夏の頁

 ふ、とミーティアが目を開けたとき、空は暗く、やわらかな月の光が窓から入っていた。夜になっていた。もぞりと音を立てて起き上がると、枕元には昼間に髪を結んでいた濃い青色のリボン。ナイトテーブルには蠅帳が被せられた皿と、水差しにコップ。そして青い鳥の羽根が置かれていた。それに、ネグリジェ姿であった。どうやら、使用人が寝かせてくれたらしい。けれど、屋敷までどうやって来たのだろう? そう彼女が思っていると、くう……と寂しいお腹の音がした。誰もいない部屋でぽっと顔を赤らめ、蠅帳を取って、皿の上に置かれていたサンドイッチを口にした。塗られたバターの香ばしい匂いと、野菜の瑞々しい甘さが口いっぱいに広がる。

 ──おいしい。

 食べ物がおいしいと、生きている気がする。そう、ミーティアは思うのだ。
 生きていたって、苦しいことが続くだけなのに。できることなら、楽しいことだけして死にたいのに。
 そのことを……死について考えていると、必ず頭の中をよぎるのが──夜色の髪に金色の瞳、しろがねのツノの少年。ルカ。不死の男の子。ルカ。
 きっと、彼がここまで運んでくれたのだろう。あの黒いぼろの服を被って、ツノを隠して。
 そっと、ナイトテーブルに置かれた青い羽根を手に取る。何て名前の鳥なのか、ルカはミーティアに教えてくれなかった。……その前に、ミーティアが倒れてしまったのだけれど。けれど、その青色は、今空に浮かぶ月光に照らされていると昼間とは色が変わって見えて、まるで透明と言って良いほど澄み渡っていた。

「……ルカ」

 ミーティアは呟く。いつの間にか、何よりも愛しくなってしまった彼の名前を。そして、いつ会えるか分からなくなるかもしれないその名前を。彼女は枕元に置いてあったリボンで、羽根の付け根をきゅっと結んだ。次に会えたとき、ふたりのお守りとして彼に渡せるように。──そして、もし会えなくなったら、使用人にあの幹に十字の傷をつけた木の下に置いてもらうのだ。
 ありがとう。さようなら。の証として。

「……ふっ、うう、んぅ……」

 そう考えた瞬間、ミーティアの口から嗚咽が漏れ、シーツの上にはぱたぱたとしずくが落ちた。
 この静かな森の屋敷で天寿を全うしたい。
 いやだ。あの子とずっと一緒にいたい。
 ふたつの心が、ミーティアの中で交差する。その度にずきりずきりと胸が痛んだ。

 医者は、せめて痛みを少なくする方法しか教えてくれなかった。苦い薬を飲んで、ベッドに横たわって、日の光を浴びて──。そうして、死神が訪れるまでの日々を過ごした。ミーティアの両親も、彼女が苦しんでいる時、同じくらい苦しんでいた。泣きそうな顔で、彼女の手をそっと握るのだ。
 ミーティアは、それがいやでいやでたまらなかった。誰かを苦しめるくらいなら、こんな人生終わらせてしまいたい。そう思っていた。

 けれど、彼女は出会ってしまったのだ。愛してしまったのだ。彼を。──ルカを。
 少し素っ気ないけれど、いつも優しく手を握ってくれて……菓子を一緒に食べてくれる、男の子を。

『本当は生きたいんじゃないのか?』

 ルカはそう言った。その時は否定したけれど、今のミーティアは───。

「生きられるかぎりせいいっぱい、あなたと生きていたいわ。ルカ……」

 彼女以外誰もいない部屋で、そっと羽根とリボンで作った飾りを胸に抱いて、涙をこぼすのであった。
 
「うっ……ぅ、ぐ、げほっ、ごほっ!」

 涙さえ静かに流させてはくれないのか。ミーティアの胸はぎりぎりと痛み、喉がざわざわと掠れる。ベッドのそばのベルを鳴らすと、程なくして使用人が慌てて入ってきた。

「お嬢様! 痛みますか。咳止めを持ってきました。水も新しいものに変えましょうね」
「あり……がとう」

 やはりミーティアは、誰かに任せきりの人生が嫌なのであった。
 苦い苦いシロップ薬を飲まされ、水で喉に流す。しばらくすると、苦しさは治まってきた。そういえば、ルカは風邪をひくのだろうか。ふと、彼女は考える。不死の存在が風邪なんてひかないだろうとも思ったが、もし季節の変わり目などに体調を崩すのならば、例の今日行けなかった彼の"家"で丸まって過ごしている気がして。ミーティアはおせっかいながら、彼にこの薬草でできた咳止め薬を持って行ってあげたくなった。

「……お嬢様、そちらは?」

 そんなことを考えていると、使用人がそっとミーティアの手元を見つめる。そこには青い羽根と青いリボンで作った飾りがあった。

「あ……この羽根ね、妖精からもらったの」
「まあ! そうだったのですね」
「……いつも、その妖精といると、新しいものばかり見せてもらえるから……だから、ありがとうの証で作ったのよ」
「……そうですか。……お嬢様、今日屋敷の扉をノックした者がいたのです。貴女様を抱えた、黒い外套を被った者が……。礼を言おうとしたら走って去って行ってしまいまして」
「……!」
「もしや、あれが妖精なのですか?」

 ミーティアの胸は弾むようなうれしさでいっぱいになった。間違いなくルカだ。ああ、次に会えたら、やっぱりこの青と青のお礼を渡して、言葉でもお礼をしないと。
 ──そして、ミーティアはやはり思うのだ。わたしは、あの子が好きだと。

「ええ……! そうよ。羽根も生えてないし、ぴかぴか光ってもいないからびっくりしたでしょう」
「ええ……私が想像していた妖精とだいぶ違いました。纏う雰囲気は少し怖いくらいで……」
「ふふっ。本当は、全然怖くないのよ。今日の木苺の砂糖漬けもおいしそうに食べてくれたわ」
「まあ……でも、お嬢様」

 令嬢の弾む声音ににこにこと笑顔で返していた使用人は、すっと真面目な顔をする。それをを見たミーティアは、思わず羽根飾りを再び胸に抱きしめた。

「これから暑くなってきます。しばらくは外出はお控えください」
「あ……。わたし、これを……」
「……秋に渡しにいきましょうね。秋は境界の季節です。暑さと寒さ、緑と茶色……きっと、お嬢様の体調も、不調に偏ることはないでしょう」
「そうかしら……」
「そうですよ。大丈夫、大丈夫……。さ、もう眠りましょうね」
「……はい」

 しぶしぶ横たわったミーティアの上に、使用人は羽根布団をかける。もぞもぞと身じろぎをし、ミーティアは窓越しに空を見上げた。満月とも違う、ほんの少しだけ欠けた月。けれど安心させてくれる、やさしい光。

 だからこそ、ミーティアは苦しかった。次、ルカに会えるのはいつだろう。秋、秋の境界に立てなかったら? 冬、冬に凍えてしまったら? 春、またふたりでアステリシアの花を見たいのに、それが叶わなかったら?
 使用人がお辞儀をして部屋から去る。それと同時に、ミーティアの瞳には厚い水の膜がはった。ぐすりと鼻をすすると、その水はぽたりと頬を伝って落ちた。彼女は月から顔をそらし、布団のなかにうずくまる。ああ、あの子に会いたいのに。せめてこの気持ちを伝えてから死にたいのに。──ううん、やっぱり死にたくない。ずっとルカと一緒にいたい。
 ミーティアの心はぐちゃぐちゃと様々な感情が混ざり合ってしまった。
 
「すきよ、ルカ……」

 あえかな声が布団の中に響く。誰も聞いていない、その声は、もちろん彼にも届くはずがなく。森で遊びたい。菓子を食べたい。抱きしめたい。手を繋ぎたい。そんな小さな願いが泡のように生まれては弾け、ぽつんぽつんと涙の音を流し、ミーティアは気づけば夢の中にいた。彼と共に、笑い合う夢を。
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