プロローグ 物語はある夜に



 深い夜が来た。
 ミーティアはこっそりと自室を抜け出し、倉庫からランプを取り出してろうそくを入れて灯りを点した。屋敷の扉を見て「あっ」と小さな声を上げる。しっかりと鍵がかかっていた。開けて出て行ってしまったら、もしかしたら誰かが見つけた時に怪しまれるかもしれない。
 彼女はほんの少し考え込み、自室の窓から出て行くことにした。ベッドの羽毛布団には枕でふくらみを演出し、そっと外への出口を開ける。そよそよと春の風が舞い込みカーテンを揺らした。

「大丈夫。朝になるまで帰らないなんてことはないわ」

 自分に言い聞かせるようにそう呟き、ランプを片手に窓枠に足をかけた。この部屋の位置が一階でよかったとミーティアは思った。すとんと普段ベッドの上にいてばかりのため履き慣れない革靴で地面を踏みしめる。──が、またも彼女は少し考え込み、そして革靴を脱いで部屋へ置き、窓を閉めた。裸となった足を草の感触がくすぐる。

「……ふふっ」

 初めての感覚に、ミーティアは跳ね回って喜びたくなった。その気持ちをそっと押さえ込み、彼女は森へ一歩踏み出す。
 夜の森の木の幹は黒く、飲み込まれそうなほど深い色をしていた。木漏れ日のように月光が木々の隙間からこぼれている。それに照らされたミーティアの淡い金色の髪も、月の色のようだった。
 短いろうそくのランプの心許ない灯りで足元を照らし、時に木に手をついて、彼女は前へ進む。正直、当てのない旅路であった。けれど、光っているならば見つけだせるだろうという、他人の心の機微には聡いくせに世界への知識の足りない少女の、楽観的で夢見がちな旅は終わらなかった。足に感じる土の感触も、手に感じる木々のざらついた感触も、さわさわと葉を揺らす風の音も、全てがミーティアにとって初めてのことであった。ここに木の実の練り込まれたパンや、ハーブと果物のシロップがあればもっとすてきな冒険になったのに。と、彼女は今まで読んできた物語の主人公の少女たちに思いを馳せ、ゆっくりゆっくり歩いて行く。

 ……しかし、黒い木々の迷路はなかなか晴れなかった。ミーティアの細い足は徐々に疲れを訴えてくる。はくはくと荒い息が彼女の口からもれる。ふと、後ろを振り返る。真っ暗だった。道しるべも何も無く、見回しても闇の中。不安のまま見上げれば月がミーティアを見つめていた。見つめるだけだ。何もしてはくれない。

「どうしよう……」

 そう、ミーティアは道に迷ってしまった。……それを認めないよう、彼女はふるふると首を横に振った。けれど唇からは困り果てたひとりごとが落ちる。どこを見ても、光る花なんて見つからないのだ。おとぎ話の中の話でしょう? とからかうように笑った使用人の声を彼女は思い出していた。そして、本気で夜の光で光る花があって、それを自分への神さまからの贈り物だと信じていた自分のことも。──今では、それがぐらぐらとミーティアの頭を揺らし、そして下に落ちて後悔という名のぬかるみとなって彼女の疲れた足にまとわりついていた。

「……ばかだったかもしれないわ。わたし」

 すると、最悪なことが起きてしまった。ふっと音を立てて、ランプの中のろうそくが燃え落ちてしまったのだ。

「あ……! そんな、待って……!」

 ろうそくの死は待ってくれなかった。ただでさえ頼りない灯りは消え失せ、あたりは月光だけが頼りの暗闇となる。目の悪いミーティアには月の光も遠くにじんで見える。──否、にじんでいたのは目が悪いせいだけではなかった。ミーティアの目には涙の厚い膜がふくらんでいた。
 ミーティアはその場に座り込んでしまった。ネグリジェの裾が土に触れようが彼女にとってはもうどうでもよかった。不安、恐怖、疲れ……闇。それら全てが少女の心に重くのしかかっていく。

「うう……」

 ミーティアが嗚咽をもらしかけた時だった。

「お前。そこで、何をしているんだ」

 いつの間にか、ミーティアを見下ろす者がいた。足音すらしない歩き方に、ミーティアはびくりと身を震わせ、そして声の主を見上げた。
 年頃はミーティアと同じくらいだろうか。掠れたアルトの声は、少年のものであった。襤褸のような古びた黒い服を身にまとっている。ミーティアを見下ろしているため影になっているが、それでも爛々と輝く金色の瞳が、ミーティアの瞳とかち合った。髪の色はこのそこら中の闇をすくい上げたような黒。
 そして何よりも、ミーティアの目を引くものを彼は持っていた。月光に照らされて、うっすらと白く輝く──ツノ。側頭部に戴いている一対のそれは、獣のもののようでも、冠のようでもあった。

(きれい)

 ミーティアはしばし、少年を見つめていた。ぽろりと溜まっていた涙がこぼれ、視界が先ほどよりも良くなる。視線こそ冷たかったが、美しい夜色の少年だった。

「お、お花を……」
「花?」
「そう……お花を探していたの。夜に星と月の光を受けて光る花……アステリシアの花……」
「……」
「でも、見つからなくて……わたし、迷ってしまったの」

 ミーティアの言葉に、少年はふんと鼻を鳴らす。

「当たり前だ。夜の森なんて、人間が入って良い場所じゃない」
「……あなたは、人間ではないの?」
「人間じゃない」
「そう……そう、よね。そのツノ……」
「見るな」
「あ……」
「……明るいところまで送ってやるから、来い」
「待って……ちがうの。あなたのツノ、月の光に照らされて、とてもきれいよ」
「……は?」

 そして、その次に少年は困惑したような、ともすれば威嚇するような低い声を出した。しかしミーティアは続ける。

「アステリシアの花って、あなたのことなの……?」

 ミーティアはゆっくりと立ち上がり、少年のツノにそっと手を伸ばした。触れるまであと少し……といったところで、少年は少女の細く白い手首をばしりと音を立てて掴んだ。

「触るな」
「あっ……ごめんなさい」
「それに僕はアステリシアの花じゃない。馬鹿なことを言うな」
「で、も……本当にきれいだと思ったのよ、わたし」
「あの花と一緒にするな。綺麗じゃない」
「……じゃあ、きれいなものが見たいわ。その口ぶり……アステリシアの花は本当にあるのね?」
「……」
「おねがい。連れていって。わたし、このままじゃ帰れないわ、帰りたくない」

 自身の手首を離そうとした少年の手を、ミーティアはもう片方の手で触れて包む。少年はその金色の目を見開き、口を開く。

「どうしてお前に教えなければならないんだ」
「わたしね、この森の開けたところの屋敷に住んでるの。生まれたときからいつもベッドの上で読書ばかり。それも楽しいけれど……でも、さっきまでいつもよりずうっと楽しかったわ。土も木もあたたかくて、風も優しくて。……本で見たアステリシアの花を信じて、満月の日まで待ってたの。もしも本当にあるならば、見たいの。この夜の一番きれいな思い出がほしい」
「よく喋るな。お前」
「お前じゃなくて、ミーティア。ミーティアって言うのよ、森の妖精さん」
「は?」
「……妖精さんじゃないの?」
「はあ……」

 少年は小首をかしげるミーティアを見てため息を吐いた。そして、もう一度ぐっと彼女の手首を握る手に力を込めた。

「い、いたいわ……もっとやさしくしてちょうだい」
「うるさい。来い」
「連れていってくれるの?」
「今夜だけだ」
「まあ……! 本当にあるのね、アステリシアの花……!」
「うるさい。それと、それは置いていけ」
「なあに? ……これ?」

 彼が指さしたのは火の消えたランプであった。少年は苦々しげに言う。

「鉄は嫌いなんだ」

 それを聞いたミーティアは、よく見えない視界の、淡い青色の瞳を細めた。地面にランプを置きながら、微笑む。

「あなた、本当に妖精さんみたいよ」
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