テールランプを追いかけろ(水戸)
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カラカラカラ、と部屋とベランダを仕切る窓枠の滑る音が聞こえた。ひょい、と向こうの家と私の家の境界線とも言える防火扉から顔だけを覗かせて、私達は顔を合わせた。今夜も小さな会釈と彼からの挨拶で始まる。
「お、ドウモ。」
「どうも、どうも。」
***
数ヶ月前に仕事の都合で私はこのマンションに引っ越してきた。八階建の築浅、単身向けマンションの角部屋の七階。立方体の角を斜めに切り取り、取っ払ったような建物の作りで、角部屋の私は七階なのだけれど上階には部屋がない。建築基準と斜線制限がどうとかで、内見の時に不動産屋のお兄さんが何か言ってたっけ。ともかく上階の騒音もなく、眺めが良くて、ベランダも広くて気に入っている。その前に住んでいたマンションにはベランダが無かったから、そろそろ憧れのベランダ菜園を始めてみたい。手始めにミニトマトでも栽培してみようかと計画中。そんなことをベランダを区切る防火扉の向こうに立つ隣人に話してみたら、
「おー、良いんじゃないっすか。収穫したら教えて。」
なんて気軽に言われた。
「それ、ミニトマト食べたいってことですか?」
さるかに合戦で言えば私は蟹か。そんな私が恨めしく猿に向かって聞いてみたらば、変に察しがよろしい彼はこう言った。
「いや、そんなにトマト好きじゃなかったっす。やっぱいいや。」
「何それ〜!」
「ははは。」
隣人の名前は水戸さん、と言う。軽々しい物言いは、軽薄そうな性格が見え隠れして、いつも私は距離感を見失う。
***
このマンションに引っ越してきた初日は土曜日で。私は引越し業者の荷物搬入を終えた後、隣の水戸さんのお宅へご挨拶に伺ったのだが、その時彼は不在。その後、日を置いて仕事や外出先から帰ってきたタイミングで何度かチャイムを鳴らしたのだがやっぱり不在。生活スタイルが合わない隣人なら、こちらも余計な社交に力を割く必要もないし好都合かも、なんて思い始めた矢先、初めて水戸さんという存在を認めたのは平日深夜のベランダだった。
「肩身狭いっすよね〜。」
隣人の第一声がコレだったので、私は突然の会話のスタートに自分の煙草を落としそうになったのを覚えている。
「あ、すんません。隣に住んでる奴です。」
隣人は男性か、と私がビクリと驚いたことと警戒したのを嗅ぎ取ったらしく、水戸です、と名乗ってきた彼に私もぎこちなく苗字です、と挨拶をした。何度かご挨拶に伺ったことも伝えたら、
「あー、しばらく友達んとこで遊んでたんで。そいつんちから仕事行ってたら、自分ちに帰るの面倒くさくなって。」
と悪びれもなく(いえ、ただの隣人になった私に悪気を感じる必要は全くないのは十分承知しているけれども)一切こちらに配慮ない返事の仕方が、最後の「面倒くさい」の一言に集約されていた気がして、水戸さんの第一印象が軽薄そうな人、ということが私の中で決定付けられたのだった。
「煙草吸うんすねー。」
ほら、こうやって初対面でも遠慮がない感じが更に軽薄さを印象付ける。対処の仕方に惑う私は目を合わせることなく頷いて、また自分の煙草を咥えた。すると水戸さんには、自分の指摘により、私が肩をすくめたのだと映ったらしく、彼はフォローと言い訳の混じった言葉を投げた。
「はは。喫煙者は肩身狭いっすよね。さっきの話に戻るけど。」
「あ、すみません。煙、そっち行かないように気を付けます。」
一応、お隣さんが洗濯物を干していないかは確認したが、相手のベランダを少しでも覗き見たことをわざわざ自分から言うことも憚られ、私は遠慮気味に相手側から物理的に距離を取ろうと立ち上がった。水戸さんがどんなに軽薄なフレンドリーさを見せてきても、こちらは初対面で親しげに会話を為す術など持ち得ていないのだもの。
「いーっすよ。オレも吸うためにベランダ出てきただけっすから。」
言うだけ言って水戸さんは防火扉の陰に引っ込んだ。私からは見えない位置に立ってくれたので、少しだけホッとしたのが初対面の記憶。
***
水戸さんは軽薄そうに見えたが、軽率に距離を縮めてくるような人でもなかった。人の本質を見抜く素振りで薄く微笑む。そしてそれを勘付かせまいとわざとその微笑みを親しみに変えて接してくる。多分、気安く応じるくせに人に心を許さないタイプだな、というのが二回目以降の印象。
「それ、だいぶ悪口入ってないすか?」
「あはは。悪意はないですよ。」
「いや、苗字さん、絶対あるな、それ。」
正直に水戸さんの印象について語る私に、水戸さんは首を捻りながら笑い、二本目の煙草に火を付けた。
ベランダ限定ではあったけれど、初対面で話しかけられてしまっては、以降に水戸さんを無視するわけにもいかなくなった。会釈をする間柄を重ねていく内に、私と水戸さんとのベランダ会合はこうして始まった。
数分の雑談を重ねるときもあれば、お互いの煙草がなくなって、時には水戸さんが、オレ酒強くないんだよね、なんて言いながら部屋から持ち出してきた缶チューハイを何缶も空にした日もあった。しかし、そこには決して記憶に残る印象的な会話はないし、世間話に大笑いすることも怒ることも悲しむこともなかった。感情を揺さぶられる会話を求める必要がなかったのは、一日の終わりに誰かと今日もお疲れ様、と認め合えるような穏やかな会話がどんなに心安いか、ということを水戸さんを通して私は知ったからでもある。
「あ、苗字さんだ。どうも。」
「こんばんは。水戸さん。」
「苗字さん、安定のベランダ喫煙者っすね。」
「ここしか吸うとこないんですよ。会社の休憩所は灰皿撤去されちゃったし。まー、そんなに吸う方じゃないからいいんですけど。ストレスを散らす方法が他にないだけで。」
「ストレスあるんすか?」
「仕事とか、人生とか、色々と。」
「ふぅん。」
「水戸さんは?無いんですか?嫌なこととか。」
「オレ?オレあんまし悩みないっすね。あ、でも結構この場所とこの時間、癒しっすけどね。苗字さんが越してきてから。」
水戸さんはよく笑う人だ。そして私に向かって笑顔を振りまく時は、軽口を叩く時だということも、ようやく分かってきた。
「えー、それホントですかあ?」
「はっはっは。」
私が追いかけると水戸さんは逃げていく。「はい」とも「いいえ」とも言わずに水戸さんは、噛んでふくめるような言い方に小首を傾げるような仕草で笑みを添えるだけ。だから水戸さんとの会話は常にフワっとしていて着地の姿勢も本心も見せてくれない。それがチクリと私の胸を刺していることにも私は次第に気付き始めていた。
***
「百円ショップにさ、煮卵作るケース?みたいなの売ってて、オレ、今ハマって作ってるんすよね。」
今夜もまたベランダに両腕を放り出して、水戸さんと会話が始まる。
「あ!それ知ってます!ゆで卵を漬ける専用のケースですよね!?ってか水戸さん、めっちゃ家庭的じゃん。意外。あはは。」
「や、たまたま。自炊とかほぼやんないっす。」
「この辺、百円ショップってどこにあるんですか?」
「あれ?知らない?ほら、あそこの細長いビル見えます?あの隣のビルの2階が、、、。」
「ええ?細長いビル?どれ?どこ?」
「えーと、そうだな。ここから真っ直ぐ行ったとこの信号機は?見えます?」
「えー?どれ?」
「んーと、ちょっとこっち来て。」
水戸さんが防火扉の向こうから私を手招きする。言われるがまま、室外機を避けるようにしてそろりそろりと私も水戸さんの方へ近付いた。ぴったりと寄り添うのは水戸さんの肩ではなく防火扉だ。変に意識しなくて良いのは、私と水戸さんを物理的に阻んでくれるこの一枚のベージュの壁のおかげだろう。
「もうちょい、こっち。」
すると水戸さんはベランダから私の頭に手を伸ばした。水戸さんに引きずられて私の体は不自然に防火扉から突き出したような形になる。
「えっ、あっ?」
「ほら、ここから真っ直ぐの、黄色い看板。光ってるの、見える?」
真横に水戸さんの顔がある。ベランダの手すりを支えにして、二人とも顔を突き出している。私と水戸さんの頬が触れるか触れないかの、ぎりぎりのところにあるのは、水戸さんが私に位置を伝え易くするために、目線を同じにしようとしたからだとようやく気付いた。
私は水戸さんと同じ視線の先にあるであろう黄色い看板を探すのだけれど、意識はベランダの先、数百メートルで光るネオンではなく、見えるはずのない数センチ先の自分の後頭部に向かう。そこには、水戸さんの手が置かれたままなのだ。頭の先が引き攣る。ピリピリとした電流が走ったように。
「み、見えます、見えます!あの黄色い看板ですね。あー、あそこの隣の細長のビル!通ったことあるかも!」
ベランダの手すりにかけていた両手を思い切り突っ張るようにして、水戸さんから離れた。水戸さんから指し示された場所を見つけたフリをして私は声をあげた。水戸さんの手から離れないといけない、と焦ったからだ。分かったのはお店の場所ではなく、自分の中にあった水戸さんに対する心の揺らぎだ。好きとかいう気持ちではなく、本能的にこの人を好きになったら後戻り出来なくなりそうだという警戒と、もっと触れてもらいたいかも、と思ってしまったあさましさがせめぎ合ってしまい、どのように心の行き先を処理して良いか咄嗟に分からなくなってしまったのだ。
「えと、今度、行ってみます。」
私は水戸さんに笑いかけた。何とも思ってない、と水戸さんにも自分にも示してやるための顔に張り付ける笑顔を用意して。
「うん。煮卵ケースはおススメ。あれ、人気商品らしいから、なかなか見つけられないらしいっすよ。ネットに書いてあった。」
ととん、と手元の箱から煙草を一本抜き出しながら、水戸さんは私に言った。水戸さんは勘が良いから、私が会話に距離を置いたこともちゃんと分かっていた。これ以上近寄ってこない。その代わりに、会話と会話の間を、煙草に任せるつもりらしい。私は水戸さんが煙草に火をつける一連の動作をじっくりと眺める。この間は、どうしてだか水戸さんが喋らなくても、私が話しかけずに黙って水戸さんを見つめていても、全く気まずさは生まれないのだ。これが煙草の優れたところで、口元の寂しさを会話で埋めなくたっていいのだ。そんなことを、水戸さんが吐き出した煙がゆらりと漂うのを目で追いかけては、私はぼんやりと考えた。
「煮卵、かあ。食べたくなってきちゃった。」
会話を繋ぐつもりのない独り言。煮卵のことを頭の中で思い描いたら不意に口から出てきただけなのだ。そんな何でもない私の言葉を水戸さんはしっかりと拾って返した。
「来る?うち。」
「え?」
「ん?」
軽く言われたものだから、思わずノリ良く答えてしまいそうになるのを口ごもるようにして抑えた。同時に水戸さんが純粋に煮卵を私にご馳走するつもりではないことも明らかだった。
「あ、でもオレんち、禁煙っすけどね。」
ほら、私から目をそらさずに意味ありげに笑って付け加えた一言は、私に思考の逃げ道を与えようとはしてくれない。私達はベランダで煙草を吸っては、缶チューハイで乾杯し、どうでも良い雑談をする隣人なだけなのだ。そうであるはずなのに水戸さんの発言は、このベランダで過ごすのとは内容も意味も大きく異なるということを暗に示唆していた。私だって鈍感なわけじゃない。水戸さんに誘い込まれようとしている、のかもしれない。しかしこれが断定的でなく、推量の域を出ないのは、水戸さんがもう私から目を逸らし、ふぅーっと煙を吐いたからだ。このすげない態度に振り回されたくはないと思いつつも、手元の缶チューハイ一本で私はますます水戸さんに酔いそうになる。水戸さんの心の目盛りが見当たらないうちは、自分の心だけが大きく吹き溢れることはしたくない。ゆえに私も水戸さんに不用意な発言はしないでおこうと、距離を取ってしまうのだ。
「奇遇ですね。うちも禁煙なんですよ〜。ふふふふふ。」
よって会話の行間にある何かを自ら掴み取りには行かなかった。私も水戸さんの会話を真似て返す。可能性だけを残すような会話の往復に、どちらかが痺れを切らしたら、この時間は終了の鐘が鳴るのだ。いや、始まりの合図なのかもしれない。でも私はその口火を自ら切りたくはないのだ。こういう時、水戸さんのことを好意的に思っているくせに軽いノリでは踏み出せない自分を少しだけ呪って、私も煙草に火をつけて言う。
「なので、これが最後の一本ということで。」
もう今夜の水戸さんとのベランダ会合の時間はおしまい。この先に期待はしないことをそれとなくほのめかした。水戸さんの視線を遮るようにして、煙草とライターを掲げ、私はちょっとだけ嫌味っぽく水戸さんに笑いかけるのだ。
言い淀んだ気持ちと共にフィルターを吸い込むと、指先の向こうが強く光る。煙草の先からゆったりと煙立つ白い筋を目で追うのが好きだ。揺れながら上に登るしかない煙を眺めていると、ゆらゆらしている自分の思考も整えられていく感覚になるから。そしてふうっと薄く引き伸ばし、煙を吐き出す行為は、迷いとか悩みが多少なりとも自分の外に追い出されていく気がするから。
「苗字さんって、、、アレだな〜。」
水戸さんが、ベランダの手すりに肘をつく。そして片方の肘を立てて頬杖をつくと、ベランダから頭ひとつ乗り出した形となって、私の様子について感想を述べる。
「伏線回収しなくても気にならないタイプでしょ。」
「は?どういう意味ですか、それ。」
瞬間的な戸惑いを上手く隠し切れなかったかもしれない。言い放った言葉の調子との辻褄を合わせようと、困るでなく呆れたふりをして私は水戸さんを見返した。水戸さんこそ意味ありげに言葉を並べるくせにはっきりしないじゃない。私のことはどう思っているのだろう。遊ばれているのだろうか。接近してくるくせに、肝心なことは私の出方を伺ったような言い方ばかり。私だってどうしたいのか分からない。そんな訳の分からない憤りが胸の奥に湧いた。
私は今しがた吸い始めた煙草を親指で二度弾いて灰を落とす。もう終わろう、今日はお開きとしよう。そう思い直して、煙草は口元に戻すことなく、水戸さんに見せつけるつもりで灰皿にぎゅっと押し付けた。その一連の動作を水戸さんは頬杖をついたまま見つめていた。そして呟いた。
「オレは白黒付けたいタイプなんすよね。」
「嘘ばっかり。」
ははは、と水戸さんが目元をくしゃりとさせて穏やかに笑う。この笑顔にドキリとする。低音のかすれた笑い声と共に、水戸さんは私から視線を外し、夜を見下ろした。その仕草と声がとても魅力的で心地良さを感じさせるから、一層耳に響いて残る。そしてそんなことで胸をときめかせる自分が恥ずかしくて、そして悔しさも少し。俯いて私は黙った。
「おし。ジャンケンで決めましょうか。」
「な、何を決めるの、、、?」
「二次会会場。」
水戸さんは、さっきまで飲んでた缶ビールを私に見せて振った。すでに空になっていることを示すには十分な振り方だった。どうやら飲み直しをはかりたいそうだ。それも私と。
「、、、よし、そうだな。苗字さんが勝ったら、苗字さんの部屋。オレが勝ったら、オレの部屋。そして、あいこなら今日はお開きってことで。」
「何よ、それ〜。勝手に決めないでってば。私、お酒飲みたいとか言ってないです。」
「だから平等にジャンケンで決めましょうよ。そしたら後腐れないっすよね?」
無理に同意を求めようとする水戸さんの強引さにすら心が泡立つ。駆け引きめいた提案は、私を惑わせている。水戸さんのペースになり始めた。このまま流れに身を任せてしまうには危険だと思いつつ、私の心の天秤は水戸さんへと傾きつつあることを否定は出来なくて、私はやはり何も言い出せずにいた。どうして良いかわからず、水戸さんの方に顔を向けられない。
水戸さんは答えを言わない人だ。会話の手綱を引くのは水戸さんであっても、あくまでも私に選択の余地を残している。だから私がここで拒否をしたって良いのだけれど、じゃんけんという勝敗の偶発性により、水戸さんの提案に素直に乗る方が、後を引くことのない結末を選べる気がしてきた。そんなことを考えながら、ベランダから見える幹線道路を走る車の流れを目で追う。規則正しくテールランプが並ぶ。赤い光に誘導されるがまま、水戸さんに言われるがまま、何も考えず私も走り出せたらばどんなに気が楽か。
「苗字さん、じゃあさ、オレ、グー出しますよ。」
答えに窮している内に、追い込まれてしまったみたい。自分の手の内を先にあっけらかんと見せてきたのは水戸さん。だけど私に決めさせようとしているのも水戸さんだ。これじゃあ、私が出す手によって私の水戸さんへの気持ちが丸見えになってしまうじゃない。これじゃあ、何を選んだって、どんな結末になったって、水戸さんのせいに出来ないじゃない。
水戸さんといると言葉巧みに丸め込まれてしまいそうで、胸がざわつく。私は意表を突かれると同時に身構えざるをえない。
「それって、じゃんけんって言わない、、、です。」
「分かんないすよ?グー出さないかもしれないし。オレ、嘘ついてるかもしんない。」
「えええー、、、めんどくさ。」
「めんどくさくしてるのは苗字さんかもしれないっすよ?」
もうこれ以上、困惑させないでほしいと心底思った。そして全身で疎ましさを醸す私を見て水戸さんは余裕の表情で楽しんでいる。その笑った顔は嫌いじゃないから、水戸さんとのくだけたやりとりが心地良くもなってきて、思い切り拒絶はしなかった。私のそういうところもきっと水戸さんに見透かされている。だから私の答えを急かすように、水戸さんは躊躇なく片手を振り上げてきた。
「ほい。いくよ。じゃーんけーん、、、。」
「えっ、ちょ、ちょっと待って!」
ごちゃごちゃと考えるのは苦手。水戸さんはグーを出す。多分。きっと。そう思い込むことが、自分の心の逃げ道を確保できる気がしたのだ。だから私は。
「ぽんっ。」
まるで緊張感のない水戸さんのぬるい掛け声のあとに、私達に沈黙が訪れる。水戸さんはグーを出した。私もグーを出して引き分けにもつれ込む。二人の掲げた拳が意味するのは、今夜はもう終幕である、ということだ。私は少しほっとした顔を見せたのかもしれない。けれども水戸さんは違った。水戸さんの拳が少し上を向いたと思ったら、手のひらを広げてあっと言う間に私の拳を包みこんだ。
「捕まえた。」
「えっ、、、えっ、、、?」
何が起きたのか分からなくて、身じろぎ一つ出来ずに水戸さんだけを見る。水戸さんは私の疑問符だらけの顔に、クスリと笑い、わざと無邪気そうに答えを押し付けた。
「パーでオレの勝ち。」
「ズルい、、、。」
「ズルくないっす。」
やはり水戸さんは勝てそうにないようだ。掴まれた手を振り解く力も意志もすでに私には無かった。
「オレの部屋。来てよ。」
ダメ押しの水戸さんからの誘い文句は、これまでと違って随分と直接的で甘く感じられ、胸が弾ける。この胸のときめきは多分、そう、きっと、水戸さんに向けて期待し始めたからだ。そう観念して私は静かに頷いた。
「お、ドウモ。」
「どうも、どうも。」
***
数ヶ月前に仕事の都合で私はこのマンションに引っ越してきた。八階建の築浅、単身向けマンションの角部屋の七階。立方体の角を斜めに切り取り、取っ払ったような建物の作りで、角部屋の私は七階なのだけれど上階には部屋がない。建築基準と斜線制限がどうとかで、内見の時に不動産屋のお兄さんが何か言ってたっけ。ともかく上階の騒音もなく、眺めが良くて、ベランダも広くて気に入っている。その前に住んでいたマンションにはベランダが無かったから、そろそろ憧れのベランダ菜園を始めてみたい。手始めにミニトマトでも栽培してみようかと計画中。そんなことをベランダを区切る防火扉の向こうに立つ隣人に話してみたら、
「おー、良いんじゃないっすか。収穫したら教えて。」
なんて気軽に言われた。
「それ、ミニトマト食べたいってことですか?」
さるかに合戦で言えば私は蟹か。そんな私が恨めしく猿に向かって聞いてみたらば、変に察しがよろしい彼はこう言った。
「いや、そんなにトマト好きじゃなかったっす。やっぱいいや。」
「何それ〜!」
「ははは。」
隣人の名前は水戸さん、と言う。軽々しい物言いは、軽薄そうな性格が見え隠れして、いつも私は距離感を見失う。
***
このマンションに引っ越してきた初日は土曜日で。私は引越し業者の荷物搬入を終えた後、隣の水戸さんのお宅へご挨拶に伺ったのだが、その時彼は不在。その後、日を置いて仕事や外出先から帰ってきたタイミングで何度かチャイムを鳴らしたのだがやっぱり不在。生活スタイルが合わない隣人なら、こちらも余計な社交に力を割く必要もないし好都合かも、なんて思い始めた矢先、初めて水戸さんという存在を認めたのは平日深夜のベランダだった。
「肩身狭いっすよね〜。」
隣人の第一声がコレだったので、私は突然の会話のスタートに自分の煙草を落としそうになったのを覚えている。
「あ、すんません。隣に住んでる奴です。」
隣人は男性か、と私がビクリと驚いたことと警戒したのを嗅ぎ取ったらしく、水戸です、と名乗ってきた彼に私もぎこちなく苗字です、と挨拶をした。何度かご挨拶に伺ったことも伝えたら、
「あー、しばらく友達んとこで遊んでたんで。そいつんちから仕事行ってたら、自分ちに帰るの面倒くさくなって。」
と悪びれもなく(いえ、ただの隣人になった私に悪気を感じる必要は全くないのは十分承知しているけれども)一切こちらに配慮ない返事の仕方が、最後の「面倒くさい」の一言に集約されていた気がして、水戸さんの第一印象が軽薄そうな人、ということが私の中で決定付けられたのだった。
「煙草吸うんすねー。」
ほら、こうやって初対面でも遠慮がない感じが更に軽薄さを印象付ける。対処の仕方に惑う私は目を合わせることなく頷いて、また自分の煙草を咥えた。すると水戸さんには、自分の指摘により、私が肩をすくめたのだと映ったらしく、彼はフォローと言い訳の混じった言葉を投げた。
「はは。喫煙者は肩身狭いっすよね。さっきの話に戻るけど。」
「あ、すみません。煙、そっち行かないように気を付けます。」
一応、お隣さんが洗濯物を干していないかは確認したが、相手のベランダを少しでも覗き見たことをわざわざ自分から言うことも憚られ、私は遠慮気味に相手側から物理的に距離を取ろうと立ち上がった。水戸さんがどんなに軽薄なフレンドリーさを見せてきても、こちらは初対面で親しげに会話を為す術など持ち得ていないのだもの。
「いーっすよ。オレも吸うためにベランダ出てきただけっすから。」
言うだけ言って水戸さんは防火扉の陰に引っ込んだ。私からは見えない位置に立ってくれたので、少しだけホッとしたのが初対面の記憶。
***
水戸さんは軽薄そうに見えたが、軽率に距離を縮めてくるような人でもなかった。人の本質を見抜く素振りで薄く微笑む。そしてそれを勘付かせまいとわざとその微笑みを親しみに変えて接してくる。多分、気安く応じるくせに人に心を許さないタイプだな、というのが二回目以降の印象。
「それ、だいぶ悪口入ってないすか?」
「あはは。悪意はないですよ。」
「いや、苗字さん、絶対あるな、それ。」
正直に水戸さんの印象について語る私に、水戸さんは首を捻りながら笑い、二本目の煙草に火を付けた。
ベランダ限定ではあったけれど、初対面で話しかけられてしまっては、以降に水戸さんを無視するわけにもいかなくなった。会釈をする間柄を重ねていく内に、私と水戸さんとのベランダ会合はこうして始まった。
数分の雑談を重ねるときもあれば、お互いの煙草がなくなって、時には水戸さんが、オレ酒強くないんだよね、なんて言いながら部屋から持ち出してきた缶チューハイを何缶も空にした日もあった。しかし、そこには決して記憶に残る印象的な会話はないし、世間話に大笑いすることも怒ることも悲しむこともなかった。感情を揺さぶられる会話を求める必要がなかったのは、一日の終わりに誰かと今日もお疲れ様、と認め合えるような穏やかな会話がどんなに心安いか、ということを水戸さんを通して私は知ったからでもある。
「あ、苗字さんだ。どうも。」
「こんばんは。水戸さん。」
「苗字さん、安定のベランダ喫煙者っすね。」
「ここしか吸うとこないんですよ。会社の休憩所は灰皿撤去されちゃったし。まー、そんなに吸う方じゃないからいいんですけど。ストレスを散らす方法が他にないだけで。」
「ストレスあるんすか?」
「仕事とか、人生とか、色々と。」
「ふぅん。」
「水戸さんは?無いんですか?嫌なこととか。」
「オレ?オレあんまし悩みないっすね。あ、でも結構この場所とこの時間、癒しっすけどね。苗字さんが越してきてから。」
水戸さんはよく笑う人だ。そして私に向かって笑顔を振りまく時は、軽口を叩く時だということも、ようやく分かってきた。
「えー、それホントですかあ?」
「はっはっは。」
私が追いかけると水戸さんは逃げていく。「はい」とも「いいえ」とも言わずに水戸さんは、噛んでふくめるような言い方に小首を傾げるような仕草で笑みを添えるだけ。だから水戸さんとの会話は常にフワっとしていて着地の姿勢も本心も見せてくれない。それがチクリと私の胸を刺していることにも私は次第に気付き始めていた。
***
「百円ショップにさ、煮卵作るケース?みたいなの売ってて、オレ、今ハマって作ってるんすよね。」
今夜もまたベランダに両腕を放り出して、水戸さんと会話が始まる。
「あ!それ知ってます!ゆで卵を漬ける専用のケースですよね!?ってか水戸さん、めっちゃ家庭的じゃん。意外。あはは。」
「や、たまたま。自炊とかほぼやんないっす。」
「この辺、百円ショップってどこにあるんですか?」
「あれ?知らない?ほら、あそこの細長いビル見えます?あの隣のビルの2階が、、、。」
「ええ?細長いビル?どれ?どこ?」
「えーと、そうだな。ここから真っ直ぐ行ったとこの信号機は?見えます?」
「えー?どれ?」
「んーと、ちょっとこっち来て。」
水戸さんが防火扉の向こうから私を手招きする。言われるがまま、室外機を避けるようにしてそろりそろりと私も水戸さんの方へ近付いた。ぴったりと寄り添うのは水戸さんの肩ではなく防火扉だ。変に意識しなくて良いのは、私と水戸さんを物理的に阻んでくれるこの一枚のベージュの壁のおかげだろう。
「もうちょい、こっち。」
すると水戸さんはベランダから私の頭に手を伸ばした。水戸さんに引きずられて私の体は不自然に防火扉から突き出したような形になる。
「えっ、あっ?」
「ほら、ここから真っ直ぐの、黄色い看板。光ってるの、見える?」
真横に水戸さんの顔がある。ベランダの手すりを支えにして、二人とも顔を突き出している。私と水戸さんの頬が触れるか触れないかの、ぎりぎりのところにあるのは、水戸さんが私に位置を伝え易くするために、目線を同じにしようとしたからだとようやく気付いた。
私は水戸さんと同じ視線の先にあるであろう黄色い看板を探すのだけれど、意識はベランダの先、数百メートルで光るネオンではなく、見えるはずのない数センチ先の自分の後頭部に向かう。そこには、水戸さんの手が置かれたままなのだ。頭の先が引き攣る。ピリピリとした電流が走ったように。
「み、見えます、見えます!あの黄色い看板ですね。あー、あそこの隣の細長のビル!通ったことあるかも!」
ベランダの手すりにかけていた両手を思い切り突っ張るようにして、水戸さんから離れた。水戸さんから指し示された場所を見つけたフリをして私は声をあげた。水戸さんの手から離れないといけない、と焦ったからだ。分かったのはお店の場所ではなく、自分の中にあった水戸さんに対する心の揺らぎだ。好きとかいう気持ちではなく、本能的にこの人を好きになったら後戻り出来なくなりそうだという警戒と、もっと触れてもらいたいかも、と思ってしまったあさましさがせめぎ合ってしまい、どのように心の行き先を処理して良いか咄嗟に分からなくなってしまったのだ。
「えと、今度、行ってみます。」
私は水戸さんに笑いかけた。何とも思ってない、と水戸さんにも自分にも示してやるための顔に張り付ける笑顔を用意して。
「うん。煮卵ケースはおススメ。あれ、人気商品らしいから、なかなか見つけられないらしいっすよ。ネットに書いてあった。」
ととん、と手元の箱から煙草を一本抜き出しながら、水戸さんは私に言った。水戸さんは勘が良いから、私が会話に距離を置いたこともちゃんと分かっていた。これ以上近寄ってこない。その代わりに、会話と会話の間を、煙草に任せるつもりらしい。私は水戸さんが煙草に火をつける一連の動作をじっくりと眺める。この間は、どうしてだか水戸さんが喋らなくても、私が話しかけずに黙って水戸さんを見つめていても、全く気まずさは生まれないのだ。これが煙草の優れたところで、口元の寂しさを会話で埋めなくたっていいのだ。そんなことを、水戸さんが吐き出した煙がゆらりと漂うのを目で追いかけては、私はぼんやりと考えた。
「煮卵、かあ。食べたくなってきちゃった。」
会話を繋ぐつもりのない独り言。煮卵のことを頭の中で思い描いたら不意に口から出てきただけなのだ。そんな何でもない私の言葉を水戸さんはしっかりと拾って返した。
「来る?うち。」
「え?」
「ん?」
軽く言われたものだから、思わずノリ良く答えてしまいそうになるのを口ごもるようにして抑えた。同時に水戸さんが純粋に煮卵を私にご馳走するつもりではないことも明らかだった。
「あ、でもオレんち、禁煙っすけどね。」
ほら、私から目をそらさずに意味ありげに笑って付け加えた一言は、私に思考の逃げ道を与えようとはしてくれない。私達はベランダで煙草を吸っては、缶チューハイで乾杯し、どうでも良い雑談をする隣人なだけなのだ。そうであるはずなのに水戸さんの発言は、このベランダで過ごすのとは内容も意味も大きく異なるということを暗に示唆していた。私だって鈍感なわけじゃない。水戸さんに誘い込まれようとしている、のかもしれない。しかしこれが断定的でなく、推量の域を出ないのは、水戸さんがもう私から目を逸らし、ふぅーっと煙を吐いたからだ。このすげない態度に振り回されたくはないと思いつつも、手元の缶チューハイ一本で私はますます水戸さんに酔いそうになる。水戸さんの心の目盛りが見当たらないうちは、自分の心だけが大きく吹き溢れることはしたくない。ゆえに私も水戸さんに不用意な発言はしないでおこうと、距離を取ってしまうのだ。
「奇遇ですね。うちも禁煙なんですよ〜。ふふふふふ。」
よって会話の行間にある何かを自ら掴み取りには行かなかった。私も水戸さんの会話を真似て返す。可能性だけを残すような会話の往復に、どちらかが痺れを切らしたら、この時間は終了の鐘が鳴るのだ。いや、始まりの合図なのかもしれない。でも私はその口火を自ら切りたくはないのだ。こういう時、水戸さんのことを好意的に思っているくせに軽いノリでは踏み出せない自分を少しだけ呪って、私も煙草に火をつけて言う。
「なので、これが最後の一本ということで。」
もう今夜の水戸さんとのベランダ会合の時間はおしまい。この先に期待はしないことをそれとなくほのめかした。水戸さんの視線を遮るようにして、煙草とライターを掲げ、私はちょっとだけ嫌味っぽく水戸さんに笑いかけるのだ。
言い淀んだ気持ちと共にフィルターを吸い込むと、指先の向こうが強く光る。煙草の先からゆったりと煙立つ白い筋を目で追うのが好きだ。揺れながら上に登るしかない煙を眺めていると、ゆらゆらしている自分の思考も整えられていく感覚になるから。そしてふうっと薄く引き伸ばし、煙を吐き出す行為は、迷いとか悩みが多少なりとも自分の外に追い出されていく気がするから。
「苗字さんって、、、アレだな〜。」
水戸さんが、ベランダの手すりに肘をつく。そして片方の肘を立てて頬杖をつくと、ベランダから頭ひとつ乗り出した形となって、私の様子について感想を述べる。
「伏線回収しなくても気にならないタイプでしょ。」
「は?どういう意味ですか、それ。」
瞬間的な戸惑いを上手く隠し切れなかったかもしれない。言い放った言葉の調子との辻褄を合わせようと、困るでなく呆れたふりをして私は水戸さんを見返した。水戸さんこそ意味ありげに言葉を並べるくせにはっきりしないじゃない。私のことはどう思っているのだろう。遊ばれているのだろうか。接近してくるくせに、肝心なことは私の出方を伺ったような言い方ばかり。私だってどうしたいのか分からない。そんな訳の分からない憤りが胸の奥に湧いた。
私は今しがた吸い始めた煙草を親指で二度弾いて灰を落とす。もう終わろう、今日はお開きとしよう。そう思い直して、煙草は口元に戻すことなく、水戸さんに見せつけるつもりで灰皿にぎゅっと押し付けた。その一連の動作を水戸さんは頬杖をついたまま見つめていた。そして呟いた。
「オレは白黒付けたいタイプなんすよね。」
「嘘ばっかり。」
ははは、と水戸さんが目元をくしゃりとさせて穏やかに笑う。この笑顔にドキリとする。低音のかすれた笑い声と共に、水戸さんは私から視線を外し、夜を見下ろした。その仕草と声がとても魅力的で心地良さを感じさせるから、一層耳に響いて残る。そしてそんなことで胸をときめかせる自分が恥ずかしくて、そして悔しさも少し。俯いて私は黙った。
「おし。ジャンケンで決めましょうか。」
「な、何を決めるの、、、?」
「二次会会場。」
水戸さんは、さっきまで飲んでた缶ビールを私に見せて振った。すでに空になっていることを示すには十分な振り方だった。どうやら飲み直しをはかりたいそうだ。それも私と。
「、、、よし、そうだな。苗字さんが勝ったら、苗字さんの部屋。オレが勝ったら、オレの部屋。そして、あいこなら今日はお開きってことで。」
「何よ、それ〜。勝手に決めないでってば。私、お酒飲みたいとか言ってないです。」
「だから平等にジャンケンで決めましょうよ。そしたら後腐れないっすよね?」
無理に同意を求めようとする水戸さんの強引さにすら心が泡立つ。駆け引きめいた提案は、私を惑わせている。水戸さんのペースになり始めた。このまま流れに身を任せてしまうには危険だと思いつつ、私の心の天秤は水戸さんへと傾きつつあることを否定は出来なくて、私はやはり何も言い出せずにいた。どうして良いかわからず、水戸さんの方に顔を向けられない。
水戸さんは答えを言わない人だ。会話の手綱を引くのは水戸さんであっても、あくまでも私に選択の余地を残している。だから私がここで拒否をしたって良いのだけれど、じゃんけんという勝敗の偶発性により、水戸さんの提案に素直に乗る方が、後を引くことのない結末を選べる気がしてきた。そんなことを考えながら、ベランダから見える幹線道路を走る車の流れを目で追う。規則正しくテールランプが並ぶ。赤い光に誘導されるがまま、水戸さんに言われるがまま、何も考えず私も走り出せたらばどんなに気が楽か。
「苗字さん、じゃあさ、オレ、グー出しますよ。」
答えに窮している内に、追い込まれてしまったみたい。自分の手の内を先にあっけらかんと見せてきたのは水戸さん。だけど私に決めさせようとしているのも水戸さんだ。これじゃあ、私が出す手によって私の水戸さんへの気持ちが丸見えになってしまうじゃない。これじゃあ、何を選んだって、どんな結末になったって、水戸さんのせいに出来ないじゃない。
水戸さんといると言葉巧みに丸め込まれてしまいそうで、胸がざわつく。私は意表を突かれると同時に身構えざるをえない。
「それって、じゃんけんって言わない、、、です。」
「分かんないすよ?グー出さないかもしれないし。オレ、嘘ついてるかもしんない。」
「えええー、、、めんどくさ。」
「めんどくさくしてるのは苗字さんかもしれないっすよ?」
もうこれ以上、困惑させないでほしいと心底思った。そして全身で疎ましさを醸す私を見て水戸さんは余裕の表情で楽しんでいる。その笑った顔は嫌いじゃないから、水戸さんとのくだけたやりとりが心地良くもなってきて、思い切り拒絶はしなかった。私のそういうところもきっと水戸さんに見透かされている。だから私の答えを急かすように、水戸さんは躊躇なく片手を振り上げてきた。
「ほい。いくよ。じゃーんけーん、、、。」
「えっ、ちょ、ちょっと待って!」
ごちゃごちゃと考えるのは苦手。水戸さんはグーを出す。多分。きっと。そう思い込むことが、自分の心の逃げ道を確保できる気がしたのだ。だから私は。
「ぽんっ。」
まるで緊張感のない水戸さんのぬるい掛け声のあとに、私達に沈黙が訪れる。水戸さんはグーを出した。私もグーを出して引き分けにもつれ込む。二人の掲げた拳が意味するのは、今夜はもう終幕である、ということだ。私は少しほっとした顔を見せたのかもしれない。けれども水戸さんは違った。水戸さんの拳が少し上を向いたと思ったら、手のひらを広げてあっと言う間に私の拳を包みこんだ。
「捕まえた。」
「えっ、、、えっ、、、?」
何が起きたのか分からなくて、身じろぎ一つ出来ずに水戸さんだけを見る。水戸さんは私の疑問符だらけの顔に、クスリと笑い、わざと無邪気そうに答えを押し付けた。
「パーでオレの勝ち。」
「ズルい、、、。」
「ズルくないっす。」
やはり水戸さんは勝てそうにないようだ。掴まれた手を振り解く力も意志もすでに私には無かった。
「オレの部屋。来てよ。」
ダメ押しの水戸さんからの誘い文句は、これまでと違って随分と直接的で甘く感じられ、胸が弾ける。この胸のときめきは多分、そう、きっと、水戸さんに向けて期待し始めたからだ。そう観念して私は静かに頷いた。
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