余ることと足りないこと(牧)
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「え、苗字、、、?」
少し驚くように牧君が聞いたから、私は釈明するように言葉を並べた。
「あ、う、うん。あの、時間をね、交代したの。さっき。ご、ごめん。事前に伝えておいた方が良かったかな。15時までだから、えっと宜しく。」
そもそも、当番の時間を交代しただけで別に何らやましいことはないのだけれど。釈明する必要も無いのに、私は早口になった。
「いや。別にいいんだ。打ち合わせすることもないしな。宜しく。」
そう言って牧君は私からさっと視線を逸らし、受付係のいる教室の入口に近寄っていく。そして一つ前の回の当番との交代を告げた。
***
「えっ?14時の回?」
「うん、もしかして苗字ちゃん、誰かと文化祭を回る約束してた?」
「ううん、、、してない、けど。」
朝一番に、文芸部の作品を展示している教室まで訪ねてきたのは、同じクラスのミヤちゃんだ。今日は私の通っている海南大附属高校の文化祭の初日。二日間かけて行われるうちの高校の文化祭は、保護者のみならず他校の生徒からも評判が良いらしく、多くの人が足を運んで来る。文化祭なので、クラスの出し物もあれば、部活動に所属している生徒達は部としての出し物だってある。文芸部に所属する私は、文芸部創部当時から発刊しているらしい、部誌「あけぼの」を段ボールから取り出しながら、展示の最終チェックをしていたところだった。ミヤちゃんの申し訳なさそうな声に、私は何かあったのかと聞き直した。
「うん。今日、私が14時からクラスの当番なんだけどさ、ツカちゃんのバンドの時間と被っちゃったんだぁ。それでさあ、どうしても体育館に聞きに行きたくて。」
ミヤちゃんが言うツカちゃん、とはこれまた同じクラスの塚本君のことだ。塚本君は軽音楽部に所属していて、文化祭では体育館のステージでバンド演奏をするという。私は小さく畳んでいた文化祭のスケジュールのしおりを、制服の胸ポケットから取り出した。塚本君のバンドはコピーバンドで、私の好きなアーティストの曲を演奏する予定だ。音楽室と文芸部の部室は建物が向かい合わせなので、私はこのところよく文芸部の窓から塚本君の軽音楽部の練習の様子を目にしていた。だから今年の文化祭で披露する曲目も把握済みで密かに楽しみにしていたのだ。
「でもさ、塚本君のバンドって明日じゃないの?」
私は文化祭のしおりを確認する。そして体育館の演目スケジュールを指差してミヤちゃんに見せた。ミヤちゃんはそれを確認するも、私に早く教えたくてたまらないといったようなニヤニヤ顔になった。
「ふふふ。それがね〜、なんと今日のバンドのゲストで、ツカちゃんがラスト一曲だけ歌うんだって。」
「えっ、歌!?歌うって、、、でも塚本君、ギター、、、だよね?」
「そう。ギター。でもそれは明日のツカちゃんのいつものバンド。」
ストラップを長めにしたエレキギターを手にして、ボーカルの右後ろに立ち、黙々と演奏する塚本君が浮かんだ。軽音楽部によくいる浮ついて気取った部員(悪い人達じゃないけれど)の中では、決して前に出てきたがるような人じゃないと思っていた。
「秘密だよ。こっそり教えるけどね?ツカちゃん、最近家でアコギ弾いてたから、なんでって問い詰めたんだけど、なかなか白状してくれなくて。で、ほんとさっき。さっき、今日歌うからって言われたの。」
ミヤちゃんは、両手を胸の前に持ってきて、指を交差しながら言った。
「、、、だから、見に行きたいんだぁ。」
そう言ったミヤちゃんは、もう片想いの女の子の顔をしていない。照れた表情は彼女としてのものだ。そして申し訳なさそうに、でも無遠慮に私に頼んだ。
***
「、、、苗字は文芸部の部長やってるんだよな?」
グラウンド側の窓には暗幕を、廊下側の窓には段ボールを乱暴に貼り付けた教室は、昼間だというのに夜の現場を無理に作ってあった。段ボールと机や椅子で壁と道を作り、床には布や綿が敷き詰めてある。私達のクラスの出し物は、定番のお化け屋敷。そして定番には定番の小道具も用意している。釣り竿にこんにゃくをセットしながら、牧君は小声で尋ねてきた。
「うん。」
「どこの教室でやってるんだ?」
「2年4組の教室。部員が少ないから、漫研と一緒に展示してるの。毎年。」
私は牧君の隣に置いてある水の入ったバケツを動かした。こんにゃくが乾くためお客さんが教室へ入る度に、このバケツにこんにゃくを突っ込んで濡らす。そしてお客さんが我々が隠れた場所を通る度に、釣り竿に下げたこんにゃくを振って脅かすのである。そんな単純な、まあまあ下らない役割を一時間こなす。つまり私と牧君は、お化け屋敷のこんにゃくを振り回す当番だった。教室のあちこちには、同じクラスの幽霊役の子や、シャボン玉を吹き付ける役割の子達がいる。だけど私達から姿は見えなかった。みんなそれぞれに段ボールと机で作った小屋みたいな衝立の陰に隠れているのだろう。私と牧君もお客さんを待つ間、小さく会話をして過ごす。
「よく知らないんだが、文芸部は普段何をしているんだ?」
牧君は教室の壁と段ボールの衝立の間の狭い空間に、なんとか隙間を見つけて座り込んで聞いた。牧君はバスケットボール部。体も大きいし、ずっと運動ばかりしてきた部類の人だろう。毎日毎日汗を流してボールを追っかけたりしている人なのだから、きっと文化系の部活動の様子なんて知ることもないだろうし、興味も大して無いんじゃないかな。文化系の部活は派手さも無ければ、活躍の場もさして無い。部員も大人しめの子が多く、どちらかといえば学校生活では息を潜めて生きているタイプなのだ。だから運動部と文化部の生徒を比較したとき、文化系の部員は快活さに欠けがち。ぶっちゃけ陰気に見えるのだ。あ、軽音楽部とか吹奏楽部は、またちょっと我々とは一線を画すのだけれど、それは細かい話になるから割愛したい。文化系の部活動は運動部には理解され難いのが常なので、そういった関心から半分冷やかしで聞いてくる友達も多いのには慣れている。しかしながら牧君の聞き方は純粋に話題の一部としての質問であることは、穏やかな口調から感じ取れた。
「特に何も。漫研と兼部してる子もいるし、好きな本を読んだり、部室で宿題したりとか。」
「大会とか、賞とかさ、目指して何かやるってことはないのか?部活で。」
牧君はバスケ部でキャプテンだ。先生達も牧君には一目置いている。全校朝礼がある度に、みんなの前で大会結果の報告をしたりしているし、うちの高校のバスケ部は全国的にも有名らしい。そんな部のキャプテンを任されているのだから、きっと賞を獲るとか、一位になるとか、将来どうなりたいとか、そういった類の目標を常に見据えた学生生活を送っているのだろうと思う。牧君の質問には悪気は全くないのだと思うけれど、そこまで物事について深く考えて生きているわけではない私は、こう言った。
「無いよ。そりゃ先輩とかには小説書いたり、応募してた人もいたけど、ただ本を読むのが好きな子もいるし、創作が好きな子もいるけど、国語の成績が良い訳でもないし。みんながみんな、何か目的があって部活してるわけじゃないもの。色んな子がいるよ。」
牧君はバスケ部の、私は文芸部の。それぞれ部の代表という同じ立場ではあったが、牧君と私はきっと背負っているものも違う。一緒にしないで欲しい。それは牧君が言うべき台詞であろうけれど、私だって自分を卑下したくはないちっぽけなプライドが顔を覗かせ、ちょっとだけ牧君につっかかるような答え方をしてしまった。きっと私、頑張っている人とか、自分が思い描いた通りの道を歩ける人が眩しいだけなんだ。思い当たる節があるだけに、八つ当たりをしたかもしれない。牧君に。そんな私の心の動きを気にすることもなく、牧君は続けた。
「でも文章書くのに抵抗とかないだろ、苗字は。羨ましいな。」
「、、、羨ましい?」
「ああ。うちの部、毎日練習ノートっていうの書かされるんだよ。感想とかな、今日やったこととか、明日の目標とかな。」
「へぇ。マメだね、バスケ部って。」
「でも毎日書いてるから、だんだん書くことなくなるんだよ。オレ、苦手でな。よく三年間もやってるよ。」
だんだんと愚痴っぽくなる牧君に私は驚いた。暗いのでその表情はよく見ていないが、つまらなそうにする牧君を私は知らない。なんでも卒なくこなせる優等生タイプの人かと思っていたから、意外だった。
「今度見せてよ、そのノート。」
「、、、まさか添削したりないよな。」
「あはは、しないよ。あと私、文章書かないし。」
程良く会話が途切れたところで、教室の入口から声がかかる。受付担当の子が大きな声を出したのは、教室内に待機している我々に伝えるための合図でもある。
「はーい!2名様ご案内でーす!いってらっしゃーい!」
おどろおどろしい、いかにもなお化け屋敷の音楽が鳴る。スマホとBluetoothのスピーカーを何個か繋げて教室の四隅に置いてあるせいか、音というより折り重なった振動はやたら体に響き、立体感があった。怖い、というよりも、これから怖いことが起こるのだ、ということを予期させるわざとらしい演出に一役買っている。予め確認していた通り、私はこんにゃくの吊り紐を手に取って、バケツに突っ込む。そして牧君が釣り竿を操って、濡れたこんにゃくがお客の前を横切る。この暗闇の中ではこんにゃくは正体不明の何かでしかないから、気持ち悪いことこの上ないだろう。お客さんの反応も脅かす側の私達としては上々で、裏方の我々の下らなさは際立つけれど少しだけ可笑しくもあった。
それにしても誰が考えたんだろ、こんな細かい演出なんて。教室の窓は、光が多少漏れるくらいには雑に段ボールで押さえ付けられていて、小道具担当と大道具担当の子達の性格の差が歴然である。性格と言えば、私の隣にいる牧君は真面目そうで紳士的に見えたが、先程の練習ノートのくだりなどを聞けば、結構面倒くさがり屋な所もあることを知る。サボることにエネルギーを使うタイプではないけれど、程良く手を抜こうとする気楽さがあった。
「はー、少し休憩。苗字、釣り竿の方やるか?」
そう言って牧君は、こんにゃくを垂らしたままの釣り竿のリールを操ってコンパクトに納め、壁に立て掛けて言った。
「えー、いいよ私は。それより牧君、そこ狭くない?こっち余裕あるから、もっと寄って良いよ。」
釣り竿を壁に立て掛けたものだから、牧君はそのスペースを作った分、少し窮屈そうに膝を立てて座っている。私が声をかけると、牧君は妙な沈黙を作って固まった。
「牧君?」
「あ、いや。そっちこそ狭くないか?」
「大丈夫だよ。ほら。」
私は半歩横にズレて、スペースを作るが、教室の壁と机に挟まれたこの隠れた空間は、牧君の腕と私の腕が触れるか触れないかといった数センチの隙間だけしか作れない。だけども文芸部の部室の狭さに比べたら、座る場所があるだけマシだと思う。私はスカートを腿裏に巻き込み、両膝を抱えて座り直した。
「さっき。」
「え?何?」
少しの沈黙の間に、制服の衣擦れの音が挟まれたから、私は聞き直した。牧君も体を動かして座り直した。
「文章書かないって言ってたよな?だったら文化祭で何をするんだよ、文芸部って。」
ちょっとだけ首を傾げたように不思議がる牧君に、私は言った。
「部誌は出すのよ、毎年。卒業した先輩の寄稿とかもあるし、それっぽくして。だけど別に小説みたいな文章じゃなくて良いの。詩を載せてる子もいるよ。好きな本の紹介でもいいし。ざっくり言うと文字で発表出来るものなら、オッケーってことにしてる。」
文芸部の部誌「あけぼの」は創刊から30号を越えている。創刊時はざら紙をホチキス留めで作られていた手作りの冊子で、それはそれでなかなか時代を感じさせて、味のあるものであったが、現在は部費も出るので、印刷所に依頼して年に一度、この文化祭の日に作品集として展示の場を設ける。文芸部としては唯一の活動報告の場でもあった。
「ちゃんとね、製本するの。本みたいにしてね、今日と明日、無料配布してるんだ。牧君も良ければ差し上げるよ。」
部長としてせめて、部の宣伝くらいはしておこうと心が働いたが、瞬間的に、牧君は興味ないとは思うけど、と余計な一言も言いそうになって、口をつぐんだ。私の口調にツンとしたそれがどうやら伝わってしまったらしい。牧君は私に体を向けて言う。
「くれるなら読むよ。苗字も何か書いてるんだろ?」
「え。そこ、興味、、、ある?」
牧君が文芸部としてではなく私の発表作品に関心を示したものだから、少し引き攣ったリアクションをしてしまった。自分から部誌のことを宣伝しておきながら、こんな態度になってしまった私に牧君が苦笑した。
「苗字が何やってんのかな、ってのは多少興味が出てきたかな。」
牧君は物腰が柔らかい。クラスでも面白いことをして騒ぐような人ではないし、塚本君みたいに女子とも仲良く喋る人でもない。かと言って、教室の隅っこで本を読んだりするような寡黙な人でもない。要するに私は牧君のことは、同じクラスメイトというだけで、中身がどんな人なのか、ほぼ知らないということに気付く。でも喋りやすい。牧君とは、昔から喋っていた友達みたいに、淀むことのない会話が出来たからウマが合うのかもしれない。それは牧君が私の話の一つ、一つをそっと拾い上げては、私が受け取り易い場所に投げ返してくれているからだとも気付き、今更ながら感心してしまった。あらゆることに興味関心を持つ、ということも会話においては重要なのかもしれない。ちょっとだけ牧君から学ばせてもらった気になったので、少しだけ胸襟を開いてもいいだろうか。
「う、歌をね、、、少し。」
「歌?今、文芸部の話、、、してるよな?」
「や、違う、違う。声出して歌う方じゃなくて。短歌。知ってる?五、七、五、七、七。古文でもちょっとやったでしょ。」
「ああ。いとをかし、とかいうアレか?」
我々の会話に、趣なんてものはどこにもない。明らかに牧君のイメージするものと、私の言ってることは分野が異なっていると分かったけれど、細かいことを伝えるのも面倒になり、まあ、そういう感じ、と大雑把に肯定して相槌を打った。
「せっかくだから、何かないのか?苗字の短歌。」
「えええ。それはうちの部誌に載ってるから、ホントに興味出てきたなら勝手に読んでよ、、、。」
牧君の興味がどこにあるのかさっぱり分からない。ただの暇潰しの会話だとしても、誰かにこんな話題を振られたのは初めてだった。
「今日は文化祭だろ?出し惜しみするなよ。」
何が文化祭だ。どうやら牧君はふざけたりも出来る人らしい。出し惜しみなんていう表現に、私がもったいぶった、ケチくさい人間であるように仕立て上げて面白がろうとする心ばえが見え隠れする。牧君の言葉の選び方は好きだと思った。穏やかで女子には遠慮がちかと思いきや、ズバリとその人の中に切り込んでくる鋭さがある。が、穏やかな声は落ち着いていて、温かな調子をまとっているからだろう。あっさりしていてしつこさは感じさせないのだ。ゆえに話しやすいのだろうか。自分の創作物を人前で披露することは少しだけ緊張したけれど、牧君だったらいいか、と思わせてくれるくらいには。
「覚えている中でパッと言えるやつだけね?」
と、断りを入れてから、牧君が頷きを返したのを確認して、私は一息で言い切った。
「親指の塩粒を舐めとりながら覗き込む 銀色の空洞」
早口になったのはまだ恥ずかしさが拭えないからだ。声を発してしまえば、もう相手の反応を待つのみなのだが、牧君からはすぐに反応が返ってはこない。歌をそらんじてはみたものの、口にするだけだと反芻する力が弱く、伝わりづらい。それも言葉の面白さであるということを分かっていた私は胸ポケットに入れたままにしていた文化祭のしおりを取り出す。そしてしおりの端っこに、今詠んだ音を文字にして書き起こし、牧君に渡して補った。牧君は雑に貼られた段ボールの窓からこぼれ落ちる光の場所を探し、私の三十一の音を照らして眺めてくれた。
「え?短歌ってこういうやつ?なんかこう、もっと難しい感じかと思ってた。」
「牧君が想像してたのは、和歌だよ、和歌。こういう現代短歌もあるの。五七五七七の、全部で三十一文字になってるでしょ。」
私の話を聞いて、牧君は何度か明後日の方向を見て指を折る。心の中で声に出して数えたみたい。歌の形式に気付いて、目を見開くようにして言ってくれた。
「本当だ。すごいな、これ。」
私の渡した紙を見返すと、さらに牧君は聞いた。
「で、意味は?」
「えー、説明しなきゃいけない?恥ずかしいんだけど。」
「ここまで言っておいて、逃げるのは無しだろ。気になるだろ。」
一時間という時間制限付きではあったが、確かに今は二人きり。逃げ場はない気がした。こういう機会でもない限り、牧君と喋ることもない。これっきりだと思えば、思い切ることに何ら抵抗は無い気がしてきて、私は喋り出す。
「袋のポテトチップスを食べ切るじゃん?夢中で食べていたからあとどれくらい残ってる、なんて確認してないのよ。ふとスカスカなのに気付いて中を覗くの。すると袋の中身は銀色が見えて、それで空っぽだと気付くの。もっと食べたいのに〜、なんて親指を舐めながらね?ポテトチップスの塩気で我慢しようとする自分の心がすでにもうしょっぱい。うん。そこに名残惜しいなあ、という気持ちを乗せたわけ。、、、あ、指を舐めるのは行儀悪いよ?悪いけどさ、でもあるじゃん、そういうの。っていうか、あったのよ。そしてそんな気持ちも確かにあったから作ったのよ、私は。」
言い訳めいたものを綺麗に並べようとしたが、そんな背伸びに気持ちがついていかなくなってバラバラになった。言いながら、もう最後の方は何だか投げやりになって、体操座りに頬杖をついた私は、牧君を見れずに一気に喋ってしまった。チラッと横目で確認したら、牧君は、もう一度私の文字をまじまじと見つめて、そして肩を震わせた。
「はははは、、、っ!」
「牧君が説明しろって言ったんだからね。こういうのは普通、説明したら白けちゃうもんなの。言ったら絶対変な空気になるって分かってた!もぉ〜。」
自分の気持ちの全てを説明できないから、三十一音というルールの中で、言葉を詰め込むのだ。大きく動く感情よりも、小さく、でも確実にある日常を、そしてそれに伴う心の毛羽立つ様子を切り取る面白さが短歌にはあると思っている。でもそのことを説明するタイミングを作らせてくれないくらい、牧君は笑い続けていた。
「めちゃくちゃ面白いな。そんなに気軽に思ったことを言葉にしていいもんなのか。もっと高尚なもんだと思ってたから。、、、驚いたな。」
牧君はまだ声を押し殺したように笑いながら、感想をくれた。牧君の感想の方がよっぽどシンプルで正直だと思うけど、まだ笑い続けているもんだからそれも言い出せないまま、私は牧君の呼吸が整うのを待った。
「はは。笑えた。なかなか斬新だった。ほかにもあるんだろ?苗字の短歌、聞きたい。」
自分の好きなことについて知ってもらいたい、せっかくなら分かってもらいたいという気持ちは、きっと誰にだって少なからずあると思う。聞きたい、と真っ直ぐに言われてしまうと、少しだけむず痒い感情が沸き立って、牧君に渡した紙切れを返してもらい、私は無言でペンを走らせた。さっきの一首とは反対側のスペースに書き起こして牧君に渡すと、牧君はそれに静かに目を落とす。
"マーメイドではないことの証 一日の終わりに発音する あ"
「マーメイドって?人魚のことか?」
渡した紙から顔を上げて牧君が聞いた。やっぱりこの一首についても、説明を求められたから、私はぶつぶつと唱えるように言葉を返した。
「牧君も人魚姫の童話知ってるよね?主人公の人魚が、人間の姿になるために、自分の声と引き換えにして王子様に会いに行く話。でも私、人魚じゃないもの。あのね、夏休みのことなんだけどさ、丸一日誰とも喋ってないことに、夜寝る前に気付いたの。あれ?私、ちゃんと声出せるかな、って急に不安になってね、布団の中で「あ」って言ってみたの。一人で、だよ?間抜けでしょう?だけど、そんな間抜けな自分にほっとするじゃない。ああ、良かった〜!私、喋れた〜!みたいな。と安堵した一方で、でも、どうして「あ」だったんだろう。声を出せって言われたら、牧君、何て言う?「あ」って言っちゃわない?「い」でも「う」でもないのよ。何故か「あ」なの。そういう間抜けさと不思議な感覚を言いたかったの。」
「はははは。それで人魚が出てくるのか。苗字って、すごい感覚持ってるな。」
「どこが。説明しないと分かってもらえないってことは、下手なのよ。」
センスがないことは、私が一番分かってる。ふてくされるほどのやるせなさは作歌の度に味わっているのだけど、時間も心も砕くようにして生み出したものには愛着も生まれるのだ。開き直るってこういうことだろうか。牧君に何と言われようが、気にはしないことにする。もとより牧君は私のことなんて気にしてないだろうけども。
「いやいや、そんなことはないだろう。オレが分かってないだけだよ。意味が分かれば、ストンと腑に落ちる感じは、確かにある。こういう話をするの面白い。なにより苗字の考えていることが分かるし。」
「そ、そう?」
「ああ。苗字ってちょっと変わってるって言われないか?」
牧君がくっくっく、と頭を下げて体を揺らした。そんなに可笑しいかな、と聞くと、私の早口と口数の多さに圧倒された、と言っては思い出して笑っていた。牧君こそ、私の話をここまで聞くなんて相当変わってるよ、と言ってやりたかったが、ますます笑われそうだったので、思い止まった。
少し驚くように牧君が聞いたから、私は釈明するように言葉を並べた。
「あ、う、うん。あの、時間をね、交代したの。さっき。ご、ごめん。事前に伝えておいた方が良かったかな。15時までだから、えっと宜しく。」
そもそも、当番の時間を交代しただけで別に何らやましいことはないのだけれど。釈明する必要も無いのに、私は早口になった。
「いや。別にいいんだ。打ち合わせすることもないしな。宜しく。」
そう言って牧君は私からさっと視線を逸らし、受付係のいる教室の入口に近寄っていく。そして一つ前の回の当番との交代を告げた。
***
「えっ?14時の回?」
「うん、もしかして苗字ちゃん、誰かと文化祭を回る約束してた?」
「ううん、、、してない、けど。」
朝一番に、文芸部の作品を展示している教室まで訪ねてきたのは、同じクラスのミヤちゃんだ。今日は私の通っている海南大附属高校の文化祭の初日。二日間かけて行われるうちの高校の文化祭は、保護者のみならず他校の生徒からも評判が良いらしく、多くの人が足を運んで来る。文化祭なので、クラスの出し物もあれば、部活動に所属している生徒達は部としての出し物だってある。文芸部に所属する私は、文芸部創部当時から発刊しているらしい、部誌「あけぼの」を段ボールから取り出しながら、展示の最終チェックをしていたところだった。ミヤちゃんの申し訳なさそうな声に、私は何かあったのかと聞き直した。
「うん。今日、私が14時からクラスの当番なんだけどさ、ツカちゃんのバンドの時間と被っちゃったんだぁ。それでさあ、どうしても体育館に聞きに行きたくて。」
ミヤちゃんが言うツカちゃん、とはこれまた同じクラスの塚本君のことだ。塚本君は軽音楽部に所属していて、文化祭では体育館のステージでバンド演奏をするという。私は小さく畳んでいた文化祭のスケジュールのしおりを、制服の胸ポケットから取り出した。塚本君のバンドはコピーバンドで、私の好きなアーティストの曲を演奏する予定だ。音楽室と文芸部の部室は建物が向かい合わせなので、私はこのところよく文芸部の窓から塚本君の軽音楽部の練習の様子を目にしていた。だから今年の文化祭で披露する曲目も把握済みで密かに楽しみにしていたのだ。
「でもさ、塚本君のバンドって明日じゃないの?」
私は文化祭のしおりを確認する。そして体育館の演目スケジュールを指差してミヤちゃんに見せた。ミヤちゃんはそれを確認するも、私に早く教えたくてたまらないといったようなニヤニヤ顔になった。
「ふふふ。それがね〜、なんと今日のバンドのゲストで、ツカちゃんがラスト一曲だけ歌うんだって。」
「えっ、歌!?歌うって、、、でも塚本君、ギター、、、だよね?」
「そう。ギター。でもそれは明日のツカちゃんのいつものバンド。」
ストラップを長めにしたエレキギターを手にして、ボーカルの右後ろに立ち、黙々と演奏する塚本君が浮かんだ。軽音楽部によくいる浮ついて気取った部員(悪い人達じゃないけれど)の中では、決して前に出てきたがるような人じゃないと思っていた。
「秘密だよ。こっそり教えるけどね?ツカちゃん、最近家でアコギ弾いてたから、なんでって問い詰めたんだけど、なかなか白状してくれなくて。で、ほんとさっき。さっき、今日歌うからって言われたの。」
ミヤちゃんは、両手を胸の前に持ってきて、指を交差しながら言った。
「、、、だから、見に行きたいんだぁ。」
そう言ったミヤちゃんは、もう片想いの女の子の顔をしていない。照れた表情は彼女としてのものだ。そして申し訳なさそうに、でも無遠慮に私に頼んだ。
***
「、、、苗字は文芸部の部長やってるんだよな?」
グラウンド側の窓には暗幕を、廊下側の窓には段ボールを乱暴に貼り付けた教室は、昼間だというのに夜の現場を無理に作ってあった。段ボールと机や椅子で壁と道を作り、床には布や綿が敷き詰めてある。私達のクラスの出し物は、定番のお化け屋敷。そして定番には定番の小道具も用意している。釣り竿にこんにゃくをセットしながら、牧君は小声で尋ねてきた。
「うん。」
「どこの教室でやってるんだ?」
「2年4組の教室。部員が少ないから、漫研と一緒に展示してるの。毎年。」
私は牧君の隣に置いてある水の入ったバケツを動かした。こんにゃくが乾くためお客さんが教室へ入る度に、このバケツにこんにゃくを突っ込んで濡らす。そしてお客さんが我々が隠れた場所を通る度に、釣り竿に下げたこんにゃくを振って脅かすのである。そんな単純な、まあまあ下らない役割を一時間こなす。つまり私と牧君は、お化け屋敷のこんにゃくを振り回す当番だった。教室のあちこちには、同じクラスの幽霊役の子や、シャボン玉を吹き付ける役割の子達がいる。だけど私達から姿は見えなかった。みんなそれぞれに段ボールと机で作った小屋みたいな衝立の陰に隠れているのだろう。私と牧君もお客さんを待つ間、小さく会話をして過ごす。
「よく知らないんだが、文芸部は普段何をしているんだ?」
牧君は教室の壁と段ボールの衝立の間の狭い空間に、なんとか隙間を見つけて座り込んで聞いた。牧君はバスケットボール部。体も大きいし、ずっと運動ばかりしてきた部類の人だろう。毎日毎日汗を流してボールを追っかけたりしている人なのだから、きっと文化系の部活動の様子なんて知ることもないだろうし、興味も大して無いんじゃないかな。文化系の部活は派手さも無ければ、活躍の場もさして無い。部員も大人しめの子が多く、どちらかといえば学校生活では息を潜めて生きているタイプなのだ。だから運動部と文化部の生徒を比較したとき、文化系の部員は快活さに欠けがち。ぶっちゃけ陰気に見えるのだ。あ、軽音楽部とか吹奏楽部は、またちょっと我々とは一線を画すのだけれど、それは細かい話になるから割愛したい。文化系の部活動は運動部には理解され難いのが常なので、そういった関心から半分冷やかしで聞いてくる友達も多いのには慣れている。しかしながら牧君の聞き方は純粋に話題の一部としての質問であることは、穏やかな口調から感じ取れた。
「特に何も。漫研と兼部してる子もいるし、好きな本を読んだり、部室で宿題したりとか。」
「大会とか、賞とかさ、目指して何かやるってことはないのか?部活で。」
牧君はバスケ部でキャプテンだ。先生達も牧君には一目置いている。全校朝礼がある度に、みんなの前で大会結果の報告をしたりしているし、うちの高校のバスケ部は全国的にも有名らしい。そんな部のキャプテンを任されているのだから、きっと賞を獲るとか、一位になるとか、将来どうなりたいとか、そういった類の目標を常に見据えた学生生活を送っているのだろうと思う。牧君の質問には悪気は全くないのだと思うけれど、そこまで物事について深く考えて生きているわけではない私は、こう言った。
「無いよ。そりゃ先輩とかには小説書いたり、応募してた人もいたけど、ただ本を読むのが好きな子もいるし、創作が好きな子もいるけど、国語の成績が良い訳でもないし。みんながみんな、何か目的があって部活してるわけじゃないもの。色んな子がいるよ。」
牧君はバスケ部の、私は文芸部の。それぞれ部の代表という同じ立場ではあったが、牧君と私はきっと背負っているものも違う。一緒にしないで欲しい。それは牧君が言うべき台詞であろうけれど、私だって自分を卑下したくはないちっぽけなプライドが顔を覗かせ、ちょっとだけ牧君につっかかるような答え方をしてしまった。きっと私、頑張っている人とか、自分が思い描いた通りの道を歩ける人が眩しいだけなんだ。思い当たる節があるだけに、八つ当たりをしたかもしれない。牧君に。そんな私の心の動きを気にすることもなく、牧君は続けた。
「でも文章書くのに抵抗とかないだろ、苗字は。羨ましいな。」
「、、、羨ましい?」
「ああ。うちの部、毎日練習ノートっていうの書かされるんだよ。感想とかな、今日やったこととか、明日の目標とかな。」
「へぇ。マメだね、バスケ部って。」
「でも毎日書いてるから、だんだん書くことなくなるんだよ。オレ、苦手でな。よく三年間もやってるよ。」
だんだんと愚痴っぽくなる牧君に私は驚いた。暗いのでその表情はよく見ていないが、つまらなそうにする牧君を私は知らない。なんでも卒なくこなせる優等生タイプの人かと思っていたから、意外だった。
「今度見せてよ、そのノート。」
「、、、まさか添削したりないよな。」
「あはは、しないよ。あと私、文章書かないし。」
程良く会話が途切れたところで、教室の入口から声がかかる。受付担当の子が大きな声を出したのは、教室内に待機している我々に伝えるための合図でもある。
「はーい!2名様ご案内でーす!いってらっしゃーい!」
おどろおどろしい、いかにもなお化け屋敷の音楽が鳴る。スマホとBluetoothのスピーカーを何個か繋げて教室の四隅に置いてあるせいか、音というより折り重なった振動はやたら体に響き、立体感があった。怖い、というよりも、これから怖いことが起こるのだ、ということを予期させるわざとらしい演出に一役買っている。予め確認していた通り、私はこんにゃくの吊り紐を手に取って、バケツに突っ込む。そして牧君が釣り竿を操って、濡れたこんにゃくがお客の前を横切る。この暗闇の中ではこんにゃくは正体不明の何かでしかないから、気持ち悪いことこの上ないだろう。お客さんの反応も脅かす側の私達としては上々で、裏方の我々の下らなさは際立つけれど少しだけ可笑しくもあった。
それにしても誰が考えたんだろ、こんな細かい演出なんて。教室の窓は、光が多少漏れるくらいには雑に段ボールで押さえ付けられていて、小道具担当と大道具担当の子達の性格の差が歴然である。性格と言えば、私の隣にいる牧君は真面目そうで紳士的に見えたが、先程の練習ノートのくだりなどを聞けば、結構面倒くさがり屋な所もあることを知る。サボることにエネルギーを使うタイプではないけれど、程良く手を抜こうとする気楽さがあった。
「はー、少し休憩。苗字、釣り竿の方やるか?」
そう言って牧君は、こんにゃくを垂らしたままの釣り竿のリールを操ってコンパクトに納め、壁に立て掛けて言った。
「えー、いいよ私は。それより牧君、そこ狭くない?こっち余裕あるから、もっと寄って良いよ。」
釣り竿を壁に立て掛けたものだから、牧君はそのスペースを作った分、少し窮屈そうに膝を立てて座っている。私が声をかけると、牧君は妙な沈黙を作って固まった。
「牧君?」
「あ、いや。そっちこそ狭くないか?」
「大丈夫だよ。ほら。」
私は半歩横にズレて、スペースを作るが、教室の壁と机に挟まれたこの隠れた空間は、牧君の腕と私の腕が触れるか触れないかといった数センチの隙間だけしか作れない。だけども文芸部の部室の狭さに比べたら、座る場所があるだけマシだと思う。私はスカートを腿裏に巻き込み、両膝を抱えて座り直した。
「さっき。」
「え?何?」
少しの沈黙の間に、制服の衣擦れの音が挟まれたから、私は聞き直した。牧君も体を動かして座り直した。
「文章書かないって言ってたよな?だったら文化祭で何をするんだよ、文芸部って。」
ちょっとだけ首を傾げたように不思議がる牧君に、私は言った。
「部誌は出すのよ、毎年。卒業した先輩の寄稿とかもあるし、それっぽくして。だけど別に小説みたいな文章じゃなくて良いの。詩を載せてる子もいるよ。好きな本の紹介でもいいし。ざっくり言うと文字で発表出来るものなら、オッケーってことにしてる。」
文芸部の部誌「あけぼの」は創刊から30号を越えている。創刊時はざら紙をホチキス留めで作られていた手作りの冊子で、それはそれでなかなか時代を感じさせて、味のあるものであったが、現在は部費も出るので、印刷所に依頼して年に一度、この文化祭の日に作品集として展示の場を設ける。文芸部としては唯一の活動報告の場でもあった。
「ちゃんとね、製本するの。本みたいにしてね、今日と明日、無料配布してるんだ。牧君も良ければ差し上げるよ。」
部長としてせめて、部の宣伝くらいはしておこうと心が働いたが、瞬間的に、牧君は興味ないとは思うけど、と余計な一言も言いそうになって、口をつぐんだ。私の口調にツンとしたそれがどうやら伝わってしまったらしい。牧君は私に体を向けて言う。
「くれるなら読むよ。苗字も何か書いてるんだろ?」
「え。そこ、興味、、、ある?」
牧君が文芸部としてではなく私の発表作品に関心を示したものだから、少し引き攣ったリアクションをしてしまった。自分から部誌のことを宣伝しておきながら、こんな態度になってしまった私に牧君が苦笑した。
「苗字が何やってんのかな、ってのは多少興味が出てきたかな。」
牧君は物腰が柔らかい。クラスでも面白いことをして騒ぐような人ではないし、塚本君みたいに女子とも仲良く喋る人でもない。かと言って、教室の隅っこで本を読んだりするような寡黙な人でもない。要するに私は牧君のことは、同じクラスメイトというだけで、中身がどんな人なのか、ほぼ知らないということに気付く。でも喋りやすい。牧君とは、昔から喋っていた友達みたいに、淀むことのない会話が出来たからウマが合うのかもしれない。それは牧君が私の話の一つ、一つをそっと拾い上げては、私が受け取り易い場所に投げ返してくれているからだとも気付き、今更ながら感心してしまった。あらゆることに興味関心を持つ、ということも会話においては重要なのかもしれない。ちょっとだけ牧君から学ばせてもらった気になったので、少しだけ胸襟を開いてもいいだろうか。
「う、歌をね、、、少し。」
「歌?今、文芸部の話、、、してるよな?」
「や、違う、違う。声出して歌う方じゃなくて。短歌。知ってる?五、七、五、七、七。古文でもちょっとやったでしょ。」
「ああ。いとをかし、とかいうアレか?」
我々の会話に、趣なんてものはどこにもない。明らかに牧君のイメージするものと、私の言ってることは分野が異なっていると分かったけれど、細かいことを伝えるのも面倒になり、まあ、そういう感じ、と大雑把に肯定して相槌を打った。
「せっかくだから、何かないのか?苗字の短歌。」
「えええ。それはうちの部誌に載ってるから、ホントに興味出てきたなら勝手に読んでよ、、、。」
牧君の興味がどこにあるのかさっぱり分からない。ただの暇潰しの会話だとしても、誰かにこんな話題を振られたのは初めてだった。
「今日は文化祭だろ?出し惜しみするなよ。」
何が文化祭だ。どうやら牧君はふざけたりも出来る人らしい。出し惜しみなんていう表現に、私がもったいぶった、ケチくさい人間であるように仕立て上げて面白がろうとする心ばえが見え隠れする。牧君の言葉の選び方は好きだと思った。穏やかで女子には遠慮がちかと思いきや、ズバリとその人の中に切り込んでくる鋭さがある。が、穏やかな声は落ち着いていて、温かな調子をまとっているからだろう。あっさりしていてしつこさは感じさせないのだ。ゆえに話しやすいのだろうか。自分の創作物を人前で披露することは少しだけ緊張したけれど、牧君だったらいいか、と思わせてくれるくらいには。
「覚えている中でパッと言えるやつだけね?」
と、断りを入れてから、牧君が頷きを返したのを確認して、私は一息で言い切った。
「親指の塩粒を舐めとりながら覗き込む 銀色の空洞」
早口になったのはまだ恥ずかしさが拭えないからだ。声を発してしまえば、もう相手の反応を待つのみなのだが、牧君からはすぐに反応が返ってはこない。歌をそらんじてはみたものの、口にするだけだと反芻する力が弱く、伝わりづらい。それも言葉の面白さであるということを分かっていた私は胸ポケットに入れたままにしていた文化祭のしおりを取り出す。そしてしおりの端っこに、今詠んだ音を文字にして書き起こし、牧君に渡して補った。牧君は雑に貼られた段ボールの窓からこぼれ落ちる光の場所を探し、私の三十一の音を照らして眺めてくれた。
「え?短歌ってこういうやつ?なんかこう、もっと難しい感じかと思ってた。」
「牧君が想像してたのは、和歌だよ、和歌。こういう現代短歌もあるの。五七五七七の、全部で三十一文字になってるでしょ。」
私の話を聞いて、牧君は何度か明後日の方向を見て指を折る。心の中で声に出して数えたみたい。歌の形式に気付いて、目を見開くようにして言ってくれた。
「本当だ。すごいな、これ。」
私の渡した紙を見返すと、さらに牧君は聞いた。
「で、意味は?」
「えー、説明しなきゃいけない?恥ずかしいんだけど。」
「ここまで言っておいて、逃げるのは無しだろ。気になるだろ。」
一時間という時間制限付きではあったが、確かに今は二人きり。逃げ場はない気がした。こういう機会でもない限り、牧君と喋ることもない。これっきりだと思えば、思い切ることに何ら抵抗は無い気がしてきて、私は喋り出す。
「袋のポテトチップスを食べ切るじゃん?夢中で食べていたからあとどれくらい残ってる、なんて確認してないのよ。ふとスカスカなのに気付いて中を覗くの。すると袋の中身は銀色が見えて、それで空っぽだと気付くの。もっと食べたいのに〜、なんて親指を舐めながらね?ポテトチップスの塩気で我慢しようとする自分の心がすでにもうしょっぱい。うん。そこに名残惜しいなあ、という気持ちを乗せたわけ。、、、あ、指を舐めるのは行儀悪いよ?悪いけどさ、でもあるじゃん、そういうの。っていうか、あったのよ。そしてそんな気持ちも確かにあったから作ったのよ、私は。」
言い訳めいたものを綺麗に並べようとしたが、そんな背伸びに気持ちがついていかなくなってバラバラになった。言いながら、もう最後の方は何だか投げやりになって、体操座りに頬杖をついた私は、牧君を見れずに一気に喋ってしまった。チラッと横目で確認したら、牧君は、もう一度私の文字をまじまじと見つめて、そして肩を震わせた。
「はははは、、、っ!」
「牧君が説明しろって言ったんだからね。こういうのは普通、説明したら白けちゃうもんなの。言ったら絶対変な空気になるって分かってた!もぉ〜。」
自分の気持ちの全てを説明できないから、三十一音というルールの中で、言葉を詰め込むのだ。大きく動く感情よりも、小さく、でも確実にある日常を、そしてそれに伴う心の毛羽立つ様子を切り取る面白さが短歌にはあると思っている。でもそのことを説明するタイミングを作らせてくれないくらい、牧君は笑い続けていた。
「めちゃくちゃ面白いな。そんなに気軽に思ったことを言葉にしていいもんなのか。もっと高尚なもんだと思ってたから。、、、驚いたな。」
牧君はまだ声を押し殺したように笑いながら、感想をくれた。牧君の感想の方がよっぽどシンプルで正直だと思うけど、まだ笑い続けているもんだからそれも言い出せないまま、私は牧君の呼吸が整うのを待った。
「はは。笑えた。なかなか斬新だった。ほかにもあるんだろ?苗字の短歌、聞きたい。」
自分の好きなことについて知ってもらいたい、せっかくなら分かってもらいたいという気持ちは、きっと誰にだって少なからずあると思う。聞きたい、と真っ直ぐに言われてしまうと、少しだけむず痒い感情が沸き立って、牧君に渡した紙切れを返してもらい、私は無言でペンを走らせた。さっきの一首とは反対側のスペースに書き起こして牧君に渡すと、牧君はそれに静かに目を落とす。
"マーメイドではないことの証 一日の終わりに発音する あ"
「マーメイドって?人魚のことか?」
渡した紙から顔を上げて牧君が聞いた。やっぱりこの一首についても、説明を求められたから、私はぶつぶつと唱えるように言葉を返した。
「牧君も人魚姫の童話知ってるよね?主人公の人魚が、人間の姿になるために、自分の声と引き換えにして王子様に会いに行く話。でも私、人魚じゃないもの。あのね、夏休みのことなんだけどさ、丸一日誰とも喋ってないことに、夜寝る前に気付いたの。あれ?私、ちゃんと声出せるかな、って急に不安になってね、布団の中で「あ」って言ってみたの。一人で、だよ?間抜けでしょう?だけど、そんな間抜けな自分にほっとするじゃない。ああ、良かった〜!私、喋れた〜!みたいな。と安堵した一方で、でも、どうして「あ」だったんだろう。声を出せって言われたら、牧君、何て言う?「あ」って言っちゃわない?「い」でも「う」でもないのよ。何故か「あ」なの。そういう間抜けさと不思議な感覚を言いたかったの。」
「はははは。それで人魚が出てくるのか。苗字って、すごい感覚持ってるな。」
「どこが。説明しないと分かってもらえないってことは、下手なのよ。」
センスがないことは、私が一番分かってる。ふてくされるほどのやるせなさは作歌の度に味わっているのだけど、時間も心も砕くようにして生み出したものには愛着も生まれるのだ。開き直るってこういうことだろうか。牧君に何と言われようが、気にはしないことにする。もとより牧君は私のことなんて気にしてないだろうけども。
「いやいや、そんなことはないだろう。オレが分かってないだけだよ。意味が分かれば、ストンと腑に落ちる感じは、確かにある。こういう話をするの面白い。なにより苗字の考えていることが分かるし。」
「そ、そう?」
「ああ。苗字ってちょっと変わってるって言われないか?」
牧君がくっくっく、と頭を下げて体を揺らした。そんなに可笑しいかな、と聞くと、私の早口と口数の多さに圧倒された、と言っては思い出して笑っていた。牧君こそ、私の話をここまで聞くなんて相当変わってるよ、と言ってやりたかったが、ますます笑われそうだったので、思い止まった。
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