今を光れと声がする
それはきっと、毎日の中で何気なく見上げていた空の青さや、とりとめのない日常のひとかけらなのだと思う。
重みを増していく瞼の裏にぼんやりと浮かび上がってくるのは、かつての自分の面影だ。
今の自分からはうんと離れたような、どこか遠くの方で、眠たそうなまなざしでこちらを見つめている。そんなまどろむように生ぬるい記憶を、人は思い出と呼ぶのだろう。
「あ、タケル!」
頭上から降ってきた明るい声に、夢の中へと沈み込もうとしていた意識が不意に現実へと呼び戻された。いつもより心なしか体温の高い右手には、ミネラルウォーターのボトル。どうやら、レッスンを終え事務所のソファで水分補給をしていたほんの一瞬の間に睡魔に攫われていたらしい。
「……お疲れ様、隼人さん」
「うん、タケルもお疲れ。ていうかごめん、起こしちゃったかな……? タケルがいるの見えたから、何も考えずに呼んじゃって」
「いや、全然。むしろあのまま寝てたら円城寺さんに迷惑掛けるところだったから、隼人さんが気付いてくれて、良かった」
そういえば、次の仕事の件で話があるからとプロデューサーに呼び出された円城寺さんを待っていたんだったな、と思い出す。控えめに腕を伸ばして身体を奮い立たせると、ぼやけていた頭の中が次第に鮮明になっていくのが分かった。
315プロダクションでアイドルとして活動していく中で、少しずつではあるがユニットメンバー以外の仲間との交流も増えてきている。中でも、同い年である秋山隼人は、とあるドラマの撮影を機にタケルのことを何かと気に掛けてくれる。同じ年頃の少年と気安い関係になった経験の浅いタケルにとって、隼人は特別な友人だった。
「隣、座っても平気?」
尋ねる声に頷くと、隼人が背中の楽器を下ろして「お邪魔します」と隣に腰を下ろした。わざわざ許可を取るあたり、律儀な人だなと思う。どこぞの拳法家とは大違いだ。
「隼人さんも、レッスン終わりか」
「そうそう。さっきそこでハイジョの皆と別れたんだけど、忘れ物したの思い出してさ」
「忘れ物?」
「うん、これくらいのチラシなんだけど……あ、あったあった」
両の人差し指を四角く動かしてみせて、隼人はローテーブルの上の薄いピンク色の紙切れを手に取った。
差し出された手作り感満載のそのチラシには、大きな手書き文字で『納涼盆踊り大会』と書いてある。
「さっきそこで商店街のおじさんに貰ったんだ。来週、すぐそこの神社で夏祭りやるんだって」
「夏祭り……」
隼人の意図するところを把握しきれず、思わずそのまま鸚鵡返しをしてしまった。
事務所近くの神社で、盆踊り大会がある。それは分かる。ただ、それに至る文脈が、タケルの脳内ではちっとも繋がらなかった。まず、隼人がわざわざこのチラシを取りに事務所まで戻ってきた理由。そして、それをこうして手渡された理由。
眉間に皺が寄ったのに気付いたのだろう、隼人が慌てたように言葉を継いだ。
「あのっ、それでさ。もしタケルさえ良かったら、一緒に行かない? なんて……」
そうして明確に言葉にしてもらって初めて、タケルは自分に向けられている視線が僅かな気恥ずかしさを纏っていることに気が付いた。
「これさ、本当はスタジオ行く前に写真に撮って後でタケルに送ろうと思ってたんだけど、何やかんやでばたばたしてそのまま置いてっちゃってたんだ。でも、そしたらこうやってタケルに会えたから、結果オーライかな」
隼人は自分を誘うために、こうしてここに戻って来てくれたのだと言う。胸の内に、言葉にならない気持ちが花開いていくようだ。
まっすぐな人だな、と思う。はは、とはにかんで後ろ髪を掻く仕草に、申し訳なさと、それと同じくらいの嬉しさが込みあげた。
本当は勢いよく「行きたい」と言ってしまいたかったのだけれど、口をついて出たのはそれよりもっと控えめな言葉になってしまった。
「その、良いのか? 隼人さんには、他にたくさん誘う相手がいるんじゃないか」
例えば、High×Jokerのメンバー。それ以外でも、人懐こい性格の隼人には、きっとたくさん友人がいる筈だ。
知らず知らず、タケルの親指にぎゅっと力がこもる。薄い紙の表面に、細く歪んだ線が走った。
何も自分でなくてもいいのではないか。
そんなタケルの疑問を見透かしているかのように、隼人はきっぱりと言い放った。
「いや、俺はタケルを誘いたかったんだ! せっかくこうして友達になれたんだし、俺、もっとタケルと仲良くなりたくて」
そんな風に必死になって、隼人はタケルの目を真正面から覗き込んだ。
過ぎること数秒。隼人は火照った頬を両手で包み込んで、そのままばっと大げさに俯く。
「うう、何かほんと一人で勝手に熱くなってごめん……あのっ、嫌だったら全然断ってくれていいから!」
「い、嫌なんかじゃない! その……俺、口下手で上手く言葉にできないけど、俺も隼人さんと……もっと色々な話がしたい」
半ば引っ張られるようにしてではあったが、今度は素直な気持ちをそのまま伝えることができ、タケルはほっと胸を撫で下ろす。
「ほんとに!? 良かった~……」
「誘ってくれてありがとう、隼人さん」
「どういたしまして。当日は思いっきり買い食いしような!」
そう言って笑う隼人の顔に、胸の中に面映ゆい気持ちが広がる。誰かに対して心を向き合わせるということを覚えたのは、この事務所で多くの仲間との関わりを持つようになってからだ。
まっすぐにぶつかってきてくれた、その気持ちに応えたかった。真っ赤に染まった隼人につられているのか、体温が上昇しているような気がする。
幸い、予定の日は丸一日オフになっている。隼人の方は夕方にレッスンが詰まっているとのことで、夜から合流しようということになった。
「それじゃ、俺はそろそろ帰ろうかな。詳しいことはまたあとで連絡するよ」
「分かった。よろしく頼む」
よいしょ、と黒いギターケースを背負った隼人の背中を見送って、スマートフォンのスケジュール機能を起動する。件の日程に『隼人さんと祭り』と書き込もうとした矢先、今しがた閉まったばかりのドアの開く音がした。
「待たせたな、タケル。漣は?」
「さあ、円城寺さんが呼ばれてからすぐにどっか行ったみたいだ」
「全くしょうがないな。まあ、アイツにはまた明日にでも伝えれば良いか」
プロデューサーとの打ち合わせを終えて戻ってきた道流は小さく苦笑して、それから、「じゃ、男道ラーメンへ出発」と肩に掛けた荷物を担ぎ直した。
『ラーメン』という単語に忘れかけていたタケルの腹の虫が元気を取り戻して、ぐう、と大きな音を立てた。それを聞いた道流が大きく笑って、「たくさんご馳走してやらないとな」とかき混ぜるように頭を撫でる。
「それで、何の話だったんだ」
「ああ、師匠から新しい仕事の話を貰ったんだ。来週の金曜、地方の商店街で虎牙道のミニライブを開催してくれるらしい」
ビルの廊下を連れ立って歩きながら、タケルは己の手の中の端末の液晶を覗き込んだ。先ほど操作したままになっていたから、カレンダー機能が起動しっぱなしになっている。
「あ……」
力なく開いた唇の端から落胆の色を乗せた小さな音がこぼれて、それは重力に逆えずに下へ下へと力なく落ちていく。
来週の金曜日。その枠の中には、打ちかけの『隼人さん』という文字が居心地悪そうに収まっていた。
重みを増していく瞼の裏にぼんやりと浮かび上がってくるのは、かつての自分の面影だ。
今の自分からはうんと離れたような、どこか遠くの方で、眠たそうなまなざしでこちらを見つめている。そんなまどろむように生ぬるい記憶を、人は思い出と呼ぶのだろう。
「あ、タケル!」
頭上から降ってきた明るい声に、夢の中へと沈み込もうとしていた意識が不意に現実へと呼び戻された。いつもより心なしか体温の高い右手には、ミネラルウォーターのボトル。どうやら、レッスンを終え事務所のソファで水分補給をしていたほんの一瞬の間に睡魔に攫われていたらしい。
「……お疲れ様、隼人さん」
「うん、タケルもお疲れ。ていうかごめん、起こしちゃったかな……? タケルがいるの見えたから、何も考えずに呼んじゃって」
「いや、全然。むしろあのまま寝てたら円城寺さんに迷惑掛けるところだったから、隼人さんが気付いてくれて、良かった」
そういえば、次の仕事の件で話があるからとプロデューサーに呼び出された円城寺さんを待っていたんだったな、と思い出す。控えめに腕を伸ばして身体を奮い立たせると、ぼやけていた頭の中が次第に鮮明になっていくのが分かった。
315プロダクションでアイドルとして活動していく中で、少しずつではあるがユニットメンバー以外の仲間との交流も増えてきている。中でも、同い年である秋山隼人は、とあるドラマの撮影を機にタケルのことを何かと気に掛けてくれる。同じ年頃の少年と気安い関係になった経験の浅いタケルにとって、隼人は特別な友人だった。
「隣、座っても平気?」
尋ねる声に頷くと、隼人が背中の楽器を下ろして「お邪魔します」と隣に腰を下ろした。わざわざ許可を取るあたり、律儀な人だなと思う。どこぞの拳法家とは大違いだ。
「隼人さんも、レッスン終わりか」
「そうそう。さっきそこでハイジョの皆と別れたんだけど、忘れ物したの思い出してさ」
「忘れ物?」
「うん、これくらいのチラシなんだけど……あ、あったあった」
両の人差し指を四角く動かしてみせて、隼人はローテーブルの上の薄いピンク色の紙切れを手に取った。
差し出された手作り感満載のそのチラシには、大きな手書き文字で『納涼盆踊り大会』と書いてある。
「さっきそこで商店街のおじさんに貰ったんだ。来週、すぐそこの神社で夏祭りやるんだって」
「夏祭り……」
隼人の意図するところを把握しきれず、思わずそのまま鸚鵡返しをしてしまった。
事務所近くの神社で、盆踊り大会がある。それは分かる。ただ、それに至る文脈が、タケルの脳内ではちっとも繋がらなかった。まず、隼人がわざわざこのチラシを取りに事務所まで戻ってきた理由。そして、それをこうして手渡された理由。
眉間に皺が寄ったのに気付いたのだろう、隼人が慌てたように言葉を継いだ。
「あのっ、それでさ。もしタケルさえ良かったら、一緒に行かない? なんて……」
そうして明確に言葉にしてもらって初めて、タケルは自分に向けられている視線が僅かな気恥ずかしさを纏っていることに気が付いた。
「これさ、本当はスタジオ行く前に写真に撮って後でタケルに送ろうと思ってたんだけど、何やかんやでばたばたしてそのまま置いてっちゃってたんだ。でも、そしたらこうやってタケルに会えたから、結果オーライかな」
隼人は自分を誘うために、こうしてここに戻って来てくれたのだと言う。胸の内に、言葉にならない気持ちが花開いていくようだ。
まっすぐな人だな、と思う。はは、とはにかんで後ろ髪を掻く仕草に、申し訳なさと、それと同じくらいの嬉しさが込みあげた。
本当は勢いよく「行きたい」と言ってしまいたかったのだけれど、口をついて出たのはそれよりもっと控えめな言葉になってしまった。
「その、良いのか? 隼人さんには、他にたくさん誘う相手がいるんじゃないか」
例えば、High×Jokerのメンバー。それ以外でも、人懐こい性格の隼人には、きっとたくさん友人がいる筈だ。
知らず知らず、タケルの親指にぎゅっと力がこもる。薄い紙の表面に、細く歪んだ線が走った。
何も自分でなくてもいいのではないか。
そんなタケルの疑問を見透かしているかのように、隼人はきっぱりと言い放った。
「いや、俺はタケルを誘いたかったんだ! せっかくこうして友達になれたんだし、俺、もっとタケルと仲良くなりたくて」
そんな風に必死になって、隼人はタケルの目を真正面から覗き込んだ。
過ぎること数秒。隼人は火照った頬を両手で包み込んで、そのままばっと大げさに俯く。
「うう、何かほんと一人で勝手に熱くなってごめん……あのっ、嫌だったら全然断ってくれていいから!」
「い、嫌なんかじゃない! その……俺、口下手で上手く言葉にできないけど、俺も隼人さんと……もっと色々な話がしたい」
半ば引っ張られるようにしてではあったが、今度は素直な気持ちをそのまま伝えることができ、タケルはほっと胸を撫で下ろす。
「ほんとに!? 良かった~……」
「誘ってくれてありがとう、隼人さん」
「どういたしまして。当日は思いっきり買い食いしような!」
そう言って笑う隼人の顔に、胸の中に面映ゆい気持ちが広がる。誰かに対して心を向き合わせるということを覚えたのは、この事務所で多くの仲間との関わりを持つようになってからだ。
まっすぐにぶつかってきてくれた、その気持ちに応えたかった。真っ赤に染まった隼人につられているのか、体温が上昇しているような気がする。
幸い、予定の日は丸一日オフになっている。隼人の方は夕方にレッスンが詰まっているとのことで、夜から合流しようということになった。
「それじゃ、俺はそろそろ帰ろうかな。詳しいことはまたあとで連絡するよ」
「分かった。よろしく頼む」
よいしょ、と黒いギターケースを背負った隼人の背中を見送って、スマートフォンのスケジュール機能を起動する。件の日程に『隼人さんと祭り』と書き込もうとした矢先、今しがた閉まったばかりのドアの開く音がした。
「待たせたな、タケル。漣は?」
「さあ、円城寺さんが呼ばれてからすぐにどっか行ったみたいだ」
「全くしょうがないな。まあ、アイツにはまた明日にでも伝えれば良いか」
プロデューサーとの打ち合わせを終えて戻ってきた道流は小さく苦笑して、それから、「じゃ、男道ラーメンへ出発」と肩に掛けた荷物を担ぎ直した。
『ラーメン』という単語に忘れかけていたタケルの腹の虫が元気を取り戻して、ぐう、と大きな音を立てた。それを聞いた道流が大きく笑って、「たくさんご馳走してやらないとな」とかき混ぜるように頭を撫でる。
「それで、何の話だったんだ」
「ああ、師匠から新しい仕事の話を貰ったんだ。来週の金曜、地方の商店街で虎牙道のミニライブを開催してくれるらしい」
ビルの廊下を連れ立って歩きながら、タケルは己の手の中の端末の液晶を覗き込んだ。先ほど操作したままになっていたから、カレンダー機能が起動しっぱなしになっている。
「あ……」
力なく開いた唇の端から落胆の色を乗せた小さな音がこぼれて、それは重力に逆えずに下へ下へと力なく落ちていく。
来週の金曜日。その枠の中には、打ちかけの『隼人さん』という文字が居心地悪そうに収まっていた。
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