夏の頁

 朝から霧雨の降るこの森の今日は、風が吹けば涼しいものだが、そうでない時はじっとりと汗をかかせるなんとも不快な日であった。
 ミーティアはいつものバスケットに、木苺の砂糖漬けが入った瓶を入れて、生成り色の薄手のブラウスに紺色のスカートを合わせた姿で森へやってきた。待ち合わせのためにと幹に十字の傷を入れた木の下で、彼女はしばし待つ。

「ミーティア」
「……! ああ、ルカ! こんにちは」
「……こんにちは」

 ルカが木の後ろからやってきた。
 ぱっと破顔するミーティアを見て、ルカはやはりそっと目をそらしてしまう。けれどそっと返事をした彼に、ミーティアは嬉しい気持ちでいっぱいになるのであった。

「今日はなんだか暑いしじめじめしているわね」
「……。体の調子は」
「あ、ふふっ。大丈夫よ。きっとかんかん照りの日よりずっと楽だわ」
「そうか。……泉にでも行くか?」
「まあ! 泉があるの?」
「……うん」

 ミーティアは目をきらきらとさせた。ルカはそんな彼女を見て、そっと片手を差し出す。彼女は一言「ありがとう!」と言うと、彼の手を取った。ルカのもう片方の手には、澄んだ青色が握られているのだが、ルカはそれを隠したし、ミーティアはそれに気づかなかった。
 ふたりは歩き出す。ルカはこの森のあらゆる良いところを知っている。長い時を、ここで生きてきたからだ。彼は森のことも、自分のことも、話すことは今までなかった。話し相手がいなかったからだ。このツノの生えた姿を怪物だと恐れられてばかりだったということもある。けれど、今は少しずつ、彼女……ミーティアに自分の知っていることを教えている。

 ──いずれは、自分自身のことも彼女に教えるのだろうか。そう、ルカは考える。

(ミーティア。僕はかつて、君と同じだったんだ)

 そう、切り出すのだろうか。自分の全てを話すのだろうか。……考えた瞬間ぞわりと背中を襲う悪寒──拒絶されるかもしれないという予感に、彼は思わずミーティアの手を握る力をぎゅっと強めてしまった。

「……ルカ? どうしたの?」
「……どうしたのって、何」
「ええと……ううん、何でもないわ」

 ミーティアはそう言うと、ルカの手をそっと強く握り返した。ルカが何となく何かをはぐらかしたことに彼女は気づいていたが、それよりも彼が自分の手を強く握ってくれたことが嬉しかったのだ。

(ルカ。わたし、あなたといることがこんなにもうれしいの)

 そう言ったら、彼はまたその金色の瞳をそらしてしまうだろう。だから、今は言わない。ミーティアにとって、ルカは初めての友人でもあり、外の世界に連れていってくれる王子さまであった。そっと、彼女は彼の頭に生えたツノを見つめる。彼は、生まれた時からこんな姿だったのだろうか。生まれた時から、怪物だったのだろうか。それはあんまりだともミーティアは思ったし、しかし生まれた時は怪物ではなかった……という想像も、ミーティアの心を締め付けた。

 物語の中の。ツノを持つ森の国を滅ぼした怪物。

 もしそれがルカなのだとしても、ミーティアはやはり、彼から離れがたかった。たとえ何が彼の過去にあったとしても、今のルカは、ミーティアにとっては優しくて美しくて物知りで、不思議な男の子なのだ。

「ねえルカ。わたし、今日はいつもと違うところがあるでしょう」

 こんなことをいたずらっぽく言ってしまうくらいには、ミーティアはルカのことが好きであった。ルカは立ち止まるとミーティアを見て、首をかしげた。

「……。……髪型?」
「そう!」
「だから何だ……」
「暑い日にぴったりでしょう。……似合ってる?」
「女性の髪型のことはわからない」

 ふいと前を向くルカに、ミーティアはポニーテールを揺らしてほんの少しだけいじわるを言った。 

「もう。世の中すべての女性じゃなくて、わたしのことを見て?」

 ルカはその言葉を聞いてあらためて彼女を見つめる。きょろきょろと驚いたように瞳を動かし、そしてすっと息を吸い、言葉を返した。

「……いいと思う」

 ミーティアはぴょんと跳ねた。ふわりとスカートが揺れる。片手で繋いでいたルカの手を両手で包み込んで、ほわりと笑った。

「うれしい……」

 彼女の笑顔を見たルカは、あの春の日、ふたりで菓子を食べたときのように口の中が甘さでいっぱいになり、そして──顔が内側から熱くなっていく気がした。

「行くぞ。ミーティアと話していると日が沈んでしまう」
「あっ。……もう、ふふ」

 ぐいっと、繋いだ手を引っ張るルカに慌ててついて行くミーティアは、それでも笑っていた。
3/6ページ
スキ