二月は甘くうそぶく(流川)
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「彩子〜!部活もう終わるー?」
私は体育館の中央を区切る、緑のカーテンネットに手を掛けて、隣のコートにいる友達に声をかけた。こちらを振り向くのは、赤いキャップを被ったバスケ部のマネージャー、彩子だ。
「名前〜!これ片付けたら今日は終わりよ。」
「じゃ、駐輪場側の部室んとこいるよ!待ち合わせて一緒帰ろうよー!」
「オッケー。」
年が明けてすぐ。陽が落ちるのが早いこの時期は、私達運動部員が部活を終えて校門を出る頃には、辺りは真っ暗だ。バレーボール部に所属している私は、二面ある体育館のうち仲良く片面を分ける、男子バスケットボール部と体育館の使用時間が被ることが多い。バスケ部は夏以降、全国大会出場の実績を残し、毎日遅くまで練習に精を出している。とはいっても、公立高校の体育館なんて使用時間が決められているから、帰宅時間はどの学生もほぼ同じ時間になる。だからクラスでほぼ一緒にいる彩子ともこうやってしばしば待ち合わせをして、帰ったりもする。私達がそれぞれ制服に着替え、いつもの場所に集合したら、何かに気付いた彩子が隠すように耳打ちをしてきた。
「名前。あれ見て。」
彩子が示した目線の先、駐輪場の外灯の向こうに大小の人影が二つ。彩子は私を手招きした。私達は素早く移動して、プール側の壁にピッタリとくっつくように隠れて壁際スレスレから顔を出して様子を伺った。
「また流川、、、!告られてるね、あれは。」
「流川って?彩子と同じバスケ部の一年生?」
小さい方の人影の一つが散った。そしてもう一つの大きい方の人影は、自転車を押しながら、こちらに近づいて来た。もう帰るのだろう。当然だ。私達がいるプールは駐輪場よりも正門側に位置しているのだから。学ラン姿の彼の顔は暗くてよく見えないけれど、一際背が高いのは分かった。
「げ。目が合った!」
彩子の声の方向は明らかに人影に向かっていた。自ら絡んで茶化しに行こうとする姿勢なのが私にもバレバレなくらい。私達二人がくっつくようにして覗き見してしまっていたのをプール脇を通る人影が知って、立ち止まる。
「何すか。」
そう呟いた人影は流川君という。いつも隣のコートで練習をしているので、バスケ部の人だとは分かっていたし、そもそも有名人なのだけど、喋るところを見たのは初めてだった。一年生なのに一学年上の私達より格段に落ち着いていて、こんな話し方をするんだ、と彩子から一歩下がったところで、彼を見上げた。
「流川ぁ〜。アンタ、また告られてたの?相手、一年生?こんな感じ悪い男のどこにモテ要素が!?私、中学から知ってるけど、全然わかんないわ!」
流川君は特に反論もしなかった。いや、もともと好んで会話をしたいタイプではないことも、先程の声と話し方からも、初対面の私ですら分かった。
「ちょっとぉ、彩子!やめなよ。」
彩子は少し調子が良いところもあるから、私は小さな声で耳打ちして注意するのに、相手が勝手知ったる中学からの後輩だからか、彩子はいつも以上にからかいに力が入る。
「あははは!いーの、いーのっ。この子、何言っても響かないから!みんなもっと流川のこと知った方がいいわよ。プププっ。」
彩子の言う通り、流川君には彩子の言葉は響いておらず、完全無視を決め込んで、自転車を引いて歩き出した。私達も帰ろ帰ろ、と彩子に促され、流川君の後ろについて歩を進めた。
「でもさあ、こうやってしょっちゅう呼び出されてんじゃないの、流川って。部活も遅れてくることもあるし、今日みたいに帰りだってさあ。部活に支障が出るのは、マネージャーの彩子さんとしても、頭を抱える問題なのよね。ウンウン。」
彩子は通学鞄を、頭の後ろに組んだ両手で持ちながら会話を継続する。私は部活用のジャージとTシャツを詰め込んだスポーツバッグ兼通学鞄を背負い直して、流川君と彩子に従って歩く。全くもって会話が苦手というわけではないけれど、彩子と流川君の間柄にも、流川君にも慣れていないのに、バスケ部の中にバレー部がいきなり会話に入っていけるほど無頓着にはなれない。私はバッグのストラップを両手に握り、ただただ二人の会話を黙って見守った。
「どーすんの。来月は二月だよ?!バレンタインシーズンじゃん。アンタ、夏以降、他校の女子からも声掛けられたりしてんじゃないの。部活来れんのかしら?」
流川君は黙ったままだけど、彩子はこの沈黙を歯牙にも掛けない。
「あ!そうだ、彼女いるってことにしようか!?断るのもラクじゃん、流川!しかも勝手にみんな諦めていくわよ、流川に彼女が出来たって広まれば〜。」
彩子が、流川君の前に駆け寄った。行く手を阻まれた流川君は立ち止まり、一言だけ口にした。
「カノジョ、、、」
「どう?!どう?!」
体を傾け、左右に揺らしながら彩子はしたり顔で流川君に詰め寄っていく。こう言う時の彩子ってほんとすごく楽しそう。物好きなんだよね、この子。私は二人の掛け合いを後方から見ながら思った。
「めんどくさくねーすか?」
「めんどくさいわけないじゃない。彼女いるって言えば、それで終わり!納得するわよ!彼女いないって言うから、みんな夢見るし、頑張っちゃう子が出てきちゃうのよ。そんなもんなのよ。女子から何か聞かれても、彼女いるって答えるだけよ。アンタあんまり喋らないけど、それくらいは言えるでしょ。」
「ナルホド。」
「そういうこと、そういうこと!彩子さんったらナイスアイディアじゃない?!ねっ、名前もそう思わない?」
女の子にキャーキャー言われるのって男の子は口にはしなくても単純に嬉しいものかと思っていた。しかしそういうことに煩わしさを感じているということを、彩子と流川君の会話を黙って聞いていた私は推量する。よっぽど迷惑な話なのだろう。有名人って大変なんだな、とちょっと流川君に同情した。
「うん。だね。好きな人に彼女いるって知ったら、やっぱ諦めるか遠慮するよね、女子は。」
私は彩子に言ったつもりだった。一列になって彩子と私に挟まれる形で下校する流川君は、発言した私の方へ振り返った。ここで流川君は初めて私と目を合わせる。
「、、、誰。バスケ部?」
「あんた何ボケてんのよ!バレー部の子よ!私のクラスの友達。二年なんだから、先輩よ!ホラ挨拶!」
彩子に促された流川君がぎこちなく頭を軽く下げる仕草で挨拶してくれたから、私も挨拶を交わした。
「どうも。、、、こ、こんにちは。」
流川君は私をじっと見て、何か考えを巡らせている、、、、わけでもなさそう。すぐに前を向き直した流川君は無表情で何を考えているのかさっぱり分からなかった。そもそも何も考えていないのかもしれない。だから私もこの時、後にやってくる騒動の非常な出来事に自分が巻き込まれるなんて、これっぽっちも考えやしなかった。
***
流川君に彼女がいるらしい、と噂が立ったのはあの日、流川君が女の子に告白されているのを彩子と偶然見かけた一週間後のことだった。一年生の流川君にかかる噂が、二年の私達にまで広がる理由は簡単だった。噂の発信元が二年の彩子からなのだから。それに同じバスケ部キャプテンである宮城君が加わって、ますます騒ぎは大きくなる。
バレー部の私は、週のうち二日ないし三日を体育館で練習している。男子バレー部と交代で体育館を使用しているので、隣のコートで毎日練習しているバスケ部と顔を合わせるのも週のうち二日ないし三日である。体育館の入り口にはいつも人だかりが出来ていて、男の子のちょっと柄の悪そうな軍団と、流川君目当ての女の子達で賑わっていた。体育館で練習の日は、その後ろから、私はちょっとすみません、と言いながらかき分け、バレー部です、バレー部通ります、とアピールしては自分のコートに歩いていかなければならないので、流川君を見たい女子の多さに、私も間接的に迷惑を被っているうちの一人ではあった。それがなんと、この一週間で見学者は激減である。彩子が吹聴しているせいもあるけれど、確かに効果があったらしい。
がしかし、やはり中には流川君に彼女がいることを信じない根強いファンもいる。鋭い。そんな子達は今日も集団でバスケ部に押し掛けて、彩子は対応に四苦八苦だ。
「流川君に彼女がいるってホントなんですか!?」
「でも、誰もその彼女を見た事ないんです!」
「デマだって言う子もいるんですよ!」
部室に忘れてきた部活用のトレーナーを取りに戻り、私が体育館の入り口に差し掛かった時、流川君のファンの一年の子達に取り囲まれている彩子を見かけた。
「嘘じゃないわよぉ!ホントだって。あ。」
彩子の目が泳いで、横切る私を捉え、呼び止めた。
「名前、ちょっとこっち来て!」
「え、、、、何よ?」
こういう時の彩子は危険だ。苦し紛れに思い付いた嘘をさも真実のように、両手の人差し指で私を指差して、周囲の女子達に伝える。
「ホラホラ、実は、、、えーと、そう!この子と流川が付き合ってるのよ!」
晴れ渡った空に突然起こった雷のように、ピシャリと稲妻が走る。そしてそれはゴロゴロと私を地鳴りのように震わせる。私は苦笑いの末に彩子の下手な一人芝居をやめさせようとして、しどろもどろな声を出した。
「は?いや、ちょ、彩子?」
事態はクルクルと回り始めた。こうなったら坂道を転がるように加速していくのだから不思議でならない。タイミングが良いのか悪いのかも分からないが、この話題の軸となるはずの流川君がテーピングを持ちながら、体育館の扉から顔を出した。
「センパイ、ハサミどこすか。」
「流川!ほらねー、話をすれば、よ。」
彩子は一年生の流川君のファンを前にして、両手を腰に当てながら得意げに話した。
「あなた達が知らないだけで、この子達一緒に帰ったりしてんのよ。ね?」
「え、え、いや、は?」
うろたえるばかりの私を見て、彩子は流川君に話を振る。流川君はテーピングを人差し指に突き刺して小さく、ハサミ、、、と呟くも、彩子に軽くあしらわれていた。
「ハサミは救急箱の下の段!って、流川、ちょっと待ちなさい!先週もね?名前と帰ってたもんねーえ?流川!」
流川君は何も言わない代わりに首を縦に一回だけ短く振った。せ、せせせ先週って、彩子と流川君と私の三人でたまたま校門まで一緒に歩いただけじゃない!と声を上げて反論したかったのに、彩子は私のトレーナーを後ろからグイグイと引っ張ることで黙らせ、また言った。
「最近、この二人は付き合い始めたから、まだ知らない人多いと思うんだけど!えーっと、そうそう、今日も一緒に帰る約束してたもんね?ねーえ?流川!」
彩子は私を跨るように飛び越えて、流川君のアドリブへ期待を込めて、念押しの声をかけていた。流川君も流川君で、感情を見せない無表情さが、真実味を帯びることに一役買ってしまう。
「練習あるんで、もういーすか。」
その場にいた全員が、この言葉のせいで、私達の関係を否定しないがゆえに肯定であると受け取った。未だ私もその場にいたギャラリーのうちの一人で唖然とするのみだ。周囲の女子達も概ね同じような反応で、目を丸くして立ち尽くしていた。えええ?いつから?どうして?お付き合いしていたの?そんなの私が聞きたい。
「はいはい、もうギャラリーは散った散ったー!」
体育館の中にまで彩子の威勢の良い声がこだまする。私の頭の中はぐわん、ぐわんと、大きな鐘を鳴らされたように、状況を理解できずにいる。そして彩子からの耳打ちが更に私に追い討ちをかけて複雑に響いた。
「部活終わったら、流川寄越すから、二人で話しつけといてくれる?なんかノリでこんなんなっちゃった。ごめーん。」
全然悪びれた様子のない彩子に対して、流川君のこと全然知らないのに急に二人にされても!なんで!?やだよ!!と叫びそうになってギリギリで堪えた。コートの向こうの流川君に聞こえてしまうといけないと思って口には出せない。だけどそれに代わる拒否の言葉が出てこないうちに、彩子はバスケ部のマネージャーの仕事に戻り、私から離れていった。こうなったら後でちゃんと流川君とは話しをしなければ。先程のことは全て撤回してもらおう。そう私は弱々しく決意して部活に戻った。
***
「どうも。」
驚きと戸惑いで、ほぼ後半は記憶のない部活動を終えて、彩子に指定された一年の駐輪場の裏で流川君と落ち合った。一度もまともに会話したことのない流川君に何と切り出そうか迷ったが、余分な会話は一切入れず、今日の議題だけを投じた。
「聞いてないんだけど。」
相手は一つ下の後輩だ。私だって先輩風をふかせて少し強気に出ても良いことにした。じっとりとした上目遣いで、私の頭上に位置する流川君の目を見る。こうして恨みがましくも流川君に臨んだのだが、目の前の彼はすかさずこう言った。
「オレも聞いてねーす。」
がくっ。上目遣いの私の視線は一気に撃ち落とされて下降する。私は落としかけた肩をなんとか持ち直すも、空いた口はポカンとして塞がらない。そのまま顎までもスコンと外れてしまいそうだった。ええっと、私達は一体全体何をこれから話し合うんだったっけ。自分達の置かれた状況と互いの気持ちの乖離が、空中で面白くじゃれあい、赤の他人のフリをするものだから、私は先程の強気で行こうと決めた先輩面も忘れて笑ってしまう。
「プっ!って、いやいやいや!全っ然!意味っ!意味が分かんないから!流川君、キミ、いつもそんな感じなの!?そんなどうでもいいわけ!?」
流川君は黙って私の話を聞いている。この様子だけだととても素直そうな一年生に見えるのに、ボケているのかしら、この子。ちょっとやそっとのことでは物事に動じそうにない感じは、周りの空気を全く読まないせいだろう。関心の無いことには、余計なエネルギーを使いたくないのかもしれない。よくそれで生きてこれたなと、逆に心配になってしまう。
「えっと、、、彩子は?あの後、何か言ってた?」
「バスケ部にとっても都合良いから、、、。」
「うん?」
「このままにしとけって。」
「はい?」
「そう言っておけと、言われたっす。」
「あ、彩子、、、、あいつ。」
彩子の企んだような目と、ニヤニヤした口元を手で隠す笑い顔がチラついた。勘弁してよ。なんで全然関係ない私が、流川君の彼女役を演じるなんて頓珍漢なことに巻き込まれなきゃいけないんだろう。ふぅーとため息を吐いて、流川君に抗議しようと顔を上げると、流川君は私の目を見て言った。
「とりあえず付き合って下サイ。」
「つ、つつつ、付き、、付き合って、、、?!!?流川君と!?」
私のこと、好きなんですか?!と声を発する前に流川君が発言した。
「あ、2月まで。この話に。付き合ってくれれば。」
「あ!あぁ〜!そっち〜!」
「、、、そっち?」
「いやこっちの話!な、なるほど!はい!わかりました!ええ!」
流川君の言い直しにより、私は自意識過剰な恥をかく一歩手前で救われた。1月も中旬に差し掛かろうとしているこの時期に、告白かと思った私の体は内側からカッカと熱くなって、脇汗が半端ない。2月まで、というのは彩子も言っていたように、バレンタインデーを見越してという意味なのだろう。付き合うというのは、この嘘の彼女話に乗っかれということ。要するに彼女の名義貸しなのだ。流川君の告白めいた漠とした言い方を私は噛み砕いて理解することが出来たから、なるほど。よく分かりました。了解です。という意味を込めて、「はい!」と返事をしたけれど。ひどい勘違いに興奮してしまった恥ずかしさから、それを隠そうと咄嗟に勢いよく、声が出てしまっただけだ。
「ぶっちゃけここ一週間、あんま人寄ってこなくて。スゲー良いカンジなんす。」
なのに流川君は、私が名義貸しに合意したとみなしたのか、自身の身の回りの変化について伝えてきてくれた。し、しまった。ち、違うの、流川君、、、さっきのは、、、と、私が手を伸ばして訂正するタイミングを見計らっていると。
「昼休みも邪魔入らねーで寝れるし。」
流川君は少しだけ私に向かって笑ってみせた。それは優しいとか楽しいとか、微笑むとかいった種類のものではなくって、これまで散々迷惑だと思っていたことから解放された思いとか、心が晴れてせいせいするとでも言いたいような、シニカルな笑い方に近かったかもしれない。だけど、いつも無表情と聞いてた流川君がこんな風に気持ちを見せてくれたことが、私にはちょっと特別に思えてしまった。しかも顔が整っているだけあって、見栄えが良い。そしてこの特別感は私の胸を積極的に叩いてきた。ホントに、ホントにちょっとだけ。だけど私はかっこいいとはまだ言ってないぞ、とざわついた自分の胸に焦ったように言い聞かせた。
流川君が、もう帰りたいとでも言うように、自転車のスタンドを軽く蹴って自転車を動かした。ガシャンという自転車が揺れる音で、私の心も何かが解除されたみたいに揺れ動く。この関係は期限付き。流川君か彩子にでも後になって種明かしでも、何でもしてもらおう。私はあくまでも協力者的立場で臨もうと観念する。顔もかっこいいし。あ、いや、待って。私がかっこいいと思ってるわけじゃないから。周囲の女子の評価が、だから。と心の中でもう一人の自分に弁明するように努めてクールに流川君に話しかけた。
「私、土日も部活だし、何も特別なことしないよ?」
「オレも部活っす。」
「あ、そうか。じゃあ、何も変わらないか。今まで通りで。それから私、歩きだから流川君、あそこの校門まで行ったらバイバイしよ。」
「うす。」
もう見えている校門を指して私が言うと、自転車を引きながら、流川君が横並びで歩く。話の決着もついたことだし、このまま校門まで会話なく辿り着いて、さようならをしようと思っていた。それで良いと思っていた。ところが意外にも流川君が口を開いた。
「先輩、名前何ていうんすか?」
「え?そこから?!」
確かに流川君に名前を名乗ったりしていなかったけれど。よくそれで私と付き合うなんてままごとみたいなことをやろうと思ったな。またしても私は笑いを堪えつつ、ゆっくりと名乗った。
「苗字名前。」
漢字。と流川君が続けて尋ねてきた。口頭で一つ一つ丁寧に教えたけど、流川君の頭には入っていかないらしい。頭の上にハテナマークを付けた流川君は聞いた。
「ペンないすか?」
「え、あ、うん。これ。ボールペンなら。」
「書いて。漢字。」
無言で流川君は手の甲を私に差し出した。どうやら紙は待ち合わせていないらしい。書いてって、私の名前を?手の甲に?ああそういうことかと返事をする代わりに、私はボールペンをノックした。校舎側からの少しの灯りを頼りに、流川君の手の甲に自分の名前を書く。まさかフリだとは言え、付き合うと決めてから、自己紹介をし、手の甲に自分の名前を書くなんて、なんだかおかしな二人だと思ったら、笑いが止まらない。
「だけど別に漢字まで覚えなくってもいいのに。」
流川君のゴツゴツと骨張った手の甲の、平な場所を見つけて文字を刻んでいく。この関係が限られたものであるのであれば、お互いに残るものはより少ない方が良い気がする。そんなことを思っている私の頭の上から流川君の声が降ってくる。
「なるべく忘れねーように。」
「それ覚える気ないでしょ、流川君、、、はい!」
私が書き終えた文字をなぞるように黙って見つめる流川君はちょっと可愛いかった。
「苗字先輩、、、。」
「うん。せっかく書いたんだから頑張って覚えてね。」
「筆圧強めすね。手、痛かったんで、覚えられそうっす。」
「何それ!自分が書けって言ったんじゃん!筆圧強めってなんか失礼〜!あははは!」
他人の手に文字書くとか難しくない?なんて私がケラケラと笑いながら文句を言ったら、流川君は私の手の甲をすくい上げて、右手にペンを取った。
「オレも。」
「何?流川君も?いーよ、書かなくって。流川君の名前知ってる。楓君でしょ?有名だもん。」
そんな私の反論はまるで意に介さず、流川君は無表情で一時停止し、私にボールペンを返却しながら言った。
「、、、油性ペン持ってないっすか?」
「なんで、私には油性ペンで書こうとするのよ!あははははっ!」
世の中に面白いが転がっているのなら、積極的に拾っていくし、積極的に担っていきたい。多分、きっと、流川君もそういうことが嫌いではない種の人だと思う。ただ本人に自覚はないし、態度にも出さないでそう言うことを平気で言うのだから、それがとっても面白い。と、陽気な解釈をしたら、何だかそれを流川君に伝えたくなってしまった。
「流川君って、凄く面白い!」
「、、、言われたことないす。」
「えー!ほんとにー?!」
私が笑いながら驚くことにも、流川君は決してうろたえないし、動じないし、笑わない。でも私の歩くペースに合わせて、自転車を引きながら隣を歩いてくれるから、嫌われている訳ではないのだろう。まあ、最初から嫌われていたら、嘘でも付き合うなんてことしなさそうだな、流川君は。彼氏彼女の関係なんてお互いにこれっぽっちも抱いていないからか、気負いなく接することが出来そうだ。
私の楽しいを出来るだけ流川君にも知って欲しいなと思った。そしてそんな気持ちが共有できたらもっと楽しい。私だけが流川君の面白さを知るのも何となく愉快な気がしないでもない。明日からの流川君との関係に心を馳せる。なんだか遠足の前の日の小学生みたいに、ワクワクし始めた自分が可笑しい。私は校門を出て流川君の背中を見送った。
私は体育館の中央を区切る、緑のカーテンネットに手を掛けて、隣のコートにいる友達に声をかけた。こちらを振り向くのは、赤いキャップを被ったバスケ部のマネージャー、彩子だ。
「名前〜!これ片付けたら今日は終わりよ。」
「じゃ、駐輪場側の部室んとこいるよ!待ち合わせて一緒帰ろうよー!」
「オッケー。」
年が明けてすぐ。陽が落ちるのが早いこの時期は、私達運動部員が部活を終えて校門を出る頃には、辺りは真っ暗だ。バレーボール部に所属している私は、二面ある体育館のうち仲良く片面を分ける、男子バスケットボール部と体育館の使用時間が被ることが多い。バスケ部は夏以降、全国大会出場の実績を残し、毎日遅くまで練習に精を出している。とはいっても、公立高校の体育館なんて使用時間が決められているから、帰宅時間はどの学生もほぼ同じ時間になる。だからクラスでほぼ一緒にいる彩子ともこうやってしばしば待ち合わせをして、帰ったりもする。私達がそれぞれ制服に着替え、いつもの場所に集合したら、何かに気付いた彩子が隠すように耳打ちをしてきた。
「名前。あれ見て。」
彩子が示した目線の先、駐輪場の外灯の向こうに大小の人影が二つ。彩子は私を手招きした。私達は素早く移動して、プール側の壁にピッタリとくっつくように隠れて壁際スレスレから顔を出して様子を伺った。
「また流川、、、!告られてるね、あれは。」
「流川って?彩子と同じバスケ部の一年生?」
小さい方の人影の一つが散った。そしてもう一つの大きい方の人影は、自転車を押しながら、こちらに近づいて来た。もう帰るのだろう。当然だ。私達がいるプールは駐輪場よりも正門側に位置しているのだから。学ラン姿の彼の顔は暗くてよく見えないけれど、一際背が高いのは分かった。
「げ。目が合った!」
彩子の声の方向は明らかに人影に向かっていた。自ら絡んで茶化しに行こうとする姿勢なのが私にもバレバレなくらい。私達二人がくっつくようにして覗き見してしまっていたのをプール脇を通る人影が知って、立ち止まる。
「何すか。」
そう呟いた人影は流川君という。いつも隣のコートで練習をしているので、バスケ部の人だとは分かっていたし、そもそも有名人なのだけど、喋るところを見たのは初めてだった。一年生なのに一学年上の私達より格段に落ち着いていて、こんな話し方をするんだ、と彩子から一歩下がったところで、彼を見上げた。
「流川ぁ〜。アンタ、また告られてたの?相手、一年生?こんな感じ悪い男のどこにモテ要素が!?私、中学から知ってるけど、全然わかんないわ!」
流川君は特に反論もしなかった。いや、もともと好んで会話をしたいタイプではないことも、先程の声と話し方からも、初対面の私ですら分かった。
「ちょっとぉ、彩子!やめなよ。」
彩子は少し調子が良いところもあるから、私は小さな声で耳打ちして注意するのに、相手が勝手知ったる中学からの後輩だからか、彩子はいつも以上にからかいに力が入る。
「あははは!いーの、いーのっ。この子、何言っても響かないから!みんなもっと流川のこと知った方がいいわよ。プププっ。」
彩子の言う通り、流川君には彩子の言葉は響いておらず、完全無視を決め込んで、自転車を引いて歩き出した。私達も帰ろ帰ろ、と彩子に促され、流川君の後ろについて歩を進めた。
「でもさあ、こうやってしょっちゅう呼び出されてんじゃないの、流川って。部活も遅れてくることもあるし、今日みたいに帰りだってさあ。部活に支障が出るのは、マネージャーの彩子さんとしても、頭を抱える問題なのよね。ウンウン。」
彩子は通学鞄を、頭の後ろに組んだ両手で持ちながら会話を継続する。私は部活用のジャージとTシャツを詰め込んだスポーツバッグ兼通学鞄を背負い直して、流川君と彩子に従って歩く。全くもって会話が苦手というわけではないけれど、彩子と流川君の間柄にも、流川君にも慣れていないのに、バスケ部の中にバレー部がいきなり会話に入っていけるほど無頓着にはなれない。私はバッグのストラップを両手に握り、ただただ二人の会話を黙って見守った。
「どーすんの。来月は二月だよ?!バレンタインシーズンじゃん。アンタ、夏以降、他校の女子からも声掛けられたりしてんじゃないの。部活来れんのかしら?」
流川君は黙ったままだけど、彩子はこの沈黙を歯牙にも掛けない。
「あ!そうだ、彼女いるってことにしようか!?断るのもラクじゃん、流川!しかも勝手にみんな諦めていくわよ、流川に彼女が出来たって広まれば〜。」
彩子が、流川君の前に駆け寄った。行く手を阻まれた流川君は立ち止まり、一言だけ口にした。
「カノジョ、、、」
「どう?!どう?!」
体を傾け、左右に揺らしながら彩子はしたり顔で流川君に詰め寄っていく。こう言う時の彩子ってほんとすごく楽しそう。物好きなんだよね、この子。私は二人の掛け合いを後方から見ながら思った。
「めんどくさくねーすか?」
「めんどくさいわけないじゃない。彼女いるって言えば、それで終わり!納得するわよ!彼女いないって言うから、みんな夢見るし、頑張っちゃう子が出てきちゃうのよ。そんなもんなのよ。女子から何か聞かれても、彼女いるって答えるだけよ。アンタあんまり喋らないけど、それくらいは言えるでしょ。」
「ナルホド。」
「そういうこと、そういうこと!彩子さんったらナイスアイディアじゃない?!ねっ、名前もそう思わない?」
女の子にキャーキャー言われるのって男の子は口にはしなくても単純に嬉しいものかと思っていた。しかしそういうことに煩わしさを感じているということを、彩子と流川君の会話を黙って聞いていた私は推量する。よっぽど迷惑な話なのだろう。有名人って大変なんだな、とちょっと流川君に同情した。
「うん。だね。好きな人に彼女いるって知ったら、やっぱ諦めるか遠慮するよね、女子は。」
私は彩子に言ったつもりだった。一列になって彩子と私に挟まれる形で下校する流川君は、発言した私の方へ振り返った。ここで流川君は初めて私と目を合わせる。
「、、、誰。バスケ部?」
「あんた何ボケてんのよ!バレー部の子よ!私のクラスの友達。二年なんだから、先輩よ!ホラ挨拶!」
彩子に促された流川君がぎこちなく頭を軽く下げる仕草で挨拶してくれたから、私も挨拶を交わした。
「どうも。、、、こ、こんにちは。」
流川君は私をじっと見て、何か考えを巡らせている、、、、わけでもなさそう。すぐに前を向き直した流川君は無表情で何を考えているのかさっぱり分からなかった。そもそも何も考えていないのかもしれない。だから私もこの時、後にやってくる騒動の非常な出来事に自分が巻き込まれるなんて、これっぽっちも考えやしなかった。
***
流川君に彼女がいるらしい、と噂が立ったのはあの日、流川君が女の子に告白されているのを彩子と偶然見かけた一週間後のことだった。一年生の流川君にかかる噂が、二年の私達にまで広がる理由は簡単だった。噂の発信元が二年の彩子からなのだから。それに同じバスケ部キャプテンである宮城君が加わって、ますます騒ぎは大きくなる。
バレー部の私は、週のうち二日ないし三日を体育館で練習している。男子バレー部と交代で体育館を使用しているので、隣のコートで毎日練習しているバスケ部と顔を合わせるのも週のうち二日ないし三日である。体育館の入り口にはいつも人だかりが出来ていて、男の子のちょっと柄の悪そうな軍団と、流川君目当ての女の子達で賑わっていた。体育館で練習の日は、その後ろから、私はちょっとすみません、と言いながらかき分け、バレー部です、バレー部通ります、とアピールしては自分のコートに歩いていかなければならないので、流川君を見たい女子の多さに、私も間接的に迷惑を被っているうちの一人ではあった。それがなんと、この一週間で見学者は激減である。彩子が吹聴しているせいもあるけれど、確かに効果があったらしい。
がしかし、やはり中には流川君に彼女がいることを信じない根強いファンもいる。鋭い。そんな子達は今日も集団でバスケ部に押し掛けて、彩子は対応に四苦八苦だ。
「流川君に彼女がいるってホントなんですか!?」
「でも、誰もその彼女を見た事ないんです!」
「デマだって言う子もいるんですよ!」
部室に忘れてきた部活用のトレーナーを取りに戻り、私が体育館の入り口に差し掛かった時、流川君のファンの一年の子達に取り囲まれている彩子を見かけた。
「嘘じゃないわよぉ!ホントだって。あ。」
彩子の目が泳いで、横切る私を捉え、呼び止めた。
「名前、ちょっとこっち来て!」
「え、、、、何よ?」
こういう時の彩子は危険だ。苦し紛れに思い付いた嘘をさも真実のように、両手の人差し指で私を指差して、周囲の女子達に伝える。
「ホラホラ、実は、、、えーと、そう!この子と流川が付き合ってるのよ!」
晴れ渡った空に突然起こった雷のように、ピシャリと稲妻が走る。そしてそれはゴロゴロと私を地鳴りのように震わせる。私は苦笑いの末に彩子の下手な一人芝居をやめさせようとして、しどろもどろな声を出した。
「は?いや、ちょ、彩子?」
事態はクルクルと回り始めた。こうなったら坂道を転がるように加速していくのだから不思議でならない。タイミングが良いのか悪いのかも分からないが、この話題の軸となるはずの流川君がテーピングを持ちながら、体育館の扉から顔を出した。
「センパイ、ハサミどこすか。」
「流川!ほらねー、話をすれば、よ。」
彩子は一年生の流川君のファンを前にして、両手を腰に当てながら得意げに話した。
「あなた達が知らないだけで、この子達一緒に帰ったりしてんのよ。ね?」
「え、え、いや、は?」
うろたえるばかりの私を見て、彩子は流川君に話を振る。流川君はテーピングを人差し指に突き刺して小さく、ハサミ、、、と呟くも、彩子に軽くあしらわれていた。
「ハサミは救急箱の下の段!って、流川、ちょっと待ちなさい!先週もね?名前と帰ってたもんねーえ?流川!」
流川君は何も言わない代わりに首を縦に一回だけ短く振った。せ、せせせ先週って、彩子と流川君と私の三人でたまたま校門まで一緒に歩いただけじゃない!と声を上げて反論したかったのに、彩子は私のトレーナーを後ろからグイグイと引っ張ることで黙らせ、また言った。
「最近、この二人は付き合い始めたから、まだ知らない人多いと思うんだけど!えーっと、そうそう、今日も一緒に帰る約束してたもんね?ねーえ?流川!」
彩子は私を跨るように飛び越えて、流川君のアドリブへ期待を込めて、念押しの声をかけていた。流川君も流川君で、感情を見せない無表情さが、真実味を帯びることに一役買ってしまう。
「練習あるんで、もういーすか。」
その場にいた全員が、この言葉のせいで、私達の関係を否定しないがゆえに肯定であると受け取った。未だ私もその場にいたギャラリーのうちの一人で唖然とするのみだ。周囲の女子達も概ね同じような反応で、目を丸くして立ち尽くしていた。えええ?いつから?どうして?お付き合いしていたの?そんなの私が聞きたい。
「はいはい、もうギャラリーは散った散ったー!」
体育館の中にまで彩子の威勢の良い声がこだまする。私の頭の中はぐわん、ぐわんと、大きな鐘を鳴らされたように、状況を理解できずにいる。そして彩子からの耳打ちが更に私に追い討ちをかけて複雑に響いた。
「部活終わったら、流川寄越すから、二人で話しつけといてくれる?なんかノリでこんなんなっちゃった。ごめーん。」
全然悪びれた様子のない彩子に対して、流川君のこと全然知らないのに急に二人にされても!なんで!?やだよ!!と叫びそうになってギリギリで堪えた。コートの向こうの流川君に聞こえてしまうといけないと思って口には出せない。だけどそれに代わる拒否の言葉が出てこないうちに、彩子はバスケ部のマネージャーの仕事に戻り、私から離れていった。こうなったら後でちゃんと流川君とは話しをしなければ。先程のことは全て撤回してもらおう。そう私は弱々しく決意して部活に戻った。
***
「どうも。」
驚きと戸惑いで、ほぼ後半は記憶のない部活動を終えて、彩子に指定された一年の駐輪場の裏で流川君と落ち合った。一度もまともに会話したことのない流川君に何と切り出そうか迷ったが、余分な会話は一切入れず、今日の議題だけを投じた。
「聞いてないんだけど。」
相手は一つ下の後輩だ。私だって先輩風をふかせて少し強気に出ても良いことにした。じっとりとした上目遣いで、私の頭上に位置する流川君の目を見る。こうして恨みがましくも流川君に臨んだのだが、目の前の彼はすかさずこう言った。
「オレも聞いてねーす。」
がくっ。上目遣いの私の視線は一気に撃ち落とされて下降する。私は落としかけた肩をなんとか持ち直すも、空いた口はポカンとして塞がらない。そのまま顎までもスコンと外れてしまいそうだった。ええっと、私達は一体全体何をこれから話し合うんだったっけ。自分達の置かれた状況と互いの気持ちの乖離が、空中で面白くじゃれあい、赤の他人のフリをするものだから、私は先程の強気で行こうと決めた先輩面も忘れて笑ってしまう。
「プっ!って、いやいやいや!全っ然!意味っ!意味が分かんないから!流川君、キミ、いつもそんな感じなの!?そんなどうでもいいわけ!?」
流川君は黙って私の話を聞いている。この様子だけだととても素直そうな一年生に見えるのに、ボケているのかしら、この子。ちょっとやそっとのことでは物事に動じそうにない感じは、周りの空気を全く読まないせいだろう。関心の無いことには、余計なエネルギーを使いたくないのかもしれない。よくそれで生きてこれたなと、逆に心配になってしまう。
「えっと、、、彩子は?あの後、何か言ってた?」
「バスケ部にとっても都合良いから、、、。」
「うん?」
「このままにしとけって。」
「はい?」
「そう言っておけと、言われたっす。」
「あ、彩子、、、、あいつ。」
彩子の企んだような目と、ニヤニヤした口元を手で隠す笑い顔がチラついた。勘弁してよ。なんで全然関係ない私が、流川君の彼女役を演じるなんて頓珍漢なことに巻き込まれなきゃいけないんだろう。ふぅーとため息を吐いて、流川君に抗議しようと顔を上げると、流川君は私の目を見て言った。
「とりあえず付き合って下サイ。」
「つ、つつつ、付き、、付き合って、、、?!!?流川君と!?」
私のこと、好きなんですか?!と声を発する前に流川君が発言した。
「あ、2月まで。この話に。付き合ってくれれば。」
「あ!あぁ〜!そっち〜!」
「、、、そっち?」
「いやこっちの話!な、なるほど!はい!わかりました!ええ!」
流川君の言い直しにより、私は自意識過剰な恥をかく一歩手前で救われた。1月も中旬に差し掛かろうとしているこの時期に、告白かと思った私の体は内側からカッカと熱くなって、脇汗が半端ない。2月まで、というのは彩子も言っていたように、バレンタインデーを見越してという意味なのだろう。付き合うというのは、この嘘の彼女話に乗っかれということ。要するに彼女の名義貸しなのだ。流川君の告白めいた漠とした言い方を私は噛み砕いて理解することが出来たから、なるほど。よく分かりました。了解です。という意味を込めて、「はい!」と返事をしたけれど。ひどい勘違いに興奮してしまった恥ずかしさから、それを隠そうと咄嗟に勢いよく、声が出てしまっただけだ。
「ぶっちゃけここ一週間、あんま人寄ってこなくて。スゲー良いカンジなんす。」
なのに流川君は、私が名義貸しに合意したとみなしたのか、自身の身の回りの変化について伝えてきてくれた。し、しまった。ち、違うの、流川君、、、さっきのは、、、と、私が手を伸ばして訂正するタイミングを見計らっていると。
「昼休みも邪魔入らねーで寝れるし。」
流川君は少しだけ私に向かって笑ってみせた。それは優しいとか楽しいとか、微笑むとかいった種類のものではなくって、これまで散々迷惑だと思っていたことから解放された思いとか、心が晴れてせいせいするとでも言いたいような、シニカルな笑い方に近かったかもしれない。だけど、いつも無表情と聞いてた流川君がこんな風に気持ちを見せてくれたことが、私にはちょっと特別に思えてしまった。しかも顔が整っているだけあって、見栄えが良い。そしてこの特別感は私の胸を積極的に叩いてきた。ホントに、ホントにちょっとだけ。だけど私はかっこいいとはまだ言ってないぞ、とざわついた自分の胸に焦ったように言い聞かせた。
流川君が、もう帰りたいとでも言うように、自転車のスタンドを軽く蹴って自転車を動かした。ガシャンという自転車が揺れる音で、私の心も何かが解除されたみたいに揺れ動く。この関係は期限付き。流川君か彩子にでも後になって種明かしでも、何でもしてもらおう。私はあくまでも協力者的立場で臨もうと観念する。顔もかっこいいし。あ、いや、待って。私がかっこいいと思ってるわけじゃないから。周囲の女子の評価が、だから。と心の中でもう一人の自分に弁明するように努めてクールに流川君に話しかけた。
「私、土日も部活だし、何も特別なことしないよ?」
「オレも部活っす。」
「あ、そうか。じゃあ、何も変わらないか。今まで通りで。それから私、歩きだから流川君、あそこの校門まで行ったらバイバイしよ。」
「うす。」
もう見えている校門を指して私が言うと、自転車を引きながら、流川君が横並びで歩く。話の決着もついたことだし、このまま校門まで会話なく辿り着いて、さようならをしようと思っていた。それで良いと思っていた。ところが意外にも流川君が口を開いた。
「先輩、名前何ていうんすか?」
「え?そこから?!」
確かに流川君に名前を名乗ったりしていなかったけれど。よくそれで私と付き合うなんてままごとみたいなことをやろうと思ったな。またしても私は笑いを堪えつつ、ゆっくりと名乗った。
「苗字名前。」
漢字。と流川君が続けて尋ねてきた。口頭で一つ一つ丁寧に教えたけど、流川君の頭には入っていかないらしい。頭の上にハテナマークを付けた流川君は聞いた。
「ペンないすか?」
「え、あ、うん。これ。ボールペンなら。」
「書いて。漢字。」
無言で流川君は手の甲を私に差し出した。どうやら紙は待ち合わせていないらしい。書いてって、私の名前を?手の甲に?ああそういうことかと返事をする代わりに、私はボールペンをノックした。校舎側からの少しの灯りを頼りに、流川君の手の甲に自分の名前を書く。まさかフリだとは言え、付き合うと決めてから、自己紹介をし、手の甲に自分の名前を書くなんて、なんだかおかしな二人だと思ったら、笑いが止まらない。
「だけど別に漢字まで覚えなくってもいいのに。」
流川君のゴツゴツと骨張った手の甲の、平な場所を見つけて文字を刻んでいく。この関係が限られたものであるのであれば、お互いに残るものはより少ない方が良い気がする。そんなことを思っている私の頭の上から流川君の声が降ってくる。
「なるべく忘れねーように。」
「それ覚える気ないでしょ、流川君、、、はい!」
私が書き終えた文字をなぞるように黙って見つめる流川君はちょっと可愛いかった。
「苗字先輩、、、。」
「うん。せっかく書いたんだから頑張って覚えてね。」
「筆圧強めすね。手、痛かったんで、覚えられそうっす。」
「何それ!自分が書けって言ったんじゃん!筆圧強めってなんか失礼〜!あははは!」
他人の手に文字書くとか難しくない?なんて私がケラケラと笑いながら文句を言ったら、流川君は私の手の甲をすくい上げて、右手にペンを取った。
「オレも。」
「何?流川君も?いーよ、書かなくって。流川君の名前知ってる。楓君でしょ?有名だもん。」
そんな私の反論はまるで意に介さず、流川君は無表情で一時停止し、私にボールペンを返却しながら言った。
「、、、油性ペン持ってないっすか?」
「なんで、私には油性ペンで書こうとするのよ!あははははっ!」
世の中に面白いが転がっているのなら、積極的に拾っていくし、積極的に担っていきたい。多分、きっと、流川君もそういうことが嫌いではない種の人だと思う。ただ本人に自覚はないし、態度にも出さないでそう言うことを平気で言うのだから、それがとっても面白い。と、陽気な解釈をしたら、何だかそれを流川君に伝えたくなってしまった。
「流川君って、凄く面白い!」
「、、、言われたことないす。」
「えー!ほんとにー?!」
私が笑いながら驚くことにも、流川君は決してうろたえないし、動じないし、笑わない。でも私の歩くペースに合わせて、自転車を引きながら隣を歩いてくれるから、嫌われている訳ではないのだろう。まあ、最初から嫌われていたら、嘘でも付き合うなんてことしなさそうだな、流川君は。彼氏彼女の関係なんてお互いにこれっぽっちも抱いていないからか、気負いなく接することが出来そうだ。
私の楽しいを出来るだけ流川君にも知って欲しいなと思った。そしてそんな気持ちが共有できたらもっと楽しい。私だけが流川君の面白さを知るのも何となく愉快な気がしないでもない。明日からの流川君との関係に心を馳せる。なんだか遠足の前の日の小学生みたいに、ワクワクし始めた自分が可笑しい。私は校門を出て流川君の背中を見送った。
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