ネオンテトラの散文詩(三井)
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「、、、めっちゃ潰れてんじゃねーか。」
「すんませーん、三井さん。飲ませたのオレなんで、名前のこと、怒らないで下さいね。」
三井さんと連絡が取れたので、名前を担いで店を出た。店の暖簾をくぐって外に出たところに、もう三井さんが待ち構えていて、オレは酔い潰れて動けなくなった名前の代わりに、申し訳ない顔を作ってヘラリと笑った。
***
今夜は高校時代のバスケ部のメンツで忘年会。毎年、ヤスこと安田靖春が同学年に声を掛けて開催される恒例のやつだ。
「リョータ、今年はどうする?」
と、ヤスからまず一番に地元に残っているオレに連絡が入るのが12月初旬。地元にいるのはオレの方なので、飲み会の幹事はきっとオレがやるのが一般的だろう。やるべきなのだ。分かってる。オレだってそこまで社会性が無いわけでは無い。だがしかし、人を集めるのも、調整するのも、高校の時からヤスが進んでやってくれるもんだから、オレらの代はその関係性のまま大人になった。
「みんな帰省すんのかな。ヤス、聞いてる?とりあえずオレがNGな日だけ言っとくから、あと決めて。」
と、当時バスケ部でキャプテンだったオレは、どーんと構えて、ただ突っ立って指示するのみだ。ヤスは地元ではなく東京で就職したっていうのに、毎回店選びは県外で暮らすヤスが行う。
「なんでオレ、地元離れたっていうのに、一番地元の飲み屋に詳しいんだろう、、、。絶対おかしいって。」
そう言って自分で予約した居酒屋で皮肉を言うヤスに毎回みんなで笑うのが恒例。角田も潮崎も、マネージャーだったアヤちゃんも、こうして定期的に会えるのは全部ヤスのおかげだというのは十分承知している。ヤスこそが湘北バスケ部のオレ達の代を繋げてくれているのだ。
そしてもう一人。アヤちゃんと一緒にバスケ部のマネージャーをしていたのが名前。こっちは上の代とオレを繋いでくれている人物。
名前は年が明けたら、オレらの一個上の、バスケ部の先輩である三井さんと結婚する。今夜の飲み会は、バスケ部の同学年の忘年会兼名前の結婚祝いでもあった。しかしまあ、当の本人は見ての通りに酔い潰れて、完全に沈黙しちまったんだけど。そういうわけで、既に一緒に暮らしている三井さんに、名前を迎えに来てもらったというわけだ。
「は?お前、後部座席?乗るの?」
駐車場まで名前を運んで、そのままオレが車に乗り込もうとしたところで、三井さんが怪訝そうな顔をして聞いてきた。
「方向一緒なんですって。オレも途中まで乗っけてって下さいよ。」
「、、、ったく。」
面倒くさそうな口調ではあったが、三井さんが運転席に乗り込んだので、オレも同乗を認められたようだ。オレが名前を支えながら車に乗り込むと、三井さんは後部座席を振り返ることなく、助手席に置かれていたコンビニ袋をぶら下げて寄越した。
「宮城、これ、持っとけ。」
言われたオレはそれを黙って受け取る。コンビニ袋を覗き込んだら、500mlのミネラルウォーターのペットボトルが一本。名前の分だとはすぐに分かったけれど、こう言った。
「お。あざーす。貰っていいんすか?」
「バカか。名前のに決まってんだろーが。」
与えられた台本を読み上げたような会話が行き交う。三井さんとのこういったやりとりは、最早通過儀礼みたいなもんで、むしろこうやっておかないと、落ち着かない域に達している。三井さんとの付き合いも長くなったよな、なんて軽い感想と共に、オレは隣にいる名前の態勢を正そうとした。名前は自力では座れないらしく、三井さんの座席に頭をかろうじて支えられ、前傾姿勢で寝てしまっていた。オレが後部座席のシートに名前の背中を倒してもなお、真っ直ぐに座れない。名前は、ぐにゃりと上半身が揺れ、もたれかかる場所を求めて隣に座ったオレの肩に頭を傾けた。オレも名前の頭の傾きと、オレの肩がちょうど良い高さになるように、もぞもぞと座高位置を名前に合わせてみたりする。
「おい、ちゃんと座らせとけよ、宮城。」
「いや、オレ、何もしてねーすからね!?」
バックミラー越しに三井さんが、オレを睨んできたので、一応言い訳のようにリアクションを取ってみた。昔っからこういう細かいことを根に持つ人なので、下手な受け答えをすると火に油を注ぐことになるのは、長年の付き合いにより習得済みだ。後輩であるオレの気遣いにも多少は気付いて欲しい。三井さんは、理解力や表現力に若干乏しい残念な先輩なのだ。ほらね、今夜もこんなことを言い出すんだから、たまったもんじゃない。
「、、、あーもう。この辺、毎回渋滞すんだよな。」
信号手前にいる先頭車両を確認しながら、三井さんは両手でハンドルをにぎって少しイラつくように言った。車は繁華街を横切って、大きな幹線道路に抜けるところだ。
「おいおい、ここで右折はねーだろ。そりゃ後ろが詰まるわ。あーあ。」
しかし、三井さんはきっと、渋滞自体には本当は何も思っていない。名前がオレに密着しているこの後部座席の事情がどうも気に食わないらしいのを渋滞のせいにして紛らわせているだけだ。しゃーねーじゃん。酔っ払い相手にマジになるなって、三井さん。三井さんのほぼ独り言に近い愚痴を相手にするわけもなく、オレはシートに体を預ける。繁華街のネオンの明るさが車内のオレら三人に照準を合わせるかのように、連なって照らしてくる。車が走れば、それは光線となってオレらの体を順番になぞり、消えていく。通過する光の束を見送った後、オレは名前に肩を貸したまま、会話をすることを思い出す。
「名前、完全に寝ちゃったっすよ、三井さん。」
「あー、寝かせとけ、寝かせとけ。この渋滞だと、まだ家まで時間かかりそうだしな。」
三井さんは、ハンドルに手を掛け、前を向いたまま言った。
「あ、でもこいつ、急に吐いたりすっから、ちゃんと見とけよ。さっき渡したコンビニ袋、手に持っとけ、宮城。」
「えー、これコンビニの一番小さい袋じゃん。三井さん、これは厳しくねぇ?」
オレはコンビニ袋をガサリと指で広げ、直径を確認する。酒で潰れた人間の介抱には慣れたもんだが、このサイズは非常に心許ない、とオレの経験値が訴える。
「なら、残りはお前が両手で受け止めろ。絶対にこの車、汚すなよ。」
「うーわ、きっつ〜。出たよ、三井さんの理不尽。」
「あぁ?下ろすぞ、ここで。」
名前に対しては、すげぇ気遣う優しさ見せてくるのに、後輩の男には手厳しい。同学年だぞ、オレと名前は。だから、オレも丁重に扱ってくれてもいいはずだ。なんていう屁理屈をため息に変えてビニール袋を手首に引っ掛け、オレは名前の万が一に備えることにした。
少しだけ車が流れ出した。そして流れる景色をぼんやりと目で追いかけ始めた途端、また次の赤信号で止まる。オレの酔いの回った思考も信号で止まる度にあれこれと切り替わっていく。信号機の青いサインが、ルーレットのようにその時浮かんだ会話を走らせた。
「三井さんと名前って、高校の時からじゃないっすか?長いっすよね。オレの周りにそんなに長く付き合って結婚する人、いないんすよね。」
「別にずっと付き合ってたわけじゃねえし。別れてた時期も長ぇーよ。」
「あ、そうだった。三井さん、一回名前と別れた後、何か変な女と付き合ってましたよね?」
「、、、いつの話だよ。そして変な女って、あのなあ。それは言うなって。マジで。思い出してきた。なんか凹むわ、それ。」
三井さんは肘を上げて目元を押さえる。どうやら瞬間的に当時の記憶がフラッシュバックしたらしい。
「あははは。懐かしっすねー!あの時、その彼女の話で死ぬほど笑ったっすよね。花道も確か居たな。ほら、あの、前に三井さんが住んでたマンションの近くの飲み屋。通ってたなー。あの店、まだやってんのかな。」
オレは当時を懐かしんで笑った。大学を卒業して三井さんが暮らしていたマンションは、急行も止まる駅近5分の好立地だった。ちょうどそこが、他のメンバーの家との中間地点だったこともあり、バスケ部のメンツで飲む際は、この近辺が集合場所だった。ダルがりな三井さんは、毎度朝方まで食い込むことを見越して、めんどくせぇし歩いて帰れるから、という理由なだけで、自分の最寄駅の飲み屋を指定していた。確かその通いの飲み屋で、三井さんと名前が、数年ぶりにまた付き合い出したということも聞かされたんだっけな。
「名前ともう一回付き合おうってなったきっかけってあるんすか?」
「え、何だ急に。お前今日、怖。そんなん聞いてどうすんだよ。」
「いやぁ、結婚を前にした男って、どういう心境なんだろなと。オレも今後の参考にしときたいんすよ。」
「は?そんな相手いんの?宮城。」
「、、、いましたっけ?」
「オレが知るかよ。」
オレは真面目に答える気もないので、明るくとぼけてみたら、三井さんはオレの返事に分かりやすい勢いをつけて返し、唇のすみを上げて笑った。
名前と三井さんが、また付き合い出したと聞いてから、結婚の報告を受けるまでにそう時間はかからなかった。もとは高校時代から付き合っていた二人だし、二人を知ってるオレらとしては祝福しかない。結局元サヤっすね、とオレが茶化して言えば、三井さんと同学年の木暮さんは「おさまるところにおさまったんじゃないか」なんて言う。言い方一つでどうとでもなるもんだ。
「で、三井さん、きっかけは?」
オレが話を元に戻そうとするので、三井さんはしつこいな、と前置きして振り払うように答えた。
「、、、色々あんだよ、オレ達にも。」
「うわ、オレ達。出た、オレ達!何カッコつけようとしてんすか?ちょ、笑う〜。ウケる〜。」
「うるせーな!酔っ払い!こっちは、今夜、車出すかもと思って、飲まずに待機してたんだっつーの。お前は名前のついでで乗せてやってんだ。もう少し感謝の意を示せ、オレに!」
おっと。さっすが、三井さん男前。名前が毎回飲み会の時には、車で迎えに行くことがあるかもしれないと、酒も飲まずに夜中まで起きて待っているんだよね、この人。グチグチ言うくせに、名前のことを心配していることはよく分かる。先程、理解力や表現力に乏しい先輩だと評価したけれども、こういうところは、しっかりと彼氏の顔を見せてくるし、心得ている人なのだ。そしてオレはそんな三井さんに男として少しの嫉妬と羨望が瞬間的に生まれるのだが、それはそれで大変癪なので、なるべくその場で忘れるようにしている。
「で、教えて下さいよ?名前のこと、別れてからもやっぱ気にしてた?」
「はあぁ?」
「また付き合い出してから、結婚決めんの早かったじゃねーすか?」
「あー、まあな。お互い昔から良く知ってるし、これ以上知りようがねぇだろ。そんなら、後ろ見るより、前向くしかねーじゃん。なら、結婚って選択になるんじゃねえの?そういうもんじゃねえ?」
「え、そんな感じで結婚決めんの?」
拍子抜け、といった具合にオレが返事をしたから三井さんは、なんだよ、悪いかよ、と開き直った。運転席でふんぞり返った声だけが届いた。
「まあ、三井さん、女運あんまり良くないもんね。名前を逃したらもう次、無いっすよ。」
ヒャッヒャッヒャッ、とバカにしたようにオレが笑えば、すかさず反論してくると予想していたが、この時の三井さんは低反発な素材で出来ていたらしい。ゆっくりと受け止めて、オレの言葉の型枠に沈み、そして力の抜けた落ち着いた声でオレに言った。
「バカ。今まで使ってなかっただけだっつの。名前のために貯め込んでたんだよ。」
うわ、言うね〜、三井さん。これをノロケと言わずして何と言おう。しかし本人にはその自覚がない。うーん、つまり、この人って変わってんだよな。普段から自信持つとこそこなの!?とこちらが突っ込まずにはいられない感覚のズレが面白くもあるんだけれど。しかし、今夜の三井さんについては、オレは恨めしいほどに何もリアクションが出来ずに言葉に詰まった。オレが黙りこんだことが気色悪かったのだろうか。三井さんは、赤信号により停車させたタイミングで、運転席のドア側に肘を付いて自ら喋り出した。
「こいつってさ、真面目じゃん。大学も四年間、オレと付き合ってたから、ずっとオレに合わせた生活してきてたと思うんだよ。」
「ていうかそれを言うなら三井さんも大学四年間は名前とずっと付き合ってたわけじゃないすか。条件一緒じゃん?」
「オレはそこそこ遊んでたし。」
「はー、もう最低っす。三井さん。」
「や、待て!宮城の想像してる最低なとこまでは遊んでない!マジで!それは名前にも全部喋ったし、だからあいつ全部知ってるし。」
「バレた、の間違いでしょ。」
「、、、うっせーな、もう。」
この件は、当時(そりゃあもう結構前の話だが)、名前からも大方の事情を聞いていた。学生時代のよくある軽薄な行動がもたらした、三井さんの失敗談である。事あるごとに掘り起こされてはみんなに笑われるというオレら後輩達の定番のネタなのだが、それは三井さんのいないところで行われるので、三井さんは何も知らない。
「んで、オレが先に社会人になっただろ?」
「そっすね。」
「で、今度は名前の就活の番じゃん?大学卒業後の話なんか、何も約束出来ねぇ歳だったから、何もオレ言わなかったし、口も出さなかったんだけどよ、はたから見ててさ、絶対名前の第一希望じゃねえだろっつー会社とかにエントリーしてんの。」
「それ、名前は三井さんとの将来を意識してっつーことですよね?」
オレは肩で支える名前を、起こさないようにゆっくりと姿勢を変え、座り直しながら三井さんに尋ねる。三井さんは、オレの質問を待っていました、と言わんばかりに勢いづく。
「そういうこっちゃねーだろ。オレに合わせる必要なんかあるかよ。自分の人生だぞ。だからオレ言ったんだよ。自分で全部決めろってな。そしたら、名前黙るし。オレは背負ってやんねーぞって言ったら泣くし。あ、これ、当時の話な?」
「あのね三井さん、言い方よ。なんでアンタ、そんな突き放すことしか言えないんすか。」
オレは三井さんの聞き役に徹しつつも、呆れた態度を表さずにはいられなかった。この人の頭の中、どうなってんの。そんな思いで眉間に力を入れ、三井さんの後頭部を凝視した。オレだったら絶対女の子にそんなこと言えないわ。デリカシーに欠けるこの先輩に、オレも突き放すように言い返したら、三井さんはこう言った。
「現実だろ。互いに自立しようっつー話だよ。それが出来なきゃ共倒れだって。誰かのせいにして生きていくのは簡単だけどな、その分後悔とか自分に対する後ろめたさってのが、ずっとついて回るんだぞ。お前さ、そっちの方がしんどいって。」
意外とこういうところで真面目な顔を覗かせるのは、名前の方ではなくて三井さんの方だ。三井さんは挫けることを極端に嫌う。それは、元々の本人の気質に加えて、過去の自分を顧みているからかもしれない。ナイーブで傷付きやすいから、そうならないように行動することに信念を置いている。ぶっちゃけ、軽ーく物事を捉えがちなオレからしたらこの人、面倒くせぇなって思ったりもするけど、三井さんには三井さんの考えがあり、それに基づいた行動なんだってことは十分に理解している。伊達に長いこと付き合ってきてはいないし、こういう三井さんも嫌いじゃない。
「あ。で、三井さんから別れたんでしたっけ?」
「いや?オレが名前に振られた感じ?よく分かんね。」
「は?何でっすか?」
「名前が大学卒業する頃にはもう連絡も取って無かったし。」
「あんたら、グダグダすぎっすよ、、、。よくそれでまた付き合いましたね?」
オレの乾いた笑いに、三井さんも声には出さないものの同調するように鼻先で笑った。ということは、本人にもその自覚はあるらしい。三井さんは、オレの言葉に続けて言った。
「それこそ、バスケ部で繋がってたからじゃね?宮城達の下の学年ともなんだかんだで会ってて、全く途切れた訳じゃなかったしよ。」
別れた二人が再会したのは、確か安西先生の退職のお祝いの席だったことを思い出した。三井さんは尚も饒舌だ。
「それによ、お互いに仕事も持って大人になったからじゃねえの?価値観をぶつけるだけじゃなくて、擦り合わせが出来る様になったんだよ、多分。嫌いになって別れたのとはまた違ってたし、やっぱなんつーか、こう、久々喋ったら分からねえ?オレがこう言ったら、名前はこう言って返してくる、みたいな会話とか行動の安定感に、めちゃくちゃホッとしたんだよな。」
ああ、それはオレにも分かる。何気ない会話の中で、相手のリアクションが自分の望むものだったときの心地良さとか、会話のリズムとか。感覚的なものかもしれないが、落ち着く空気って確かにあるんだよな。その人の声や仕草、会話の間みたいなものも、全てが自分にとって最高のダイヤルに合わせてあるんじゃないかという錯覚は、好意を抱くには十分だ。それがかつての恋人なら尚更、再確認の機会でしかない。なんて、オレも三井さんの言葉に深く頷いていると、道路横に何軒かラブホテルのネオンと派手な看板が自然と目に入ってきた。三井さんもそれは一緒だったみたいで、何を思ったか、話題もそっち方面にハンドルを切られた。
「もう一度付き合うか、ってなった後の最初のセックスはめちゃくちゃ緊張したけどな。はっはっは。」
「ぶっ!三井さん、アンタ、ラブホ見たらすぐそういうこと言うのやめて下さいよ。」
「宮城も見た?結構車停まってたよな?さっすが土曜の夜だよな。」
そんな学生時代から変わらぬ三井さんとの下世話な話を繰り返す度に、オレは肩を震わせたかったが、名前を揺らしてはいけないため、口元に手を添えて静かに笑いを堪えた。
「え?で、結婚って、まさか体の相性で決めたとかいうオチじゃないですよね?」
「んなわけねーだろ。それだけで結婚決めるか、ボケ。なんだよ、急にそういう話振ってくんなよ。」
いや、絶対、この方向に持って行ったの三井さんだから、という言葉をグッと飲み込んで、当初の質問に舞い戻る。
「じゃあ、決め手は?」
「はあ?言うの?それ。」
「今後の参考までに是非。」
なんでだよ、と渋りながらも三井さんは、このゆっくりとしか進まない渋滞の手持ち無沙汰感からも抜け出したかったのだろうか。三井さんが言葉のアクセルを踏み込んだから、会話は滑るようにして走り出した。
「"ありがとう"と"ごめんなさい"」
「え?何?」
三井さんが発言した単語は耳に残ったが、理解が追いつかずにオレは聞き直した。三井さんもそれを分かったのか、噛み砕くようにしてオレに説明してくれる。
「言うんだよ。名前ってな、ちゃんと。どんな簡単なことにも、オレが大したことないって思ってることにも。必ず、"ありがとう"って言うし、悪いと思ったら"ごめん"って謝ってくるんだよ。」
「で?」
「で?ってお前、普通に暮らしてるとそういうの省きがちになっていかね?付き合い長くなると、特に。」
「あー、うん、まあそうっすね。」
オレの反応の薄さに三井さんは納得しきれないようで、説得にかかるように訴えてきた。
「あのな、そういうの、めっちゃ大事だって。喧嘩してたり、険悪な時とかさ、一緒に暮らしてると逃げ場無いぞ?けど、その声かけ一つで空気変わるから。すげー救われる時あるもん、マジで。オレ、名前のそういうところ尊敬してんだよ。」
「へー。だから?」
「そう。だから。」
だから、結婚を決めたという三井さんの視線の先には、名前がいた。バックミラー越しにだけども、オレはその三井さんの視線を思い切り感じとった。三井さんが意外にも素直なせいか、オレもこれ以上は踏み込むことをやめた。これ以上聞いたって、三井さんの名前へのストレートな愛情ばかりが恥ずかしげもなく出て来そうで、それをオレが笑ってやるには張り合いがなく、面白みもない。結婚って、人間変えるのか?いや、もともと三井さんってそういう人種だったんだっけ?でも、そうそう、それなんすよ、今夜のオレが欲しかったのは、と心の中で三井さんに拍手を送った。こうしてオレはようやく今日の大役を終えた気になる。肩を上下することで隣に合図を送りつつ、寄り掛かる名前にやっと声をかけて、そして仕上げに取り掛かった。
「ーーーだって。名前、聞いた?三井さん、結構良いこと言ってたっぽくね?な?良かったじゃん。」
「ううう。何故それをプロポーズの時に言ってくれないのよぅ、寿君〜。バカァ、、、、。」
「な!?名前!?」
酔っ払って寝てたはずの名前に、三井さんが驚きの声を上げ、名前はそんなことは知ったことかと言わんばかりに、むくりと起き上がる。名前は涙目で三井さんの運転席のシートを、ガンガンと力を溜めてグーパンチで叩きだした。オレはまさに言葉通りに肩の荷がおりたので、ここでいよいよ三井さんに種明かしを始める。
「ごめん、三井さん。名前、最初っから寝てません。ってか、そんなに酔ってもないです。」
時は数時間前に遡る。今夜の飲み会の席でふと名前がこぼしたのだ。三井さんが名前と結婚するのは、互いにいい歳だし、単に長く付き合ってきたし、別れる理由もないし、なんていう消極的な理由に過ぎないのではないかと。心安い関係ではあるが、果たしてそれだけで良いのだろうかと。勿論、三井さんのことは信じているけれど。そんな名前の不安の数々に、「マリッジブルーってやつなんじゃないの?」なんてそばで聞いてたアヤちゃんは言っていて、だったら三井さんを呼び出してはっきり聞いてみたらいいじゃん、と悪ふざけを企てたのがオレ。
酔って潰れたフリをした名前が、三井さんがデリカシーのかけらもない話をする度に、オレの肩で眉間に皺を寄せてこっそりと反応していたのには結構笑えた。でも、やっぱり三井さんは三井さんなのだ。決める時は決めてくれる男なんですよ。そんな熱い眼差しを三井さんに向けるオレは、今日は間違いなく酔っ払ってると認めよう。普段はこんなこと、オレ絶対思わないからね?三井さんはハンドルから離した両手を頭に持っていくと、大きく息を吸ってから叫んだ。
「だぁぁ〜っ!お前ら、マジでふざけんな。」
「や、でも、今喋ってたこと、全部本音っすよね?三井さん?」
「、、、、はあ?全部嘘だよ。嘘!」
オレと名前は、顔を見合わせて笑った。こんなに分かりやすく自分を認めようとしない態度はやや滑稽で、これまでの三井さんとの会話を振り返ると、説得力のかけらも見当たらなかった。
「そんじゃ、オレ、この辺で降りるっすわ。あそこから、電車で帰ります。」
そう言って、次の赤信号で停車した際、オレは三井さんの車からさっさと降りた。そこに窓から顔を出した三井さんが声を掛ける。
「宮城。披露宴の招待状の返事!バスケ部でまだ返して来てねーの、お前と桜木だけだからな!」
「まだ郵便出してないだけで、出席にマル付けてますって、、、!ちゃんと!」
やべ。まずい、花道よりは先に返事をしておこう。それだけは死守せねばと、オレは自分の部屋のテレビ横に、無造作に積み上げていた雑誌の上の封筒を思い浮かべる。確か、白い花柄のエンボスの模様が入っていて、名前の字で宮城リョータ様と書いてあったやつ。日取りだけ確認して、そのままにしていたから、まだきっとテレビ横にあるはずだ。
でもそれを確認するのは、明日でいいか。オレは三井さんと名前を乗せた車が走り去るのを見送って、踵を返した。少し歩けば駅前の賑やかさが迎えてくれ、時計の針は終電まで、余裕を示す。おもむろに電話を取り出して、着信履歴の一番上をタップした。
「、、、もしもし?オレ。リョータ。まだ起きてる?、、、ねぇ、家行ってい?今、隣駅にいんの。ん?はは、酔っ払ってる。いーじゃん、会お。急に会いたくなったのよ。すぐ行くから。うん。マジでマジでマジで。」
人恋しくなるにはまだ夜は更けていないけれど、東の空が白むのを待っていられるほど、オレの心は白けているわけでもない。実はまだ距離を詰め切れていない彼女に対して、会いたい、とオレは初めて積極的に口にした。それを酒のせいにするオレの小賢しさは認めるけれど、今夜は全て三井さんのせいにしておくことにする。
「すんませーん、三井さん。飲ませたのオレなんで、名前のこと、怒らないで下さいね。」
三井さんと連絡が取れたので、名前を担いで店を出た。店の暖簾をくぐって外に出たところに、もう三井さんが待ち構えていて、オレは酔い潰れて動けなくなった名前の代わりに、申し訳ない顔を作ってヘラリと笑った。
***
今夜は高校時代のバスケ部のメンツで忘年会。毎年、ヤスこと安田靖春が同学年に声を掛けて開催される恒例のやつだ。
「リョータ、今年はどうする?」
と、ヤスからまず一番に地元に残っているオレに連絡が入るのが12月初旬。地元にいるのはオレの方なので、飲み会の幹事はきっとオレがやるのが一般的だろう。やるべきなのだ。分かってる。オレだってそこまで社会性が無いわけでは無い。だがしかし、人を集めるのも、調整するのも、高校の時からヤスが進んでやってくれるもんだから、オレらの代はその関係性のまま大人になった。
「みんな帰省すんのかな。ヤス、聞いてる?とりあえずオレがNGな日だけ言っとくから、あと決めて。」
と、当時バスケ部でキャプテンだったオレは、どーんと構えて、ただ突っ立って指示するのみだ。ヤスは地元ではなく東京で就職したっていうのに、毎回店選びは県外で暮らすヤスが行う。
「なんでオレ、地元離れたっていうのに、一番地元の飲み屋に詳しいんだろう、、、。絶対おかしいって。」
そう言って自分で予約した居酒屋で皮肉を言うヤスに毎回みんなで笑うのが恒例。角田も潮崎も、マネージャーだったアヤちゃんも、こうして定期的に会えるのは全部ヤスのおかげだというのは十分承知している。ヤスこそが湘北バスケ部のオレ達の代を繋げてくれているのだ。
そしてもう一人。アヤちゃんと一緒にバスケ部のマネージャーをしていたのが名前。こっちは上の代とオレを繋いでくれている人物。
名前は年が明けたら、オレらの一個上の、バスケ部の先輩である三井さんと結婚する。今夜の飲み会は、バスケ部の同学年の忘年会兼名前の結婚祝いでもあった。しかしまあ、当の本人は見ての通りに酔い潰れて、完全に沈黙しちまったんだけど。そういうわけで、既に一緒に暮らしている三井さんに、名前を迎えに来てもらったというわけだ。
「は?お前、後部座席?乗るの?」
駐車場まで名前を運んで、そのままオレが車に乗り込もうとしたところで、三井さんが怪訝そうな顔をして聞いてきた。
「方向一緒なんですって。オレも途中まで乗っけてって下さいよ。」
「、、、ったく。」
面倒くさそうな口調ではあったが、三井さんが運転席に乗り込んだので、オレも同乗を認められたようだ。オレが名前を支えながら車に乗り込むと、三井さんは後部座席を振り返ることなく、助手席に置かれていたコンビニ袋をぶら下げて寄越した。
「宮城、これ、持っとけ。」
言われたオレはそれを黙って受け取る。コンビニ袋を覗き込んだら、500mlのミネラルウォーターのペットボトルが一本。名前の分だとはすぐに分かったけれど、こう言った。
「お。あざーす。貰っていいんすか?」
「バカか。名前のに決まってんだろーが。」
与えられた台本を読み上げたような会話が行き交う。三井さんとのこういったやりとりは、最早通過儀礼みたいなもんで、むしろこうやっておかないと、落ち着かない域に達している。三井さんとの付き合いも長くなったよな、なんて軽い感想と共に、オレは隣にいる名前の態勢を正そうとした。名前は自力では座れないらしく、三井さんの座席に頭をかろうじて支えられ、前傾姿勢で寝てしまっていた。オレが後部座席のシートに名前の背中を倒してもなお、真っ直ぐに座れない。名前は、ぐにゃりと上半身が揺れ、もたれかかる場所を求めて隣に座ったオレの肩に頭を傾けた。オレも名前の頭の傾きと、オレの肩がちょうど良い高さになるように、もぞもぞと座高位置を名前に合わせてみたりする。
「おい、ちゃんと座らせとけよ、宮城。」
「いや、オレ、何もしてねーすからね!?」
バックミラー越しに三井さんが、オレを睨んできたので、一応言い訳のようにリアクションを取ってみた。昔っからこういう細かいことを根に持つ人なので、下手な受け答えをすると火に油を注ぐことになるのは、長年の付き合いにより習得済みだ。後輩であるオレの気遣いにも多少は気付いて欲しい。三井さんは、理解力や表現力に若干乏しい残念な先輩なのだ。ほらね、今夜もこんなことを言い出すんだから、たまったもんじゃない。
「、、、あーもう。この辺、毎回渋滞すんだよな。」
信号手前にいる先頭車両を確認しながら、三井さんは両手でハンドルをにぎって少しイラつくように言った。車は繁華街を横切って、大きな幹線道路に抜けるところだ。
「おいおい、ここで右折はねーだろ。そりゃ後ろが詰まるわ。あーあ。」
しかし、三井さんはきっと、渋滞自体には本当は何も思っていない。名前がオレに密着しているこの後部座席の事情がどうも気に食わないらしいのを渋滞のせいにして紛らわせているだけだ。しゃーねーじゃん。酔っ払い相手にマジになるなって、三井さん。三井さんのほぼ独り言に近い愚痴を相手にするわけもなく、オレはシートに体を預ける。繁華街のネオンの明るさが車内のオレら三人に照準を合わせるかのように、連なって照らしてくる。車が走れば、それは光線となってオレらの体を順番になぞり、消えていく。通過する光の束を見送った後、オレは名前に肩を貸したまま、会話をすることを思い出す。
「名前、完全に寝ちゃったっすよ、三井さん。」
「あー、寝かせとけ、寝かせとけ。この渋滞だと、まだ家まで時間かかりそうだしな。」
三井さんは、ハンドルに手を掛け、前を向いたまま言った。
「あ、でもこいつ、急に吐いたりすっから、ちゃんと見とけよ。さっき渡したコンビニ袋、手に持っとけ、宮城。」
「えー、これコンビニの一番小さい袋じゃん。三井さん、これは厳しくねぇ?」
オレはコンビニ袋をガサリと指で広げ、直径を確認する。酒で潰れた人間の介抱には慣れたもんだが、このサイズは非常に心許ない、とオレの経験値が訴える。
「なら、残りはお前が両手で受け止めろ。絶対にこの車、汚すなよ。」
「うーわ、きっつ〜。出たよ、三井さんの理不尽。」
「あぁ?下ろすぞ、ここで。」
名前に対しては、すげぇ気遣う優しさ見せてくるのに、後輩の男には手厳しい。同学年だぞ、オレと名前は。だから、オレも丁重に扱ってくれてもいいはずだ。なんていう屁理屈をため息に変えてビニール袋を手首に引っ掛け、オレは名前の万が一に備えることにした。
少しだけ車が流れ出した。そして流れる景色をぼんやりと目で追いかけ始めた途端、また次の赤信号で止まる。オレの酔いの回った思考も信号で止まる度にあれこれと切り替わっていく。信号機の青いサインが、ルーレットのようにその時浮かんだ会話を走らせた。
「三井さんと名前って、高校の時からじゃないっすか?長いっすよね。オレの周りにそんなに長く付き合って結婚する人、いないんすよね。」
「別にずっと付き合ってたわけじゃねえし。別れてた時期も長ぇーよ。」
「あ、そうだった。三井さん、一回名前と別れた後、何か変な女と付き合ってましたよね?」
「、、、いつの話だよ。そして変な女って、あのなあ。それは言うなって。マジで。思い出してきた。なんか凹むわ、それ。」
三井さんは肘を上げて目元を押さえる。どうやら瞬間的に当時の記憶がフラッシュバックしたらしい。
「あははは。懐かしっすねー!あの時、その彼女の話で死ぬほど笑ったっすよね。花道も確か居たな。ほら、あの、前に三井さんが住んでたマンションの近くの飲み屋。通ってたなー。あの店、まだやってんのかな。」
オレは当時を懐かしんで笑った。大学を卒業して三井さんが暮らしていたマンションは、急行も止まる駅近5分の好立地だった。ちょうどそこが、他のメンバーの家との中間地点だったこともあり、バスケ部のメンツで飲む際は、この近辺が集合場所だった。ダルがりな三井さんは、毎度朝方まで食い込むことを見越して、めんどくせぇし歩いて帰れるから、という理由なだけで、自分の最寄駅の飲み屋を指定していた。確かその通いの飲み屋で、三井さんと名前が、数年ぶりにまた付き合い出したということも聞かされたんだっけな。
「名前ともう一回付き合おうってなったきっかけってあるんすか?」
「え、何だ急に。お前今日、怖。そんなん聞いてどうすんだよ。」
「いやぁ、結婚を前にした男って、どういう心境なんだろなと。オレも今後の参考にしときたいんすよ。」
「は?そんな相手いんの?宮城。」
「、、、いましたっけ?」
「オレが知るかよ。」
オレは真面目に答える気もないので、明るくとぼけてみたら、三井さんはオレの返事に分かりやすい勢いをつけて返し、唇のすみを上げて笑った。
名前と三井さんが、また付き合い出したと聞いてから、結婚の報告を受けるまでにそう時間はかからなかった。もとは高校時代から付き合っていた二人だし、二人を知ってるオレらとしては祝福しかない。結局元サヤっすね、とオレが茶化して言えば、三井さんと同学年の木暮さんは「おさまるところにおさまったんじゃないか」なんて言う。言い方一つでどうとでもなるもんだ。
「で、三井さん、きっかけは?」
オレが話を元に戻そうとするので、三井さんはしつこいな、と前置きして振り払うように答えた。
「、、、色々あんだよ、オレ達にも。」
「うわ、オレ達。出た、オレ達!何カッコつけようとしてんすか?ちょ、笑う〜。ウケる〜。」
「うるせーな!酔っ払い!こっちは、今夜、車出すかもと思って、飲まずに待機してたんだっつーの。お前は名前のついでで乗せてやってんだ。もう少し感謝の意を示せ、オレに!」
おっと。さっすが、三井さん男前。名前が毎回飲み会の時には、車で迎えに行くことがあるかもしれないと、酒も飲まずに夜中まで起きて待っているんだよね、この人。グチグチ言うくせに、名前のことを心配していることはよく分かる。先程、理解力や表現力に乏しい先輩だと評価したけれども、こういうところは、しっかりと彼氏の顔を見せてくるし、心得ている人なのだ。そしてオレはそんな三井さんに男として少しの嫉妬と羨望が瞬間的に生まれるのだが、それはそれで大変癪なので、なるべくその場で忘れるようにしている。
「で、教えて下さいよ?名前のこと、別れてからもやっぱ気にしてた?」
「はあぁ?」
「また付き合い出してから、結婚決めんの早かったじゃねーすか?」
「あー、まあな。お互い昔から良く知ってるし、これ以上知りようがねぇだろ。そんなら、後ろ見るより、前向くしかねーじゃん。なら、結婚って選択になるんじゃねえの?そういうもんじゃねえ?」
「え、そんな感じで結婚決めんの?」
拍子抜け、といった具合にオレが返事をしたから三井さんは、なんだよ、悪いかよ、と開き直った。運転席でふんぞり返った声だけが届いた。
「まあ、三井さん、女運あんまり良くないもんね。名前を逃したらもう次、無いっすよ。」
ヒャッヒャッヒャッ、とバカにしたようにオレが笑えば、すかさず反論してくると予想していたが、この時の三井さんは低反発な素材で出来ていたらしい。ゆっくりと受け止めて、オレの言葉の型枠に沈み、そして力の抜けた落ち着いた声でオレに言った。
「バカ。今まで使ってなかっただけだっつの。名前のために貯め込んでたんだよ。」
うわ、言うね〜、三井さん。これをノロケと言わずして何と言おう。しかし本人にはその自覚がない。うーん、つまり、この人って変わってんだよな。普段から自信持つとこそこなの!?とこちらが突っ込まずにはいられない感覚のズレが面白くもあるんだけれど。しかし、今夜の三井さんについては、オレは恨めしいほどに何もリアクションが出来ずに言葉に詰まった。オレが黙りこんだことが気色悪かったのだろうか。三井さんは、赤信号により停車させたタイミングで、運転席のドア側に肘を付いて自ら喋り出した。
「こいつってさ、真面目じゃん。大学も四年間、オレと付き合ってたから、ずっとオレに合わせた生活してきてたと思うんだよ。」
「ていうかそれを言うなら三井さんも大学四年間は名前とずっと付き合ってたわけじゃないすか。条件一緒じゃん?」
「オレはそこそこ遊んでたし。」
「はー、もう最低っす。三井さん。」
「や、待て!宮城の想像してる最低なとこまでは遊んでない!マジで!それは名前にも全部喋ったし、だからあいつ全部知ってるし。」
「バレた、の間違いでしょ。」
「、、、うっせーな、もう。」
この件は、当時(そりゃあもう結構前の話だが)、名前からも大方の事情を聞いていた。学生時代のよくある軽薄な行動がもたらした、三井さんの失敗談である。事あるごとに掘り起こされてはみんなに笑われるというオレら後輩達の定番のネタなのだが、それは三井さんのいないところで行われるので、三井さんは何も知らない。
「んで、オレが先に社会人になっただろ?」
「そっすね。」
「で、今度は名前の就活の番じゃん?大学卒業後の話なんか、何も約束出来ねぇ歳だったから、何もオレ言わなかったし、口も出さなかったんだけどよ、はたから見ててさ、絶対名前の第一希望じゃねえだろっつー会社とかにエントリーしてんの。」
「それ、名前は三井さんとの将来を意識してっつーことですよね?」
オレは肩で支える名前を、起こさないようにゆっくりと姿勢を変え、座り直しながら三井さんに尋ねる。三井さんは、オレの質問を待っていました、と言わんばかりに勢いづく。
「そういうこっちゃねーだろ。オレに合わせる必要なんかあるかよ。自分の人生だぞ。だからオレ言ったんだよ。自分で全部決めろってな。そしたら、名前黙るし。オレは背負ってやんねーぞって言ったら泣くし。あ、これ、当時の話な?」
「あのね三井さん、言い方よ。なんでアンタ、そんな突き放すことしか言えないんすか。」
オレは三井さんの聞き役に徹しつつも、呆れた態度を表さずにはいられなかった。この人の頭の中、どうなってんの。そんな思いで眉間に力を入れ、三井さんの後頭部を凝視した。オレだったら絶対女の子にそんなこと言えないわ。デリカシーに欠けるこの先輩に、オレも突き放すように言い返したら、三井さんはこう言った。
「現実だろ。互いに自立しようっつー話だよ。それが出来なきゃ共倒れだって。誰かのせいにして生きていくのは簡単だけどな、その分後悔とか自分に対する後ろめたさってのが、ずっとついて回るんだぞ。お前さ、そっちの方がしんどいって。」
意外とこういうところで真面目な顔を覗かせるのは、名前の方ではなくて三井さんの方だ。三井さんは挫けることを極端に嫌う。それは、元々の本人の気質に加えて、過去の自分を顧みているからかもしれない。ナイーブで傷付きやすいから、そうならないように行動することに信念を置いている。ぶっちゃけ、軽ーく物事を捉えがちなオレからしたらこの人、面倒くせぇなって思ったりもするけど、三井さんには三井さんの考えがあり、それに基づいた行動なんだってことは十分に理解している。伊達に長いこと付き合ってきてはいないし、こういう三井さんも嫌いじゃない。
「あ。で、三井さんから別れたんでしたっけ?」
「いや?オレが名前に振られた感じ?よく分かんね。」
「は?何でっすか?」
「名前が大学卒業する頃にはもう連絡も取って無かったし。」
「あんたら、グダグダすぎっすよ、、、。よくそれでまた付き合いましたね?」
オレの乾いた笑いに、三井さんも声には出さないものの同調するように鼻先で笑った。ということは、本人にもその自覚はあるらしい。三井さんは、オレの言葉に続けて言った。
「それこそ、バスケ部で繋がってたからじゃね?宮城達の下の学年ともなんだかんだで会ってて、全く途切れた訳じゃなかったしよ。」
別れた二人が再会したのは、確か安西先生の退職のお祝いの席だったことを思い出した。三井さんは尚も饒舌だ。
「それによ、お互いに仕事も持って大人になったからじゃねえの?価値観をぶつけるだけじゃなくて、擦り合わせが出来る様になったんだよ、多分。嫌いになって別れたのとはまた違ってたし、やっぱなんつーか、こう、久々喋ったら分からねえ?オレがこう言ったら、名前はこう言って返してくる、みたいな会話とか行動の安定感に、めちゃくちゃホッとしたんだよな。」
ああ、それはオレにも分かる。何気ない会話の中で、相手のリアクションが自分の望むものだったときの心地良さとか、会話のリズムとか。感覚的なものかもしれないが、落ち着く空気って確かにあるんだよな。その人の声や仕草、会話の間みたいなものも、全てが自分にとって最高のダイヤルに合わせてあるんじゃないかという錯覚は、好意を抱くには十分だ。それがかつての恋人なら尚更、再確認の機会でしかない。なんて、オレも三井さんの言葉に深く頷いていると、道路横に何軒かラブホテルのネオンと派手な看板が自然と目に入ってきた。三井さんもそれは一緒だったみたいで、何を思ったか、話題もそっち方面にハンドルを切られた。
「もう一度付き合うか、ってなった後の最初のセックスはめちゃくちゃ緊張したけどな。はっはっは。」
「ぶっ!三井さん、アンタ、ラブホ見たらすぐそういうこと言うのやめて下さいよ。」
「宮城も見た?結構車停まってたよな?さっすが土曜の夜だよな。」
そんな学生時代から変わらぬ三井さんとの下世話な話を繰り返す度に、オレは肩を震わせたかったが、名前を揺らしてはいけないため、口元に手を添えて静かに笑いを堪えた。
「え?で、結婚って、まさか体の相性で決めたとかいうオチじゃないですよね?」
「んなわけねーだろ。それだけで結婚決めるか、ボケ。なんだよ、急にそういう話振ってくんなよ。」
いや、絶対、この方向に持って行ったの三井さんだから、という言葉をグッと飲み込んで、当初の質問に舞い戻る。
「じゃあ、決め手は?」
「はあ?言うの?それ。」
「今後の参考までに是非。」
なんでだよ、と渋りながらも三井さんは、このゆっくりとしか進まない渋滞の手持ち無沙汰感からも抜け出したかったのだろうか。三井さんが言葉のアクセルを踏み込んだから、会話は滑るようにして走り出した。
「"ありがとう"と"ごめんなさい"」
「え?何?」
三井さんが発言した単語は耳に残ったが、理解が追いつかずにオレは聞き直した。三井さんもそれを分かったのか、噛み砕くようにしてオレに説明してくれる。
「言うんだよ。名前ってな、ちゃんと。どんな簡単なことにも、オレが大したことないって思ってることにも。必ず、"ありがとう"って言うし、悪いと思ったら"ごめん"って謝ってくるんだよ。」
「で?」
「で?ってお前、普通に暮らしてるとそういうの省きがちになっていかね?付き合い長くなると、特に。」
「あー、うん、まあそうっすね。」
オレの反応の薄さに三井さんは納得しきれないようで、説得にかかるように訴えてきた。
「あのな、そういうの、めっちゃ大事だって。喧嘩してたり、険悪な時とかさ、一緒に暮らしてると逃げ場無いぞ?けど、その声かけ一つで空気変わるから。すげー救われる時あるもん、マジで。オレ、名前のそういうところ尊敬してんだよ。」
「へー。だから?」
「そう。だから。」
だから、結婚を決めたという三井さんの視線の先には、名前がいた。バックミラー越しにだけども、オレはその三井さんの視線を思い切り感じとった。三井さんが意外にも素直なせいか、オレもこれ以上は踏み込むことをやめた。これ以上聞いたって、三井さんの名前へのストレートな愛情ばかりが恥ずかしげもなく出て来そうで、それをオレが笑ってやるには張り合いがなく、面白みもない。結婚って、人間変えるのか?いや、もともと三井さんってそういう人種だったんだっけ?でも、そうそう、それなんすよ、今夜のオレが欲しかったのは、と心の中で三井さんに拍手を送った。こうしてオレはようやく今日の大役を終えた気になる。肩を上下することで隣に合図を送りつつ、寄り掛かる名前にやっと声をかけて、そして仕上げに取り掛かった。
「ーーーだって。名前、聞いた?三井さん、結構良いこと言ってたっぽくね?な?良かったじゃん。」
「ううう。何故それをプロポーズの時に言ってくれないのよぅ、寿君〜。バカァ、、、、。」
「な!?名前!?」
酔っ払って寝てたはずの名前に、三井さんが驚きの声を上げ、名前はそんなことは知ったことかと言わんばかりに、むくりと起き上がる。名前は涙目で三井さんの運転席のシートを、ガンガンと力を溜めてグーパンチで叩きだした。オレはまさに言葉通りに肩の荷がおりたので、ここでいよいよ三井さんに種明かしを始める。
「ごめん、三井さん。名前、最初っから寝てません。ってか、そんなに酔ってもないです。」
時は数時間前に遡る。今夜の飲み会の席でふと名前がこぼしたのだ。三井さんが名前と結婚するのは、互いにいい歳だし、単に長く付き合ってきたし、別れる理由もないし、なんていう消極的な理由に過ぎないのではないかと。心安い関係ではあるが、果たしてそれだけで良いのだろうかと。勿論、三井さんのことは信じているけれど。そんな名前の不安の数々に、「マリッジブルーってやつなんじゃないの?」なんてそばで聞いてたアヤちゃんは言っていて、だったら三井さんを呼び出してはっきり聞いてみたらいいじゃん、と悪ふざけを企てたのがオレ。
酔って潰れたフリをした名前が、三井さんがデリカシーのかけらもない話をする度に、オレの肩で眉間に皺を寄せてこっそりと反応していたのには結構笑えた。でも、やっぱり三井さんは三井さんなのだ。決める時は決めてくれる男なんですよ。そんな熱い眼差しを三井さんに向けるオレは、今日は間違いなく酔っ払ってると認めよう。普段はこんなこと、オレ絶対思わないからね?三井さんはハンドルから離した両手を頭に持っていくと、大きく息を吸ってから叫んだ。
「だぁぁ〜っ!お前ら、マジでふざけんな。」
「や、でも、今喋ってたこと、全部本音っすよね?三井さん?」
「、、、、はあ?全部嘘だよ。嘘!」
オレと名前は、顔を見合わせて笑った。こんなに分かりやすく自分を認めようとしない態度はやや滑稽で、これまでの三井さんとの会話を振り返ると、説得力のかけらも見当たらなかった。
「そんじゃ、オレ、この辺で降りるっすわ。あそこから、電車で帰ります。」
そう言って、次の赤信号で停車した際、オレは三井さんの車からさっさと降りた。そこに窓から顔を出した三井さんが声を掛ける。
「宮城。披露宴の招待状の返事!バスケ部でまだ返して来てねーの、お前と桜木だけだからな!」
「まだ郵便出してないだけで、出席にマル付けてますって、、、!ちゃんと!」
やべ。まずい、花道よりは先に返事をしておこう。それだけは死守せねばと、オレは自分の部屋のテレビ横に、無造作に積み上げていた雑誌の上の封筒を思い浮かべる。確か、白い花柄のエンボスの模様が入っていて、名前の字で宮城リョータ様と書いてあったやつ。日取りだけ確認して、そのままにしていたから、まだきっとテレビ横にあるはずだ。
でもそれを確認するのは、明日でいいか。オレは三井さんと名前を乗せた車が走り去るのを見送って、踵を返した。少し歩けば駅前の賑やかさが迎えてくれ、時計の針は終電まで、余裕を示す。おもむろに電話を取り出して、着信履歴の一番上をタップした。
「、、、もしもし?オレ。リョータ。まだ起きてる?、、、ねぇ、家行ってい?今、隣駅にいんの。ん?はは、酔っ払ってる。いーじゃん、会お。急に会いたくなったのよ。すぐ行くから。うん。マジでマジでマジで。」
人恋しくなるにはまだ夜は更けていないけれど、東の空が白むのを待っていられるほど、オレの心は白けているわけでもない。実はまだ距離を詰め切れていない彼女に対して、会いたい、とオレは初めて積極的に口にした。それを酒のせいにするオレの小賢しさは認めるけれど、今夜は全て三井さんのせいにしておくことにする。
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