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センス・オブ・ワンダー

 突如波多野の目の前に現れた、田崎に瓜二つの男。男はさも当然であるかのように自身の名を田崎と名乗り、そのまま波多野の隣に腰を掛けた。日本からの留学生で、こちらへ渡ったのはつい先月だと言う。

「不躾にすみません。でも、ここでこうして会えたことも何かの縁。ご一緒しても?」
「……ええ、どうぞ」

 柔和な笑みと共に差し出された右手を握り返し、波多野はグラスの縁に口をつけながら男の横顔を盗み見た。
 似ている。というより、変わっていないと表現する方が正しいだろうか。服装こそ当時と違えど、顔の造形や体格、声、些細な仕草に至るまで、この男が田崎であることは疑いようがないように思える。
 まさか、自棄酒をするために飛び込んだこんな場所でこうしてまみえることになろうとは。夢にまで見た再会は、随分呆気なく波多野の元へと訪れた。
 逡巡する波多野の思考を知ってか知らずか、田崎は流れるような仕草で店主を呼びつけ、テーブルの上に置かれたグラスを指して「この方と同じものを」と注文を済ませた。
 間を置かず運ばれてきたグラスを掲げ、田崎が乾杯を求めてくる。波多野も自身のグラスを持ち上げ、田崎の方へと運んだ。からん。ガラスのぶつかる軽い音が小さく響く。

「この出会いに」

 気取った台詞をさらりと言えてしまうのは、この男の美徳であり悪いところでもある。歯の浮くような愛の囁きに、波多野はよく苦い顔をしたものだった。
 田崎はあの頃のことを覚えているのだろうか。当時と同じようにゆったりとした余裕を浮かべた口元からは、彼の本心を探ることが出来ない。先ほどわざわざ足音を消していたことについても、身体に染み付いた癖が滲み出てしまっていただけという可能性を否定することは出来なかった。
 田崎と波多野とは、過去に何度も互いを求め合った仲だ。もしかつての関係が波多野の独り善がりでなければ、田崎にとっても波多野は他の機関員より思い出深い相手であるはずだ。にも拘らず、そうした人間を前にしているにしては、田崎の態度からは未練のようなものを感じ取れない。
 しかし、そうは言っても、少なくともこの男が他でもない田崎であるという点については、波多野には疑いようがなかった。
 もちろん、田崎という男について波多野が持ち合わせている知識は、D機関で演じられていた「田崎」という人間についてのものでしかない。それでも、波多野の身体は田崎の熱を知っている。重ね合わせた肌の温度や、瞳に揺らぐ情の色を。
 だからこそ、波多野には直感で分かってしまう。この男こそ、自身が求めたあの恋の正体なのだと。
 確証がない。それが、出会ってから今までの短い時間の中で波多野の導き出した答えだった。そして、自分のことを覚えてすらいないかもしれない相手に対しての再会を手放しに喜べるほど、波多野は単純ではなかった。

「ああ、そういえばまだお名前を伺ってなかったな」

 さもたった今思い出したと言った具合に、田崎は波多野の方へと視線を寄越した。とてもこちらに来て数日の東洋人のものとは思えない完璧なドイツ語で落とされたその呟きに、波多野はあえて日本語で応える。

「島野です。両親は二人とも日本人ですが、生まれも育ちもこの辺りで」

 あえて過去の任務でのコードネームを名乗ると、男がその双眸を僅かに細めたような気がした。しかし、本当に些細な変化だったので、波多野の見間違いかもしれない。
 波多野の外見は当時から大きく変わっていない。少なくとも、もし記臆を持つ田崎が今の波多野の姿を目にすれば、「あの」波多野だと躊躇なく断言する程度には。それゆえに、田崎の顔に大きな表情の移り変わりを見てとることが出来れば、男が波多野のことを覚えていると断定するための材料になったはずだ。「波多野」だと断定している相手が別の名前を名乗れば、例え田崎であっても多少の動揺が顔に出る。結局、その企ては失敗に終わってしまったのだけれど。
 波多野の頭は、二つの道すじを弾き出す。
 向こうに記臆が戻っていないのであれば、それまでだ。自分という存在について思い出して欲しいとは思わないでもないが、そうした劣情はおくびにも出したくはない。それだけは、波多野の自尊心が許さなかった。少なくとも、許さないだろうと波多野自身は思っている。
 反対に、向こうも同じように過去の記臆を持っていて、その上でこうして近付いて来たのだとしたら?その時は、いよいよ腹の探り合いだ。こちらから「俺のことを覚えているか」なんて言ってやるつもりは毛頭ない。自分たちの関係は、そんなに甘いものではなかった。さらに言えば、波多野個人のプライドと負けん気の問題としてそんな真似は絶対にしたくはないのだ。そして、恐らくそれは相手も同じはず。そうなれば、これはどちらかが致命的なボロを出すまでのゲームだ。

「やはり日本の。実は、何となくそんな気がして声を掛けたのです。何せ慣れない場所で、少し心細かったのもあって」
「特にここは地元の人間が多いですからね。田崎さんはどうしてまたわざわざこんな辺鄙な店へ?」
「学校で声を掛けてくれた現地の友人に教えて貰ったんです。安くて美味い店があるって」

 にこり、と少々眉を下げて笑ってみせる男の顔に、かつての面影が確かに重なる。
 遠く、それでいて懐かしい記臆。「薄ら寒い」だの「胡散臭い」だの散々ぶつくさ言いながらも、田崎のこの笑顔が波多野は嫌いではなかった。
 田崎の話に相槌を打ちながら、波多野はメニューから次々と適当につまみを注文していく。それを見ていた田崎が「よく食べるんですね」とはにかんだので、「見かけによらず、ですか?」とそれとなく嫌味っぽく返してやった。よく言われるのでつい、と謝罪の言葉を付け足しても、田崎はゆるりと微笑むばかりだ。食えないところも変わっていない。
 テーブルに並び始めたソーセージやらマッシュポテトやらを波多野が勢いよくかっ込んでいる間も、田崎はちまちまと酒を飲みながら自分について話した。大学では考古学について学んでいること、ドイツ語は比較的得意でこちらの生活にはそんなに苦労していないこと。ちょうど一部屋余っていたとかで、下宿にも拘わらずワンルームではなく寝室つきのLDKで一人暮らしをしていること。好きな食べ物、好きな書物、今を生きる田崎という男にまつわるエトセトラ。そうして与えられる細やかな情報について、波多野は適宜質問したりしながら、過去の田崎との相違を探して楽しんだ。
 一通り会話が収束し、二人の間に初めての沈黙が落ちる。こうして隣同士に座ってから既に店の時計の長針は一周していたが、相手が何を考えているのか分からないのはお互い様だろう。グラスがテーブルに着地する音と、他の客たちの陽気な談笑が遠くに聞こえている。

「……本当のことを言うと、今日はちょっと嫌なことがあって……思い切り、飲みたい気分だったんです」

 沈黙を破ったのは、田崎。切れ長の目元にアンニュイな憂いを浮かべている。
 波多野の目から見れば一目でそれと分かるほどの、安い芝居だ。最も、一般人、特に女性から見れば、田崎という男の魅力がこの上なく効果的に映る演出の仕方ではある。

「へえ、奇遇ですね。実は俺も今日は本当についてなくて、地下鉄を逃したり、靴紐が切れたり朝から散々でした」
「そういうことって、何故か重なってしまうんですよね」
「そうそう。で、こうして自棄酒ってワケです」
「俺の方は、つい先ほど付き合っていた子に手厳しく振られてしまって。しかも、その原因が俺が趣味で披露した手品だったんですよ」
「えっ、それってどういうことなんですか?」

 ついに来た、と思った。
 今の今まで、田崎の口からは彼の趣味についての話題は一度たりとも登場していない。D機関での生活の中で、手先の器用さを活かしたあの手品ほど彼を印象づけていたものは他になかったにも拘らずだ。だからこそ、仕掛けてくるなら必ずそこだと波多野は見当をつけていたのだ。
 つまらないことなんですけどね、と田崎が眉を下げ、まるで台本の台詞を読み上げるようにつらつらと話し始める。

「見せてくれとせがまれたので、同じ科の女の子たちの前でちょっとしたコインマジックをやって見せたんです。そしたらたまたまそこに彼女がいて、鬼のような剣幕で『信じられない!この女ったらし!』とか『他の女に何てことしてるの!』とかそれこそ信じられないくらいの早口で捲し立てられてね。半分くらいは聞き取れなかったんじゃないかな」

 田崎の苦笑混じりの話を聞いた波多野は「随分懐の狭い女だな」なんて月並みな感想を抱いたが、この話が本当にあったことか、そうでないか、それは最早重要なことではなかった。注意を払わねばならないのは、ここから先。それでも、言わなくてはならない台詞はもう決まっているも同然だ。否、そう尋ねるよう田崎によって誘導されているのだ。

「そこまで言われるなんて、一体どんな手品を?想像もできないな」

 ほら、訊いてやったぞ。
 未知への期待に、波多野の胸がどくんどくんと踊る。
 先ほどの安っぽい演技は、恐らくわざとだ。あえて表情を作ってみせることで、田崎は「何か企んでいる」ということを伝えようとした。ギリギリまで手品の話をしなかったのも、「切り札として使うつもりだ」という分かりやすいアピールだろう。彼にしては随分親切なヒントの出し方だ。
 波多野も波多野で、田崎の「よく食べるね」という旨の言葉に「見かけによらずか?」と問い返した時点で決定的な手掛かりを与えていた。機関員だった頃、何度も繰り返したやり取り。あえてそれをなぞることは、非常にシンプルかつ明快な意思表示だった。
 相手が自分のことを思い出しているということは、お互い途中からとっくに気付いている。その上でどちらが先に音を上げるか様子を見ていたのだ。
 高尚な心理戦を繰り広げているようで互いに分かりやすい情報を提供している辺り、二人はよく似ている。あれやこれやと回り道をしようとしつつ、結局最後は互いの方へ早く早くと急いている。
 とは言え、波多野は負けてやる気はなかったし、それは田崎も同じ。そして、田崎が仕掛けてきた今この瞬間こそが、ゲームの終わりが近付いていることを知らせている。

「本当に何てことはない初歩的なものですよ。今はコインを持っていないので全く同じ通りにとはいきませんが、再現してみせましょうか」

 田崎はただ真っ直ぐに波多野の視線を絡め取った。先ほどまでは大らかに緩められていた口元には、今や挑戦的な笑みが浮かんでいる。
 この土壇場まで来て引くなんて気はさらさら無いが、ゲームの勝ち負けは別として、田崎の切り札には興味があった。
 ここまで勿体ぶったのだから、自分にあっと声を上げさせるくらいのトリックが望ましい。田崎と同じように、波多野の唇の端が好戦的に吊り上がった。

「それは是非、見てみたいですね」

 逸る鼓動が身体中に響いているのを感じながら、波多野は正面から田崎の瞳を覗き込んだ。
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