも、もし彼らが自分と同じようにこの時代に生を受けていたとしたところで、誰がどこで何をしているのか、そうしたことを知る術など存在しないのだ。そんな状況下においては、彼らに再び巡り合うなど、雲をつかむような話だ。もし万が一でもそんなことがあるとすれば、それこそ本当に奇跡とでも言うべきだろう。
 そこまで考えたところで、波多野は件の足音が鳴り止んだことに気が付いた。多分、すぐ隣に立っている。音もなく近付いてきた存在にあくまで気付いていないと言った振りを決め込んだまま、波多野は自身の胸が高鳴っていくのを感じていた。
 相手は一体何を仕掛けてくるつもりなのか。それとも、何もしないつもりなのか。見当はつかなかったが、それが逆に波多野の興奮を煽った。その感覚は、異国の地で一人スパイとして暗躍していた遠い昔に覚えたものと同じで、どうしようもなく波多野に生を実感させる。
 さあ、どう出る――?
 当人達の間にのみ走る緊張感を楽しみながらも頬杖をついたままの波多野の頭上から、若い青年のものであろう穏やかな声が降って落ちた。

「火を貸してもらえませんか?」
 
 その声が耳に届くやいなや。先ほどの余裕はどこへやら、波多野の身体は一瞬にして強張った。
 まさか、そんなことが。先ほどその万に一つの可能性を消し去ったばかりだというのに。波多野の胸はどくどくと派手に加速していく。
 かつての7人の同胞達。その中でも、波多野の中にいっとう色濃く刻み込まれている人物がいる。今まで何度も夢に見て、その度に思い出してどうすると自身を諫めてきた、一人の男。その懐かしい声が、まさに今、流暢なドイツ語で再生されている。
 「私の靴は黒い」。とっさに口をつきそうになった当時の合言葉を喉元に押し込んでから、波多野は意を決して声の主へと視線を吊り上げた。

「……残念ながら、この店は去年から禁煙になったんですよ」

 ほんの僅かに引き攣ってしまっている波多野の笑顔に、「ああ、そうでしたか」と青年は小さく肩を竦める。
 見間違えるはずがない。波多野が捉えたその姿は、間違いなく件の男――田崎だった。
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