2話 その手を離さない
「結弦、準備ができました」
「お嬢様。入ってもよろしいでしょうか?」
「ええ」
部屋の外でしばし待ち、アリアの許可が出た。結弦が部屋に入ると、アリアはよそゆきの服へ着替え終えていた。袖口にフリルの付いた愛らしい白いブラウス。胸元には、彼女の瞳と同じ色のブローチの付いた赤いリボンがふわりと主張している。令嬢にしてはシックな色合いの黒いフレアスカートは、それでも生地の上等さで分かる者には分かる上品さを醸し出していた。
なんて愛らしいのだろう、と結弦はアリアをうっとりと見つめた。すると、彼女の失敗を見つけてしまった。ブラウスのボタンを一つかけ違えている。自分以外に誰もいなくて良かったと安堵し、結弦はアリアに近づいた。
「新しい服なの……似合ってる?」
「ええ、とても素敵です。ですが、少しだけ……失礼します」
「……? あっ、私、ボタンを……」
「ふふ。そうです」
「恥ずかしい……」
「ここにいるのは俺だけなんですから、恥ずかしがることはないですよ」
結弦はアリアのブラウスに手を伸ばす。そして、ずれたボタンを一度外し、直していく。彼の指が、わずかにアリアの喉元をなぞる。ぞくりとした感触に、彼女は思わず息を止めた。
「……わ、たし」
「ん?」
「私、結弦に頼ってばかりね」
その言葉に、結弦はふっと笑った。
「そうかもしれませんね? はい、直りましたよ」
「そうよ。……行きましょう?」
「はい。靴も新しいものがあるでしょう。それにしましょうか」
「ええ」
玄関で結弦に靴を履かせてもらうたびに、彼の手がそっと足首を撫でるのをアリアは知っている。でも彼女は、それを咎めたことがない。
アリアはなるべくなら、結弦に頼りたくはなかった。頼っているから、結弦は鞭で打ち据えられるのだと、そう考えていたのだ。けれど、今の不出来な自分は結弦に頼るしかない事実も分かっていた。だから、自分を変えたかった。結弦に、自分と一緒にいて楽しいと思ってほしかった。──結弦の心の内を、アリアは知らない。
「お手をどうぞ、お嬢様」
「はい、結弦」
二人は手を繋いで、昼下がりの空の下へ歩き出した。
「サイダーとアイスクリームにしようかしら。結弦は何を頼むの?」
「俺は珈琲で」
「それだけ? ダ、ダメよ」
「ダメって……?」
「結弦も美味しいものを食べなきゃ、ダメよ……」
「……。はは、分かりました。では、お嬢様と同じアイスクリームも。それでよろしいですか?」
「そう、それで良いの……」
そんなやり取りをして、二人は注文をする。街の小さな喫茶店の奥の席に、二人は座っていた。
やがて、水色のサイダーが一つ、黒々とした珈琲が一つ、ウエハースとさくらんぼが乗った真っ白のアイスクリームが二つ、二人の元へ運ばれる。
いただきます。と二人は小さく言い、アイスクリームを口に運ぶ。冷たいが優しい甘さのそれは、口の中でやさしくほどけていった。
「こんなにたくさんの人がいるのに、みんながそれぞれ違うことをしているのね」
アイスクリームのスプーンを咥えながら、アリアがぽつりと呟く。店の窓から見えるのは、思い思いに歩く人々。笑い合う子どもたち、急ぎ足の商人、新聞を片手に一息つく紳士たち。誰もがそれぞれの目的を持ち、この街の一部として息づいている。
アリアはそんな風景を、まるで初めて目にするもののように見つめていた。
「……お嬢様は、街が好きなのですか?」
「ええ。でも……不思議ね。ここにいると、私がどこにいても、誰も気に留めないのね」
スプーンを口から外し、アリアは小さく笑った。
「家では、何をするにも誰かの目があって、いつも正しくいなきゃならないのに。ここでは、私が何をしても、誰も私を咎めたりしない」
結弦は、その言葉を聞いた瞬間、息が詰まるような感覚に襲われた。
まるでアリアが、この街に溶け込み、どこかへ消えてしまうような気がして。
彼女が自由を求めるたびに、自分の手の中からするりと抜け落ちてしまうようで。
ダメだ。
彼女は、俺だけの──
「お嬢様」
自然に笑顔を作りながら、結弦はアリアの手の上に、自分の手を重ねた。
「俺は、どこにいてもお嬢様を見ていますよ」
誰も見ていなくても、自分だけは彼女を見ている。彼女がどこへ行こうと、何をしようと、決して目を離さない。
「……ありがとう、結弦」
アリアはそう言って、手を引っ込めることはなかった。
それが、彼女の優しさなのか、それとも、自分と同じように、愛してくれているからなのか、結弦には分からなかった。
ただひとつ確かなのは、この手を離せば、彼女はどこか遠くへ行ってしまうということ。
だから彼は、どんなに指が震えても、その手を離さなかった。
「お嬢様。入ってもよろしいでしょうか?」
「ええ」
部屋の外でしばし待ち、アリアの許可が出た。結弦が部屋に入ると、アリアはよそゆきの服へ着替え終えていた。袖口にフリルの付いた愛らしい白いブラウス。胸元には、彼女の瞳と同じ色のブローチの付いた赤いリボンがふわりと主張している。令嬢にしてはシックな色合いの黒いフレアスカートは、それでも生地の上等さで分かる者には分かる上品さを醸し出していた。
なんて愛らしいのだろう、と結弦はアリアをうっとりと見つめた。すると、彼女の失敗を見つけてしまった。ブラウスのボタンを一つかけ違えている。自分以外に誰もいなくて良かったと安堵し、結弦はアリアに近づいた。
「新しい服なの……似合ってる?」
「ええ、とても素敵です。ですが、少しだけ……失礼します」
「……? あっ、私、ボタンを……」
「ふふ。そうです」
「恥ずかしい……」
「ここにいるのは俺だけなんですから、恥ずかしがることはないですよ」
結弦はアリアのブラウスに手を伸ばす。そして、ずれたボタンを一度外し、直していく。彼の指が、わずかにアリアの喉元をなぞる。ぞくりとした感触に、彼女は思わず息を止めた。
「……わ、たし」
「ん?」
「私、結弦に頼ってばかりね」
その言葉に、結弦はふっと笑った。
「そうかもしれませんね? はい、直りましたよ」
「そうよ。……行きましょう?」
「はい。靴も新しいものがあるでしょう。それにしましょうか」
「ええ」
玄関で結弦に靴を履かせてもらうたびに、彼の手がそっと足首を撫でるのをアリアは知っている。でも彼女は、それを咎めたことがない。
アリアはなるべくなら、結弦に頼りたくはなかった。頼っているから、結弦は鞭で打ち据えられるのだと、そう考えていたのだ。けれど、今の不出来な自分は結弦に頼るしかない事実も分かっていた。だから、自分を変えたかった。結弦に、自分と一緒にいて楽しいと思ってほしかった。──結弦の心の内を、アリアは知らない。
「お手をどうぞ、お嬢様」
「はい、結弦」
二人は手を繋いで、昼下がりの空の下へ歩き出した。
「サイダーとアイスクリームにしようかしら。結弦は何を頼むの?」
「俺は珈琲で」
「それだけ? ダ、ダメよ」
「ダメって……?」
「結弦も美味しいものを食べなきゃ、ダメよ……」
「……。はは、分かりました。では、お嬢様と同じアイスクリームも。それでよろしいですか?」
「そう、それで良いの……」
そんなやり取りをして、二人は注文をする。街の小さな喫茶店の奥の席に、二人は座っていた。
やがて、水色のサイダーが一つ、黒々とした珈琲が一つ、ウエハースとさくらんぼが乗った真っ白のアイスクリームが二つ、二人の元へ運ばれる。
いただきます。と二人は小さく言い、アイスクリームを口に運ぶ。冷たいが優しい甘さのそれは、口の中でやさしくほどけていった。
「こんなにたくさんの人がいるのに、みんながそれぞれ違うことをしているのね」
アイスクリームのスプーンを咥えながら、アリアがぽつりと呟く。店の窓から見えるのは、思い思いに歩く人々。笑い合う子どもたち、急ぎ足の商人、新聞を片手に一息つく紳士たち。誰もがそれぞれの目的を持ち、この街の一部として息づいている。
アリアはそんな風景を、まるで初めて目にするもののように見つめていた。
「……お嬢様は、街が好きなのですか?」
「ええ。でも……不思議ね。ここにいると、私がどこにいても、誰も気に留めないのね」
スプーンを口から外し、アリアは小さく笑った。
「家では、何をするにも誰かの目があって、いつも正しくいなきゃならないのに。ここでは、私が何をしても、誰も私を咎めたりしない」
結弦は、その言葉を聞いた瞬間、息が詰まるような感覚に襲われた。
まるでアリアが、この街に溶け込み、どこかへ消えてしまうような気がして。
彼女が自由を求めるたびに、自分の手の中からするりと抜け落ちてしまうようで。
ダメだ。
彼女は、俺だけの──
「お嬢様」
自然に笑顔を作りながら、結弦はアリアの手の上に、自分の手を重ねた。
「俺は、どこにいてもお嬢様を見ていますよ」
誰も見ていなくても、自分だけは彼女を見ている。彼女がどこへ行こうと、何をしようと、決して目を離さない。
「……ありがとう、結弦」
アリアはそう言って、手を引っ込めることはなかった。
それが、彼女の優しさなのか、それとも、自分と同じように、愛してくれているからなのか、結弦には分からなかった。
ただひとつ確かなのは、この手を離せば、彼女はどこか遠くへ行ってしまうということ。
だから彼は、どんなに指が震えても、その手を離さなかった。
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