夏の頁

「やっぱり、ルカってこの森のきれいなものをたくさん知っているのね……」

 靴を脱いで、ちゃぽんと泉に足先をひたし、ミーティアはしみじみと呟いた。

「ふふ、冷たくてきもちいい」
「体を冷やすなよ。それ以上進むな」
「あっ……先に言われちゃった」
「行くつもりだったのか……」

 ぽんぽんとミーティアが自身の隣を手で軽く叩くものだから、ルカは許されたような気がして、彼女の隣に座って靴を脱いだ。ふたりして、泉に足をひたす。ちょうど木陰になっているそこは、霧雨のじめじめも無く涼しくて心地がよかった。

「ルカ」
「……うん」

 そっと、ミーティアの手がルカの手に重なる。静かな時が流れる。キキ、と遠くで夏の虫の鳴く声が聞こえた。
 ルカはそっともう片方の手で、青硝子鳥の羽根を握る。そして、それを自身の手に重なっているミーティアの手の甲に乗せた。

「あら? ……まあ! 鳥の羽根?」
「……あげる」
「いいの? きれいな青……晴れた空の色ね」

 少女は空いていた片手で羽根をつまみ、薄い雨雲からわずかに見える太陽の光にそれを透かして見た。青硝子鳥……と言われるだけあって、その青は光に当たるときらきらとひかる。ミーティアがうっとりと羽根を見つめているのを、ルカはじっと見つめていた。

(うまく目を合わせられない)

 ルカはそう思っていた。
 長い間生きてきて、人間との話し方を忘れてしまった。けれど、ミーティアとはもう出会って数ヶ月、夏になる。そろそろ、すらすらと言葉が出てきても良いと彼は思っていたのだが、これが思った以上に上手くいかない。上手くいかなすぎて、彼女を知らず知らずのうちに悲しませている気がして、ルカは怖かった。
 そして、ルカにとって怖いことはまだある。ミーティアが長くは生きられないことだ。彼女は、他者に生かされることをエゴだと言った。この森でひっそりと生きて死にたいとも言った。

 死にたい。

 それは不死の獣であるルカも抱いている願いであった。でも、叶わない願いだとも思っていた。しかし、ミーティアにとっては違う。彼女にとっては近いうちに必ず叶う願いなのだ。それが、何よりもルカを恐れさせ、そして寂しいと思わせた。──ルカは、ミーティアに置いて行かれたくないと、いつしかそう思うようになっていった。

「お礼しないと。あのねルカ……今日は木苺の砂糖漬けを持ってきたの。すき? 木苺」
「……、ああ、うん」
「よかった」

 ほっとした声を上げ、ミーティアは青硝子鳥の羽根をバスケットにしまい、代わりにぎっしりと濃い赤の入った瓶を取り出す。一度ルカの手から手を離し、きゅ、ぽんと蓋を開ける。

「手、出して?」
「うん」

 二、三粒の木苺をルカの手のひらに置いたミーティアは、嬉しそうに笑った。

「家の人が街で木苺を買ったのだけれど、とっても酸っぱかったんですって。だから砂糖漬け。ルカは酸っぱい木苺にあたったことはある?」
「……ある。黒いくらい熟れたやつが甘くて美味しいんだ」
「まあ! ふふっ、でも砂糖漬けにするなら赤いものよね」
「そうだな」

 ひょいっと、ふたりは同時に木苺の砂糖漬けを口に放り込む。
 すると、しゃり、と砂糖が小さくはじけた。そのあとから、甘い果汁が広がって、香りは少しだけ酸っぱい。
 夏の日差しをぎゅっと閉じ込めて、砂糖の衣でくるんだような味だった。思わずもう一粒食べたくなるような、瓶に詰められた森の小さな宝石。

「おいしい……!」
「……うん。美味しい」
「うふふ、ルカのお口にも合ったみたいでよかったわ」

 こうして、菓子を美味しいと思えるのも、ミーティアに会えたからだ。──ルカは思う。食べなくても生きていけた。菓子なんてもっと、無くても生きていけた。でも、ミーティアは会うたびに菓子を持ってくる。「おいしい?」と言いたげに見つめてくる。自分も、彼女も、死にたいはずなのに……菓子を美味しいと思う気持ちは、強く強くあるのだ。それが、ルカにとっては切ない気持ちでいっぱいになる。
 ミーティアの体がいつか病で崩れ去る時、ふたりで菓子を食べている余裕など、きっと無いだろうから。この"おいしい"という気持ちも言葉も、死にたいではなく生きたいから生まれた言葉ではないのだろうか。ルカは考えるたびに目の奥がぐっと苦しくなる。

(ミーティア。お前はそれでも死にたいのか)

 そう、聞きたくなるくらいには、ルカは苦しかった。

「……ミーティア。見せたいものが他にもあるんだ」
「まあ、なあに?」
「僕の家」
「ルカのお家……! ええ、見たい、見たいわ……!」

 ルカは勇気を出そうと思った。この目の前のか弱い少女に、自分の本当のことを話そうと思った。
 ……拒絶されるかもしれない。そのときは──またひとりになるだけだ。"だけ"と言うには、ミーティアとの別れは強い強い痛みが伴うだろうと、ルカははっきりとわかっていた。
いやな気持ちであった。だが、彼女を想うたびに幸福が彼を包んだ。

 死にたいなんて言わないで。ルカの心は叫んでいた。
 そう、ルカは、いつからかミーティアを……。

「……っあ! ごほっ、ん、うぐっ……!」

 ルカが立ち上がりミーティアに再び手を差し伸べようとした時、ミーティアは強く咳き込んだ。締め付けられ絞り出すようなその音に、ルカは慌てて彼女の背中をさすった。

「ミーティア、ミーティア……!」
「ご、めんなさい。ふふ、むせちゃった……」
「むせただけでそんな顔色になるか……! ……調子が悪いんだろう?」
「……でも、ルカの家、行きたいわ」
「ダメだ。また今度にしよう」

 また今度。それを聞いた真っ青な顔色のミーティアは、淡い青色の瞳を曇らせる。

「今度なんて、ないかもしれないじゃない……」
「……!」

 彼女の泣きそうなその声を聞き、彼もまた泣きそうになった。

「……。ミーティア、お前、本当は生きたいんじゃないのか?」
「……いいえ、苦しいのはもうたくさん」
「僕は……僕も、永遠の命なんていらなかった。でも……前言っただろう? お前が来てくれるから孤独に耐えられるって。……生きていられるって」
「……ルカ……」
「僕は……お前に、生きていてほしいよ」

 少年の言葉は、少女の胸に染み渡っていく。そしてミーティアは、ひしとルカに抱きつくと、呻くような声でこう言った。

「わたしも、ルカとおんなじになれない……?」

 それは、ルカにとっては苦しいだけの言葉であった。

「なれない。……僕が不死の獣になったのは、今はもう失われた魔法のせいだ」
「……ぅ……、そんなの、あんまりよ。ルカ、ルカ……わたしだって、ほんとうはあなたと一緒にいたいのに……わたし、あなたを置いていってしまう」

 震えながら、それでも言葉を紡ぐミーティアを、ルカはぎゅっと抱きしめ返した。

「……僕は、死なないでって想いで魔法をかけられた。その結果、獣のツノが生えた。死ねなくなった。……だから、死ねるお前がうらやましいのも本音だ。あの春に言ったように」
「……ぐすっ。うん」
「でも、今は……ミーティア、お前の終わりが少しでも長らえればと、思う。できる限り、僕はミーティアと一緒にいたいよ」

 共に生きることも、死ぬこともできない少年と少女は、しばし抱き合っていた。
 やがて、ミーティアはルカの腕の中で、もぞりと身じろぎをしてルカを見上げた。

「うれしい……でもそれ、愛の告白みたいよ? ルカ」

 わざとらしくからかうようなそぶりを見せたミーティアであったが、ルカは彼女を強く抱きしめ、その月色の髪に頬をすり寄せた。

「愛の告白じゃ、ダメ?」
「あっ……、く、ぐ……けほっ、げほっ!」

 一度、二度と彼女は再び咳き込むと、安心したように脱力し、ルカの腕の中で目を閉じていた。……今のルカの言葉は、どうやらミーティアには届かなかったようだ。

「……お、おい、ねえ、ミーティア」

 ルカはミーティアの頬を手の甲で撫でたが、彼女はすうすうと息を立てていた。

「もう……」

 そんな彼女にふうとため息を吐くと、ルカはそっとバスケットごとミーティアを抱え持ち上げた。そして、その厚い前髪に覆われた額に、そっと口づける。……ルカは自分のしたことに、顔から火が出たように真っ赤になってしまった。

「……はあ……」

 それでも、自分の腕の中で目を閉じる少女を見ていると、彼はたまらない気持ちになった。生きていてほしい。隣にいてほしい。笑っていてほしい。そんな想いが生まれ、春の花のようなかぐわしい香りと、夏の木苺の砂糖漬けのような甘酸っぱさを抱いてルカの心を駆け巡る。

「おやすみ、ミーティア」

 ルカは呟く。
 霧雨が止み、空が晴れ始めていた。ミーティアのバスケットの中の青硝子鳥の羽根が太陽の光を浴びてきらきらと光る。そして、空もまた、そんな澄んだ青に競うかのように澄み渡り、輝いた。
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