春の頁

「……ルカ。この木を見せてくれてありがとう」

 すっかり泣き止んだミーティアはそう言う。それを聞いたルカは急に気恥ずかしくなり、自身の獣の部分で舐めた彼女の頬を服の袖でごしごしと強く拭った。

「い、いたた、もう、ルカ……」
「……」
「もう泣いてないわよう」
「うるさい。……この木は、僕が幼い時からずっと、この姿をしていた」

 大樹に背を預け、ルカはふっと木漏れ日越しに空を見上げた。

「でもきっと、僕より早く死ぬ。この木だって」
「ルカって、本当に長い時を生きてきたのね」
「……」
 
 ルカは視線を降ろし、じっとミーティアを見つめた。大樹が咲かせる花がそよ風に吹かれて散る。満開の花弁を抱いた枝ががさわさわと揺れる。ミーティアはというと、彼女もまた空を見上げていた。前髪に薄桃色の花弁がふわりとひとひら乗っているのを見たルカは、彼女に手を伸ばす。

「……ついてる」
「え? まあ、ふふっ、気づかなかったわ。ありがとう」

 ミーティアはにっこりと笑う。そしてそっと手を差し伸べてくるものだから、彼女の白い指先に花弁を置いたルカは、まるで罰が悪そうに視線をそらした。

「ありがとうの話の続き。わたし、ルカと今日この木を見られてありがとうって気持ちよ。きっとちょうど満開なのね」
「……。……うん」
「わたしの目、あまり上手く見えないのだけれど……それでも、空を見上げれば空の青と花びらの桃色……白? が綺麗にとけ合っていて……とってもきれい」
「……そうだな」
「それに森中とっても良い香り。……いつかルカを置いてこの木が枯れるとしても、わたしはこの花びらを押し花にするし、ルカはずっとここにいる。それって、忘れないってことよ。約束で、願いなの」

 ほんの少しだけ、遠くを見つめるように目を細めて、ミーティアは続ける。

「わたしからまた会いましょうって言ったのに、あの夜から今日まで何週間も待たせてしまってごめんなさいね。疲れて倒れて、ずっとベッドに伏せていたの」
「……別に待ってなんていない。時間の感覚ももう無い」
「……そう」

 ぶっきらぼうなルカの口調に、ミーティアは目をふせた。ずっと彼女から視線をそらしていたルカだったが、ミーティアの寂しげな小さな声を聞いて目を泳がせ、喉をぎゅうと詰まらせ、言葉を選んだ。

「……。……今の調子は、悪くないか」

 絞り出すような声は、それでも先ほどの声より幾分か優しくやわらかかった。

「……! ええ、今はいつもより元気よ」

 ミーティアはぱっと表情をほころばせ、ルカを見つめ返す。泣いてもいない、苦しんでもいない、淡い青い瞳を持つ薄桃色の頬のかんばせを見たルカは、口の中が先ほどまで食べていたクッキーのような甘い味でいっぱいになったような──そんな不思議な気持ちになった。

「わたし……これからも約束を守れるかわからないけれど、でも、何度でもルカ……あなたと約束がしたい。この森のきれいなところを、あなたの世界を、もっと見てみたいの。ルカ」
「約束をやぶったら、そんなお前を僕が憎むとしても?」
「……憎まれても、必ず最後にはあなたのそばにいたいの。あなたのために約束をして、あなたを考える……それが、わたしの生きる力になるのよ」

 次にルカに見せた彼女の笑顔は、ほんの少しだけ憂いを帯びて寂しげなものであった。先ほどまで口の中が甘さでいっぱいになっていたルカは、今度は胸の奥から深い藍色が漏れ出すのを感じた。夜の色だ。

(──僕がかつて感じていた、夜の森でひとりで泣いていた時の気持ちだ)

 ルカは過去に思いを馳せる。もう考えたくもないと思っていた、長い長い孤独の時間を想った。そして、頬笑むミーティアを見て、今を考える。自分に比べたら──否、大抵の人間に比べたら早くに死んでしまうであろうミーティア。

 何でもない存在にしたかった。
 あの夜、アステリシアの花畑に気まぐれに連れていった時までは。

 世界は美しいと笑う彼女を見て、ルカの中にはどうしようもないほど、甘い菓子の味も夜の色も──花の香りも……生きてきて感じてきた全てがこみ上げてくるのだ。

 だからこそ、彼は──そう、寂しさを忘れるほど生きてきた獣のルカは、この人間の少女に寄り添うことで、己のやわらかな心を取り戻したいと思ってしまった。それが、どんなに痛みを伴うことだとしても、鈍くなっていた方がいいことだとしても……それでも、ミーティアのそばにいるためには、己の硬い心の牙や棘は必要なかったのだ。

「……」
「……ルカ?」

 ルカはミーティアの手に手を重ねていた。ミーティアの態度や心とは裏腹に冷えきった手に、ルカの彼女よりわずかにあたたかい体温が重なる。彼女は驚いて目を見開き、そしてルカのその行動を受け入れた。

「憎まない。ミーティア、いつだっていい。お前が僕に会いたいと思った時に、僕は待ってる。……待つのは得意だよ、時間なんて僕には無いものと同じなんだから」

 ルカはほんの少しだけ嘘をついた自身に、内心自嘲の笑みを浮かべた。こんなことを彼女に言ってしまっては、彼女を待つ時間を感じてしまうくせに……と。

 ミーティアはルカの言葉を聞いて、こくりと頷いた。本当は寂しい? と聞きたい言葉をぐっと飲み込んだ。それを聞くよりも、ルカが待っていてくれることが彼女にとっては嬉しかったのだ。
 彼を待たせてしまうかもしれない自分が、ミーティアは悲しかった。本当は毎日だって会いに行きたい。もっと彼のことが知りたい。教えてくれなくても、そばにいたい。この美しい夜色の髪の、しろがねのツノの生えた王子と。

 彼女は、彼との出会いを、本当に運命の神が導いてくれたものだと信じていた。

「ルカ。会えなくてもわたしのこと、忘れないでね」
「……忘れるものか。お前みたいな、変わったやつ」
「ふふ。ルカだってわたしに優しいわ、わたしを可哀想って言わない。変わったひとよ」

 そして、ミーティアはルカの頭に両手を伸ばす。びくりとルカは身を震わせたが、それもそれきり。彼は彼女がするままにしていた。
 ミーティアは、ルカの頭を両手でそっと引き寄せ、自身の胸に当てた。座ったまま抱きしめた。ルカは突然のことに完全に体をこわばらせてしまった。そして、ルカの頭の上に降り立っていた花弁をミーティアはその指でそっと取り、愛しげにツノに頬ずりをした。

「お、まえ。ミーティア。急になにを……」
「……どうしてかしら、あなたと離れがたいの……」
「……、本当に、変わってる。物好きで、怖いものなし……」
「そうかも……」
「……でも、」

 ルカは自身の頭に回されたミーティアの細い腕に、手を添わせた。そして、震えた声で言葉を紡いだ。

「……もう少しだけ。お願い、ミーティア」

 ミーティアは彼の髪を撫でた。

「ええ、もう少しだけ……ゆるして」

 春の花が咲き誇る森で、月色の髪の少女とツノを持つ獣の王子は、ふたりとも目を閉じて、お互いの体温を胸いっぱいに吸い込んでいた。
 必ず、近いうちに永遠の別れが来る。だからこそ、この運命の出会いの喜びも悲しみも、全てを宝物にしたかった。
 この出会いを大切に思うからこそ、胸がきしむ思いがする。けれど、形は違えどずっと心の内に寂しさを抱えていたふたりは、こうして寄り添っている間だけは……吐き出せない痛みも何もかもを、互いの体温と森いっぱいにひろがる花の香りが抱きしめてくれる気がしていたのだ。

 春は芽吹きの季節。ふたりの心の奥底にも、薄桃色の花がつぼみから花へと咲き始めていた。
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