夏の頁
夏の夜は短く、考え事には向いていない。ルカは、そう思う。
ルカは屋根も床もほとんど無い、ぼろぼろの建物の……地下室に、座り込んでいた。ここが、ルカの家なのだ。──かつて、この森には小さな国があった。そして、彼が座り込んでいるこの場所こそが、その国の王族の城であった。キキキ、と小さく夏虫の声がする。そんな中で、彼はじっと黙り込んで、考え事をしていた。
自分は、いつから"こう"なのだっけ?
そう思えば、すぐに答えは出てくる。覚えている。今から数百年、あるいは千年も前……ルカは、ただの人間であった。人間の、王子だった。
そして、そんな王子の体はとても弱かった。暑さにも寒さにも弱く、何かあればすぐに倒れてしまう。ベッドの上から動けない存在。
誰もがそれを悲しく思っていた。どうにかしたいと思っていた。そして、どうにかしてしまったのだ。
ベッドに横たわり目を閉じている王子の手を、そっと握る者がいた。王宮に仕える魔法使いであった。彼……いや、彼女だっただろうか、ルカは覚えていない。──とにかく、魔法使いは歌うように呪文を紡いだ。すると、王子の体はかあっと熱くなり、そして死を感じるほど冷え切った。ひどく頭痛がし、彼は魔法使いに手を伸ばす。
(どうして)
(何をしたの)
(どうしてこんなことをしたの)
声に出せない想いを視線だけで魔法使いに向ける彼に、魔法使いは泣きそうな顔で応えるのであった。
「私は、貴方に生きていてほしいのです。王子殿下」
「私はずっと、考えていました。どうすれば王子殿下を救えるのかと」
「そして、貴方を生かす方法を、やっと見つけました」
「民の命を使って、貴方を生かすのです」
そんなの、そんなの──身勝手だ。だってたった今、こんなに、死ぬほど苦しいのに。王子はそう思った。そう思った途端、胸の奥から黒いどろどろとした感情が彼の中から生まれた。
恐怖、狂気、怒り、悲しみ。
獣の本能だ。
呑まれたくない。そう思った頃には遅かった。彼はベッドから飛び出し、魔法使いの首に手をかけていた。ぎりぎりと首を絞め上げられていても、魔法使いは泣きそうな笑顔であった。
(こんなことしたくない)
(このままでは殺してしまう)
(だけど──)
自分が殺しに躊躇の無い獣になりつつあることを、王子は感じていた。がしゃん! とランプの火が落ちる。徐々に周りが炎に呑まれていく中、それでも魔法使いは言うのだ。そっと、ポケットから淡く光る花──アステリシアの花を出して。
「生きてください、王子……貴方を愛しています」
やがて、魔法使いは動かなくなった。
部屋は豪奢なシーツや絨毯に炎が引火し、息苦しいほどの煙に満ちていた。王子は渡されたアステリシアの花を振りほどき、泣きながら部屋を出て走った。花は音も無く燃えていった。
愛というものがこんなにまで恐ろしいなんて、知らなかったから。痛くて寒くて、怖かったからだ。
城の外に出たら、空は白んでいて、朝が来ていた。しかし、民たちの気配は無い。
誰か、誰か……! と王子は走る。走ることができていることに、かつて病弱であった王子は気づかなかった。
そして──気がつけば森の泉まで来ていた。熱でかさかさになった喉を潤そうと泉を覗き込んだ時……。
夜闇の中でも光る金色の瞳が。
冠のような、白く巻いた、ツノが。
「……っ!」
ルカはここで思考を一旦止めた。周りを見渡せば、そこはやけに静かな城下町でもなく、燃える部屋でもなかった。もう、それらは無いのだ。時が経ち、消えて無くなった。
はくはくと息をし、ルカは背中を壁にぐったりと預けた。
「愛、か……」
愛。彼が考えないようにしていたことだった。あの魔法使いは、国民の命を使ってルカに魔法をかけた。不老不死の獣になる魔法を。それが、魔法使いにとっての愛なのであった。だからこそ、ルカは誰も愛したくないと思っていた。魔法使いの愛は、とてもまっすぐなものであることは理解していたけれど、ルカには痛みを感じるものであったし、そんな者の手で獣に変じた自分の愛は、誰かを傷つけるものだろうとも思っていた。
けれど……ルカの胸には、愛が芽生えていた。あの月色の髪の儚い少女──ミーティアへの、愛が。ルカはできることなら彼女に自身の優しさを全て与えたかった。でも、それができるかわからなかったのだ。
愛し方が分からない。
抱きしめて、手を繋げば良いのだろうか。愛していると囁けば良いのだろうか。どうすれば、彼女が生きている間に、この気持ちを全て伝えられるのだろう。
「ミーティア」
ルカは舌の上で彼女の名前を転がす。木苺の砂糖漬けのような、甘い味の名前。ふと、彼はすっかりぼろぼろになった小さなテーブルを見る。その上には、黄ばんだ白色の冠が置いてあった。──アステリシアの花冠。ミーティアがルカに最初に贈ったもの。ルカのこの感情の始まりのものだ。光らなくなっても、どんなに色褪せても、ルカはこれを捨てることができなかった。今でも、時折頭に被っては、あの出会いに想いを馳せる。
『世界って、とってもきれいなのね……』
ミーティアは花畑の中でそう言った。
ルカは相変わらずまっすぐそうとは思えない。でも、彼女がそばにいてくれるなら、何もかもがきらめいていて、美しいと思えるのだ。
「……本当に綺麗なのは、ミーティア、きっとお前なんだよ」
ルカはそう呟き、膝を抱え目を閉じた。
ルカは屋根も床もほとんど無い、ぼろぼろの建物の……地下室に、座り込んでいた。ここが、ルカの家なのだ。──かつて、この森には小さな国があった。そして、彼が座り込んでいるこの場所こそが、その国の王族の城であった。キキキ、と小さく夏虫の声がする。そんな中で、彼はじっと黙り込んで、考え事をしていた。
自分は、いつから"こう"なのだっけ?
そう思えば、すぐに答えは出てくる。覚えている。今から数百年、あるいは千年も前……ルカは、ただの人間であった。人間の、王子だった。
そして、そんな王子の体はとても弱かった。暑さにも寒さにも弱く、何かあればすぐに倒れてしまう。ベッドの上から動けない存在。
誰もがそれを悲しく思っていた。どうにかしたいと思っていた。そして、どうにかしてしまったのだ。
ベッドに横たわり目を閉じている王子の手を、そっと握る者がいた。王宮に仕える魔法使いであった。彼……いや、彼女だっただろうか、ルカは覚えていない。──とにかく、魔法使いは歌うように呪文を紡いだ。すると、王子の体はかあっと熱くなり、そして死を感じるほど冷え切った。ひどく頭痛がし、彼は魔法使いに手を伸ばす。
(どうして)
(何をしたの)
(どうしてこんなことをしたの)
声に出せない想いを視線だけで魔法使いに向ける彼に、魔法使いは泣きそうな顔で応えるのであった。
「私は、貴方に生きていてほしいのです。王子殿下」
「私はずっと、考えていました。どうすれば王子殿下を救えるのかと」
「そして、貴方を生かす方法を、やっと見つけました」
「民の命を使って、貴方を生かすのです」
そんなの、そんなの──身勝手だ。だってたった今、こんなに、死ぬほど苦しいのに。王子はそう思った。そう思った途端、胸の奥から黒いどろどろとした感情が彼の中から生まれた。
恐怖、狂気、怒り、悲しみ。
獣の本能だ。
呑まれたくない。そう思った頃には遅かった。彼はベッドから飛び出し、魔法使いの首に手をかけていた。ぎりぎりと首を絞め上げられていても、魔法使いは泣きそうな笑顔であった。
(こんなことしたくない)
(このままでは殺してしまう)
(だけど──)
自分が殺しに躊躇の無い獣になりつつあることを、王子は感じていた。がしゃん! とランプの火が落ちる。徐々に周りが炎に呑まれていく中、それでも魔法使いは言うのだ。そっと、ポケットから淡く光る花──アステリシアの花を出して。
「生きてください、王子……貴方を愛しています」
やがて、魔法使いは動かなくなった。
部屋は豪奢なシーツや絨毯に炎が引火し、息苦しいほどの煙に満ちていた。王子は渡されたアステリシアの花を振りほどき、泣きながら部屋を出て走った。花は音も無く燃えていった。
愛というものがこんなにまで恐ろしいなんて、知らなかったから。痛くて寒くて、怖かったからだ。
城の外に出たら、空は白んでいて、朝が来ていた。しかし、民たちの気配は無い。
誰か、誰か……! と王子は走る。走ることができていることに、かつて病弱であった王子は気づかなかった。
そして──気がつけば森の泉まで来ていた。熱でかさかさになった喉を潤そうと泉を覗き込んだ時……。
夜闇の中でも光る金色の瞳が。
冠のような、白く巻いた、ツノが。
「……っ!」
ルカはここで思考を一旦止めた。周りを見渡せば、そこはやけに静かな城下町でもなく、燃える部屋でもなかった。もう、それらは無いのだ。時が経ち、消えて無くなった。
はくはくと息をし、ルカは背中を壁にぐったりと預けた。
「愛、か……」
愛。彼が考えないようにしていたことだった。あの魔法使いは、国民の命を使ってルカに魔法をかけた。不老不死の獣になる魔法を。それが、魔法使いにとっての愛なのであった。だからこそ、ルカは誰も愛したくないと思っていた。魔法使いの愛は、とてもまっすぐなものであることは理解していたけれど、ルカには痛みを感じるものであったし、そんな者の手で獣に変じた自分の愛は、誰かを傷つけるものだろうとも思っていた。
けれど……ルカの胸には、愛が芽生えていた。あの月色の髪の儚い少女──ミーティアへの、愛が。ルカはできることなら彼女に自身の優しさを全て与えたかった。でも、それができるかわからなかったのだ。
愛し方が分からない。
抱きしめて、手を繋げば良いのだろうか。愛していると囁けば良いのだろうか。どうすれば、彼女が生きている間に、この気持ちを全て伝えられるのだろう。
「ミーティア」
ルカは舌の上で彼女の名前を転がす。木苺の砂糖漬けのような、甘い味の名前。ふと、彼はすっかりぼろぼろになった小さなテーブルを見る。その上には、黄ばんだ白色の冠が置いてあった。──アステリシアの花冠。ミーティアがルカに最初に贈ったもの。ルカのこの感情の始まりのものだ。光らなくなっても、どんなに色褪せても、ルカはこれを捨てることができなかった。今でも、時折頭に被っては、あの出会いに想いを馳せる。
『世界って、とってもきれいなのね……』
ミーティアは花畑の中でそう言った。
ルカは相変わらずまっすぐそうとは思えない。でも、彼女がそばにいてくれるなら、何もかもがきらめいていて、美しいと思えるのだ。
「……本当に綺麗なのは、ミーティア、きっとお前なんだよ」
ルカはそう呟き、膝を抱え目を閉じた。
