7話 絶望の扉を開けて
深夜、アリアは何となく眠れなくて、自室でネグリジェ姿のままベッドから起き上がり、窓の外を見ていた。窓の外のすぐ近くにある桜の木は、秋の頃である今、そろそろ葉のない寂しげな姿を見せつつあった。
(昔は、ここから結弦が登ってきて、私に手を差し伸べてくれたこともあったっけ)
まだ互いに無邪気であった幼い頃を思い出し、アリアは寂しげに微笑んだ。それでも、あの時は結弦といれば窓から外に出ることも、怖くはなかったのだ。
アリアはカーテンを閉じ、眠ろうとベッドに戻ろうとした。すると、コツコツと窓を叩く音が微かに聞こえた。
「……?」
鳥だろうか? それにしては、もう遅い。鳥は眠っている時間だ。ならば野良猫? アリアはふわふわと考えながら、カーテンを開ける。
そこには、結弦がいた。外套を片手で持ち、三日月の微かな光に照らされて、窓越しにアリアを見ていた。
「……えっ! どうして……結弦!」
アリアはすぐに窓を開け放つ。すると、結弦はそこからゆっくりとアリアの部屋に降り立った。
「どうしたの、結弦。こんな時間に……。もうお休みの時間でしょう」
「お嬢様、起きていたのですね。……よかった、俺、お嬢様に会いたくて……」
「会いたくても外から来るなんて、……あっ」
結弦は、アリアの言葉を遮るように彼女を抱きしめた。
「……結弦……?」
アリアの小さな呟きが、薄闇の中に溶けていった。
結弦の身体は冷えていた。抱き寄せられた瞬間、ネグリジェ越しでも分かるほどに、彼の腕は冷たく湿っていた。まるで、冷たい夜露を全身に纏ったように。けれど、それ以上に、
血の匂いがした。
甘く、鉄のように錆びた匂いが、彼の衣服から微かに立ち昇っていた。
「……どこか、怪我したの?」
アリアは思わず問いかけた。けれど、結弦は首を横に振る。
「大丈夫です。俺じゃない……」
そう言ったきり、彼はそれ以上何も言わなかった。アリアは戸惑いながらも、それ以上追及することができなかった。結弦の抱擁には、ひどく切実なものがあったからだ。
まるで、何かを必死に抱きしめていなければ、自分が壊れてしまいそうだとでもいうように。
「……会いたくて仕方なかったんです。お嬢様の顔が、声が、全部、全部欲しくて……」
結弦の声が震えていた。けれど、涙は見せなかった。ただ、頬を寄せてきた彼の髪の奥から、あの血の匂いだけが強くなっていく。
アリアの指先が、そっと結弦の外套の裾を掴んだ。
「……誰かと、会っていたの?」
問いかけたのは、恐れではない。むしろ、確かめたかったのだ。結弦が自分を求めてくれるその気持ちに、嘘がないことを。
「ええ。でも、もう終わりました。話すことなんて、無かったんです」
その言葉に、アリアは何か不穏なものを感じた。だが、結弦はそれ以上語ろうとはしなかった。語るつもりもないのだと、静かな眼差しが物語っていた。
その目に浮かぶものは、狂気ではなかった。怒りでも、憎しみでもない。
ただ、愛。
深く、深く沈んだ、誰にも見せられない愛だけが、そこにはあった。
結弦はアリアの頬に、そっと手を伸ばした。その指先にも、わずかに赤い色が残っていることに、アリアは気づかない。
「結弦……」
「お嬢様」
その声は優しかった。息を呑むような、深い夜の底に落ちるような優しさ。
そして──彼は、アリアの唇に、そっと口づけた。
触れるか触れないかの、微かなキスだった。
けれど、アリアは身体の奥から震えるような感覚を覚えた。結弦の唇からは、血の匂いがした。けれどそれ以上に、彼の想いが、深く、確かに伝わってくる。罪深いほどに純粋な想いが。
「……ねえ、結弦……」
何かを尋ねようとして、けれどアリアは言葉を飲み込んだ。
訊いてはいけない気がした。
今夜の彼は、どこか遠くから戻ってきたようだった。もう二度と戻れない場所から。何かを終わらせて、その代償を引きずって、それでもなおアリアの元へ帰ってきたようだった。
だから、アリアは、結弦を受け入れた。
「……結弦、こっちに来て」
「お嬢様……」
結弦の手を引き、ベッドへ導く。アリアは結弦をベッドに座らせると、今度は自分から抱きしめた。
「結弦はきっと、今まで悪い夢を見ていたのだわ」
「……」
「だから……ほら、震えてる。ねえ、私に触れてくれる? 震えがおさまるまで、私に……触れて」
「……あ……、……お嬢様。俺、お嬢様のことが好きだから、だから……」
「ええ、だから……その手で、私に触れて」
結弦の震える唇に、アリアは口付ける。そして、どちらともなくベッドへ倒れ込む。
結弦はまるで赦しを乞うかのように、アリアの唇に舌で吸い付いた。
三日月の光は、なおも薄く、頼りなかった。
(昔は、ここから結弦が登ってきて、私に手を差し伸べてくれたこともあったっけ)
まだ互いに無邪気であった幼い頃を思い出し、アリアは寂しげに微笑んだ。それでも、あの時は結弦といれば窓から外に出ることも、怖くはなかったのだ。
アリアはカーテンを閉じ、眠ろうとベッドに戻ろうとした。すると、コツコツと窓を叩く音が微かに聞こえた。
「……?」
鳥だろうか? それにしては、もう遅い。鳥は眠っている時間だ。ならば野良猫? アリアはふわふわと考えながら、カーテンを開ける。
そこには、結弦がいた。外套を片手で持ち、三日月の微かな光に照らされて、窓越しにアリアを見ていた。
「……えっ! どうして……結弦!」
アリアはすぐに窓を開け放つ。すると、結弦はそこからゆっくりとアリアの部屋に降り立った。
「どうしたの、結弦。こんな時間に……。もうお休みの時間でしょう」
「お嬢様、起きていたのですね。……よかった、俺、お嬢様に会いたくて……」
「会いたくても外から来るなんて、……あっ」
結弦は、アリアの言葉を遮るように彼女を抱きしめた。
「……結弦……?」
アリアの小さな呟きが、薄闇の中に溶けていった。
結弦の身体は冷えていた。抱き寄せられた瞬間、ネグリジェ越しでも分かるほどに、彼の腕は冷たく湿っていた。まるで、冷たい夜露を全身に纏ったように。けれど、それ以上に、
血の匂いがした。
甘く、鉄のように錆びた匂いが、彼の衣服から微かに立ち昇っていた。
「……どこか、怪我したの?」
アリアは思わず問いかけた。けれど、結弦は首を横に振る。
「大丈夫です。俺じゃない……」
そう言ったきり、彼はそれ以上何も言わなかった。アリアは戸惑いながらも、それ以上追及することができなかった。結弦の抱擁には、ひどく切実なものがあったからだ。
まるで、何かを必死に抱きしめていなければ、自分が壊れてしまいそうだとでもいうように。
「……会いたくて仕方なかったんです。お嬢様の顔が、声が、全部、全部欲しくて……」
結弦の声が震えていた。けれど、涙は見せなかった。ただ、頬を寄せてきた彼の髪の奥から、あの血の匂いだけが強くなっていく。
アリアの指先が、そっと結弦の外套の裾を掴んだ。
「……誰かと、会っていたの?」
問いかけたのは、恐れではない。むしろ、確かめたかったのだ。結弦が自分を求めてくれるその気持ちに、嘘がないことを。
「ええ。でも、もう終わりました。話すことなんて、無かったんです」
その言葉に、アリアは何か不穏なものを感じた。だが、結弦はそれ以上語ろうとはしなかった。語るつもりもないのだと、静かな眼差しが物語っていた。
その目に浮かぶものは、狂気ではなかった。怒りでも、憎しみでもない。
ただ、愛。
深く、深く沈んだ、誰にも見せられない愛だけが、そこにはあった。
結弦はアリアの頬に、そっと手を伸ばした。その指先にも、わずかに赤い色が残っていることに、アリアは気づかない。
「結弦……」
「お嬢様」
その声は優しかった。息を呑むような、深い夜の底に落ちるような優しさ。
そして──彼は、アリアの唇に、そっと口づけた。
触れるか触れないかの、微かなキスだった。
けれど、アリアは身体の奥から震えるような感覚を覚えた。結弦の唇からは、血の匂いがした。けれどそれ以上に、彼の想いが、深く、確かに伝わってくる。罪深いほどに純粋な想いが。
「……ねえ、結弦……」
何かを尋ねようとして、けれどアリアは言葉を飲み込んだ。
訊いてはいけない気がした。
今夜の彼は、どこか遠くから戻ってきたようだった。もう二度と戻れない場所から。何かを終わらせて、その代償を引きずって、それでもなおアリアの元へ帰ってきたようだった。
だから、アリアは、結弦を受け入れた。
「……結弦、こっちに来て」
「お嬢様……」
結弦の手を引き、ベッドへ導く。アリアは結弦をベッドに座らせると、今度は自分から抱きしめた。
「結弦はきっと、今まで悪い夢を見ていたのだわ」
「……」
「だから……ほら、震えてる。ねえ、私に触れてくれる? 震えがおさまるまで、私に……触れて」
「……あ……、……お嬢様。俺、お嬢様のことが好きだから、だから……」
「ええ、だから……その手で、私に触れて」
結弦の震える唇に、アリアは口付ける。そして、どちらともなくベッドへ倒れ込む。
結弦はまるで赦しを乞うかのように、アリアの唇に舌で吸い付いた。
三日月の光は、なおも薄く、頼りなかった。
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