10話 決意
翌朝。
アリアは使用人に呼ばれて、父の待つ居間へと赴いた。
室内には、薄く香る線香の香り───昨夜、誰かが焚いたものだろう。
父は、深い肘掛け椅子に腰掛けており、アリアの姿を見ると眉根を寄せた。
「アリア、お前……髪を、切ったのか」
当然のように向けられる、驚きと、心配と、そしてわずかな苛立ち。
アリアは一歩だけ前に出て、淡々と会釈する。
「はい」
父は、しばし娘の顔を見つめ、それから硬い声で言った。
「……やはり、一敬くんの件が、相当応えたのだな」
アリアは、目を伏せた。
……違う。
一敬さんのために、私は何一つ心を痛めてなどいない。と、アリアは思った。
でも、説明する気にもなれなかった。
「……あれは、運命のいたずらだ。誰も悪くない」
父は続ける。「いずれ、時が癒してくれるさ」と。
その言葉を聞きながら、アリアは心の中で静かに思った。
(──お父様は、何もわかっていない)
婚約者を失ったショックで髪を切った。そんな、世間の規範に当てはめたような憐憫。誰も、アリアの本当の痛みも、願いも、知らない。
ちらりと横を見る。控えめに立つ結弦と、目が合った。
結弦もまた、何も言わずに微笑を湛えていたが、その奥に秘めた思いは、アリアと同じだった。
(何も、わかっていない)
──私たちの、願いも、罪も、愛も。
「……アリア。無理をするなよ。お前には、まだ未来がある」
父の声に、アリアは静かに「はい」とだけ答えた。けれど、その未来を、私は自分で選び取ると決意をする。父の差し出す未来ではなく、結弦と……。
部屋に戻ると、結弦はそっと扉を閉め、気遣うように言った。
「……お疲れでしょう。お嬢様」
アリアは、ふうっと息を吐き、ベッドの端に腰を下ろした。
「結弦……少し、髪を梳いてくれる?」
彼女の小さな願いに、結弦は嬉しそうに頷いた。
「はい。喜んで」
櫛を手に取ると、結弦は丁寧に、ゆっくりとアリアの短くなった髪に櫛を通した。さらさらと小さな音を立てて、雪のような髪が櫛に従う。
「……短い髪も、可愛いですね」
「……ほんとう?」
「ええ。とても、綺麗です。どんなお嬢様も、俺は好きです」
アリアは、うつむいたまま、小さく笑った。結弦の指先が、あまりにも優しくて、涙が出そうになる。
ざくざくと切り落とした髪も、後悔していない。
けれど、こうして誰かに優しく撫でられると、失ったものの寂しさが、ふと胸に差し込む。
「……結弦」
「はい」
「ねえ、これから、どんな髪型にしようかしら」
「……どんな髪型でも、お嬢様はお嬢様です。でも……」
「でも?」
結弦は、はにかみながら言った。
「また、少しずつ……伸ばしてみませんか?」
「……どうして?」
「俺が、また……お嬢様の髪を、たくさん梳かせていただきたいからです」
アリアは、くすりと笑った。
「いいわ。……結弦のために、伸ばすわ」
それを聞いた結弦の手が、ほんの少しだけ震えた。
アリアはその震えに気づいて、そっと後ろ手に、結弦の手を包み込んだ。
二人だけの、静かな誓い。
短くなった髪の下、変わらないものがそこにあった。
愛するということ。
信じるということ。
窓の外、秋の空に、かすかな光が差し込んでいた。二人は、とっくに心を決めていた。
アリアは使用人に呼ばれて、父の待つ居間へと赴いた。
室内には、薄く香る線香の香り───昨夜、誰かが焚いたものだろう。
父は、深い肘掛け椅子に腰掛けており、アリアの姿を見ると眉根を寄せた。
「アリア、お前……髪を、切ったのか」
当然のように向けられる、驚きと、心配と、そしてわずかな苛立ち。
アリアは一歩だけ前に出て、淡々と会釈する。
「はい」
父は、しばし娘の顔を見つめ、それから硬い声で言った。
「……やはり、一敬くんの件が、相当応えたのだな」
アリアは、目を伏せた。
……違う。
一敬さんのために、私は何一つ心を痛めてなどいない。と、アリアは思った。
でも、説明する気にもなれなかった。
「……あれは、運命のいたずらだ。誰も悪くない」
父は続ける。「いずれ、時が癒してくれるさ」と。
その言葉を聞きながら、アリアは心の中で静かに思った。
(──お父様は、何もわかっていない)
婚約者を失ったショックで髪を切った。そんな、世間の規範に当てはめたような憐憫。誰も、アリアの本当の痛みも、願いも、知らない。
ちらりと横を見る。控えめに立つ結弦と、目が合った。
結弦もまた、何も言わずに微笑を湛えていたが、その奥に秘めた思いは、アリアと同じだった。
(何も、わかっていない)
──私たちの、願いも、罪も、愛も。
「……アリア。無理をするなよ。お前には、まだ未来がある」
父の声に、アリアは静かに「はい」とだけ答えた。けれど、その未来を、私は自分で選び取ると決意をする。父の差し出す未来ではなく、結弦と……。
部屋に戻ると、結弦はそっと扉を閉め、気遣うように言った。
「……お疲れでしょう。お嬢様」
アリアは、ふうっと息を吐き、ベッドの端に腰を下ろした。
「結弦……少し、髪を梳いてくれる?」
彼女の小さな願いに、結弦は嬉しそうに頷いた。
「はい。喜んで」
櫛を手に取ると、結弦は丁寧に、ゆっくりとアリアの短くなった髪に櫛を通した。さらさらと小さな音を立てて、雪のような髪が櫛に従う。
「……短い髪も、可愛いですね」
「……ほんとう?」
「ええ。とても、綺麗です。どんなお嬢様も、俺は好きです」
アリアは、うつむいたまま、小さく笑った。結弦の指先が、あまりにも優しくて、涙が出そうになる。
ざくざくと切り落とした髪も、後悔していない。
けれど、こうして誰かに優しく撫でられると、失ったものの寂しさが、ふと胸に差し込む。
「……結弦」
「はい」
「ねえ、これから、どんな髪型にしようかしら」
「……どんな髪型でも、お嬢様はお嬢様です。でも……」
「でも?」
結弦は、はにかみながら言った。
「また、少しずつ……伸ばしてみませんか?」
「……どうして?」
「俺が、また……お嬢様の髪を、たくさん梳かせていただきたいからです」
アリアは、くすりと笑った。
「いいわ。……結弦のために、伸ばすわ」
それを聞いた結弦の手が、ほんの少しだけ震えた。
アリアはその震えに気づいて、そっと後ろ手に、結弦の手を包み込んだ。
二人だけの、静かな誓い。
短くなった髪の下、変わらないものがそこにあった。
愛するということ。
信じるということ。
窓の外、秋の空に、かすかな光が差し込んでいた。二人は、とっくに心を決めていた。
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