1話 契約の花嫁
数時間馬車に揺られ痺れた足を引きずりながら、エリーゼは父に手を繋がれ教会の扉の前へ辿り着く。屋敷を出る前のはしゃぐ気持ちは、両親が馬車の中で出していたどこか剣呑な空気が出すじっとしていなければならない空気のせいで、すっかりしぼんでしまった。
しゅんと沈んだエリーゼは、父に「前を向きなさい」とたしなめられ、渋々前を向く。幼い彼女は、既にこんなのもういやだと思い始めていた。そんな彼女の気持ちを置き去りにするように母はエリーゼの頭のヴェールを下ろし──扉が、開いた。
教会の中には両家が呼んだ親類と友人たちが席に行儀よく座り花嫁を待っていた。国教のシンボルをオブジェのそばに、式を取り仕切る司祭と、花婿であるラザロが佇んでいる。
ラザロはその目をゆるく閉じていた。神に祈りを捧げていたのである。今日自分の妻となる、一度しか顔を見たことのない少女に、せめて幸福を感じる日々を送ってほしい、と。そんな彼を現実に引き戻すかのように扉がゆっくりと開く音がする。──目を、開けた。
父親と手を繋ぎ歩く花嫁の白地のドレスとヴェールは、窓からさす春の陽光に照らされてその繊細なレースと花模様の刺繍をさまざまな色に煌めかせていた。蛋白石のようであった。一言で白と表すには惜しいほど、たくさんの『白色』が使われている。薄いレースのヴェールに隠れて、彼女の表情は見えない。だが一歩進む度にちらりと見える蜂蜜色の髪がふわりふわりと揺れる。「小さくて可愛らしいこと」「お人形さんみたい」と大人たちが囁き合った。
花嫁は花婿の元へ辿り着く。父親が彼女の手を離し、二人は向き合う。花嫁は、花婿の腰ほどの背丈しかなかった。
司祭が口を開く。契約の問いかけの言葉だ。
「花婿ラザロ、汝はその魂を花嫁を守る剣とすることを誓いますか」
花婿──ラザロは、低い声で答える。
「……誓います」
(おなかの奥に響く。けれどやさしい声……)
花嫁がヴェール越しにラザロを見ながらそう思っていると、司祭は今度は花嫁に問う。
「花嫁エリーゼ、汝はその魂を花婿を助く鞘とすることを誓いますか」
花嫁──エリーゼは、緊張した震え声で答える。
「ち、かいます」
エリーゼの答えを聞き、一瞬の静寂の後、司祭は運命の言葉を口にする。
「契約の口付けを」
ラザロが一歩進み、その白髪が少し混じった癖毛の黒髪を一瞬だけ揺らし、エリーゼの前に跪く。彼の白い手袋に包まれた大きな手が、エリーゼのヴェールをそっと上げた。
ようやく、二人の視線が交わる。エリーゼの長いまつ毛に縁取られた薄紫色の大きな瞳が、ラザロの灰色がかった青色の切れ長の瞳をじっと見つめていた。──この色だ。とエリーゼは思う。わたしは、この色が好きなのだと。
両親から何度も教えられた段取り通りに、エリーゼが左手を差し出す。
ラザロはその小さな手を両の手で包み、ゆっくりと薬指の付け根に口付けを落とした。かあっとエリーゼの頬が熱くなる。彼女はラザロから目が離せなかった。ラザロが顔を上げる。その目は、どこか翳って見えた。その理由はエリーゼにはわからなかった。頬を薔薇色に染めるエリーゼを見たラザロの心によぎった哀れみの情を、彼女が察することはなかった。
「契約はここに。汝らはこれより一振りのつるぎとなりました」
死が二人を別つまで、汝らの旅路に白き光があらんことを。司祭はそう言い、言葉を締める。
この陰謀渦巻く結婚式に、割れんばかりの拍手が起こった。その音を、エリーゼは夜中の雷みたいだと思い、ラザロは土砂崩れのような音だと、思った。
たった今生まれた一組の夫婦は、拍手が鳴り止むまで、ずっと互いを見つめ合っていた。
しゅんと沈んだエリーゼは、父に「前を向きなさい」とたしなめられ、渋々前を向く。幼い彼女は、既にこんなのもういやだと思い始めていた。そんな彼女の気持ちを置き去りにするように母はエリーゼの頭のヴェールを下ろし──扉が、開いた。
教会の中には両家が呼んだ親類と友人たちが席に行儀よく座り花嫁を待っていた。国教のシンボルをオブジェのそばに、式を取り仕切る司祭と、花婿であるラザロが佇んでいる。
ラザロはその目をゆるく閉じていた。神に祈りを捧げていたのである。今日自分の妻となる、一度しか顔を見たことのない少女に、せめて幸福を感じる日々を送ってほしい、と。そんな彼を現実に引き戻すかのように扉がゆっくりと開く音がする。──目を、開けた。
父親と手を繋ぎ歩く花嫁の白地のドレスとヴェールは、窓からさす春の陽光に照らされてその繊細なレースと花模様の刺繍をさまざまな色に煌めかせていた。蛋白石のようであった。一言で白と表すには惜しいほど、たくさんの『白色』が使われている。薄いレースのヴェールに隠れて、彼女の表情は見えない。だが一歩進む度にちらりと見える蜂蜜色の髪がふわりふわりと揺れる。「小さくて可愛らしいこと」「お人形さんみたい」と大人たちが囁き合った。
花嫁は花婿の元へ辿り着く。父親が彼女の手を離し、二人は向き合う。花嫁は、花婿の腰ほどの背丈しかなかった。
司祭が口を開く。契約の問いかけの言葉だ。
「花婿ラザロ、汝はその魂を花嫁を守る剣とすることを誓いますか」
花婿──ラザロは、低い声で答える。
「……誓います」
(おなかの奥に響く。けれどやさしい声……)
花嫁がヴェール越しにラザロを見ながらそう思っていると、司祭は今度は花嫁に問う。
「花嫁エリーゼ、汝はその魂を花婿を助く鞘とすることを誓いますか」
花嫁──エリーゼは、緊張した震え声で答える。
「ち、かいます」
エリーゼの答えを聞き、一瞬の静寂の後、司祭は運命の言葉を口にする。
「契約の口付けを」
ラザロが一歩進み、その白髪が少し混じった癖毛の黒髪を一瞬だけ揺らし、エリーゼの前に跪く。彼の白い手袋に包まれた大きな手が、エリーゼのヴェールをそっと上げた。
ようやく、二人の視線が交わる。エリーゼの長いまつ毛に縁取られた薄紫色の大きな瞳が、ラザロの灰色がかった青色の切れ長の瞳をじっと見つめていた。──この色だ。とエリーゼは思う。わたしは、この色が好きなのだと。
両親から何度も教えられた段取り通りに、エリーゼが左手を差し出す。
ラザロはその小さな手を両の手で包み、ゆっくりと薬指の付け根に口付けを落とした。かあっとエリーゼの頬が熱くなる。彼女はラザロから目が離せなかった。ラザロが顔を上げる。その目は、どこか翳って見えた。その理由はエリーゼにはわからなかった。頬を薔薇色に染めるエリーゼを見たラザロの心によぎった哀れみの情を、彼女が察することはなかった。
「契約はここに。汝らはこれより一振りのつるぎとなりました」
死が二人を別つまで、汝らの旅路に白き光があらんことを。司祭はそう言い、言葉を締める。
この陰謀渦巻く結婚式に、割れんばかりの拍手が起こった。その音を、エリーゼは夜中の雷みたいだと思い、ラザロは土砂崩れのような音だと、思った。
たった今生まれた一組の夫婦は、拍手が鳴り止むまで、ずっと互いを見つめ合っていた。
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