4話 だから僕はそれをするんだ

「君嶋、みー、おね?」
「みおね! 澪音だよ。ミーはだめ」
「ご、ごめん。……どうして?」
「ミーは小学生までのあたしの名前だから」
「そうなんだ……どういうことだろう」
「深く考えないで。ていうか喜多見くん、喜びが多いって書いて喜多見って読むんだ。良い名前じゃん」
「あ……ありがとう?」
「そこは胸張りなよ」

 君嶋澪音さんは、案外ずけずけと物を言ってくる女の子だった。笑うと口の端に八重歯が覗く、快活そうな女の子。
 でも、嫌ではなかった。むしろ、その軽さが、胸に引っかかっていた学校への不安を少しだけほどいてくれる。

「君嶋さんは、よく一人で残ってるの?」
 何を聞けばいいのか分からなくて、どうでも良いことを聞いた。彼女───澪音は教室の窓際まで歩きながら、振り返って言う。
「あー、たまにね? あたし忘れ物多いし」
「……消しゴムとか?」
「そうそう。今日のは完全にやらかした」

 へへ、と笑う。その笑い方が、妙に自然で。誰もいない教室なのに、急に空気が柔らかくなった気がした。

「喜多見くんは?」
「え?」
「だから、喜多見くん。放課後まで学校にいるの、部活?」
 そっか、部活動があるんだった。僕は少し考え……そう、少しだけ正直な言葉を選ぶ。
「……今日、久しぶりに来たんだ」
「へー」

 それだけで、彼女はそれ以上踏み込まなかった。理由も、事情も、聞かない。ただ「そーなんだ」で済ませる。それが、ありがたかった。

「じゃあさ」

 澪音は、思い出したみたいに手を叩いた。

「喜多見くん、これからどうするの?」
「え……?」
「帰る? それとも、まだどこか行く?」

 どうするかなんて、考えていなかった。
 保健室を出たのも、教室に来たのも、全部何となくで。──でも、今は。

「……まだ、帰らない」

 そう答えると、彼女は満足そうに頷いた。

「じゃあ一緒に帰ろ。途中まで」
「……いいの?」
「別に。あなたとなら、寄り道もいいかもって」

 軽い口調だった。冗談みたいに。
 でも、その一言が、胸の奥に優しく静かに沈んだ。

 教室を出て、廊下を並んで歩く。
 夕方の校舎、ヒグラシの声。窓から入る光はオレンジ色。

「ねえ、喜多見くん」
「なに?」
「堅い」
「……え」
「呼び方。あたしたち、堅くない?」

 そう言って、澪音は僕の顔を覗き込んだ。近い。さっきよりは慣れたけど、それでも少し、心臓が跳ねる。

「優くん、で良い?」
「……」

 一瞬、言葉に詰まる。名前を呼ばれることには、慣れていなかった。家族以外に下の名前で呼ばれるのは、いつぶりだろう。

「……ユウ、でいいよ」

 両親に呼ばれてきた、慣れている呼び名を使う。

「えっ、呼び捨て? いいの?」
「うん」

 小さく頷くと、彼女はぱっと笑った。

「よし。じゃあユウね、よしよし、ユウ……」
「……」
「なに?」
「君嶋さんも」
「え」
「名前で呼んでいい?」
「もちろん」
「じゃあ、ミー」
「うえっ!?」

 今度は、彼女が固まった。

「ちょっと! それはダメって言ったじゃん!」
「……良いニックネームだと思うけどな……」

 それから、考えるように視線を泳がせて。

「そう? じゃあ……しょうがないな。ユウなら」

 また小さく頷いてくれた。

「じゃあ、ミー」
「……うん。ユウ」

 名前を呼び合うだけなのに、なんだかくすぐったい。
 でも、悪くない。
 友達。と言うにはまだ曖昧で、知らない人、と言うにはもう近すぎる。

 昇降口で靴を履き替えながら、ミーが言った。

「ねえ、また学校来る?」
「……たぶん」
「そっか。じゃあさ」

 彼女は、当たり前のようにそれを言うのだ。

「また話そうよ。ユウ」
「……うん」

 外に出ると、夏の夕方の空気が広がっていた。
 世界はまだ終わっていない。
 赤い星は、まだ遠い。
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