砂に消える抑揚(牧)
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海岸の方から、傾斜がある砂山を踏み付けるようにして彼はこちらに歩いてきた。頂上にいる私はレジャーシートに自身も重しとなって、どっしりと座り込んだ荷物番。よく目を凝らして見ると、彼の制服のシャツはぐっしょりと張り付いており、髪の毛からポタポタと滴る海水は、足元の砂の色を変え、濡れた様子を教えてくれた。じっとその様子を見つめ、近づいて来る彼に声が届くであろう距離まで待って、私はようやく声をかける。
「牧君、ビショビショじゃん。」
「めっちゃ濡れた。っていうか濡らされた。くそ、神のやつ。」
今日は部活が早めに終わったので、バスケ部のみんなで近くの海に遊びに来た。マネージャーの私は付いて行く気はなかったのだけど、提案者である一年生の清田君が前日に、
「オレ、今年まだ一度も海入ってないす!明日部活終わるの早いじゃないですか!行きましょーよ!名前さんも!」
なんて、強引に誘われてしまった。うちのバスケ部に、ここまで人との距離を短時間で詰めてくるようなタイプはいなかったけれど、清田君の素直さと先輩に対しても物怖じしない人懐っこさは、接していて悪いものではなかったし、そしてちょっと羨ましい。そんな彼の陽気さに連れられて、フラフラと部活後に付いてきてしまった。そしてそれは、牧君も同様。
「だーかーら、水着持って来たら良かったのに。」
「あんなにがっつり泳ぐの清田くらいだろ。」
制服のままでびちゃびちゃの牧君が言うには、牧君が浜辺に近寄った際に、テンション高めの後輩達に海に投げ込まれたそうだ。牧君はバスケを離れると、温厚で、あんまり怖くないものだから、後輩達も調子に乗って敬語で話す同級生みたいに扱われることがある。そんな牧君なので、後輩とのやりとりが容易く想像できて、ずぶ濡れの牧君の姿もちょっと納得。きっと、お前ら後で覚えとけよ、なんて言って、一番に忘れるのは牧君だろう。そんなことを想像して、可笑しくなって笑ってしまった。
「着替え持ってきてる?」
「部活用の替えのTシャツが何枚かあるだろ。」
「どこ?」
「後ろのバッグ。」
「ああ、これ?はい。」
「すまん。」
張り付いた制服のシャツを気持ち悪そうに脱ぐ牧君へ、タオルと共にTシャツを渡した。
「ズボン、どうするの?さすがに私の前で着替えられるのはちょっと、、、。」
「どこか着替えられるとこあるか?」
「トイレは向こうにあるよ。あ。あの自販機裏とかは?」
「、、、、遠い。」
そう言って、牧君は濡れたズボンのまま、私の隣に座り込んだ。牧君って、面倒くさいととりあえず保留にする癖、たまに出るんだよね。
一年の夏は、同級生とは思えない風貌に気圧されてしまって、すごく真面目でしっかりした男の子なんだなあ、とマネージャーの私はコートの外から見ているだけだった。二年の夏になると、気にするところと気にしないところがはっきりしていて、どちらに焦点を当てるかで、牧君への印象はガラリと変わった。そして、三年の夏である今は、部活の顔とはまた違う、誇張も虚飾もない等身大の牧君と過ごしている。
「名前、何食べてんだ?」
「フライドポテト。そこで売ってた。」
道路脇にある、ポップなカラーリングが施された移動販売車を指差して答えた。
「高砂君が奢ってくれた。」
おそらく牧君にとっては要らない情報も付け加えて私は報告する。牧君は、少しだけつまらなそうな顔をしながら独り言のように呟いた。
「、、、オレに言えよ。」
あ、牧君の不満がまた一つ増えちゃった、と私は思った。しかし、牧君に対しては正直でありたいという私の心構えを、ドミノのように少しのズレや衝撃で台無しにされたくはなかった。反発と言うほどではないけれど、私だって不満を含んだ声色になる。
「たまたま一緒に並んでたんだよ。そしたら高砂君が一緒に買ってくれるっていうし。それに牧君は、あっちで神君とか清田君と遊んでたじゃん。」
まあ、そーだけど。と牧君は、手を組んだ両手を膝に乗せて、そっぽを向いた。だからといって、お互いに溝を深めたいわけではない。会話は平然と続けられるのだ。これが私達の間では不思議と当たり前に成立するのは、牧君の緩く穏やかな精神によるものが大きい。
「食べる?牧君も。ほら。」
「あー、じゃあ。」
私は牧君の口にフライドポテトを放り込む。膝を曲げ、背中を丸めるようにしてモグモグと黙って食べる牧君は、大きな小動物という矛盾した表現をしたくなって、つい私はにやけた。
「しょっぱいな。これ、塩かけすぎじゃないか?」
「だよね。私も思ってた。もういらないから、牧君に全部あげる。」
オレだっていらないよって顔をしている牧君に、私はフライドポテトを押し付ける。牧君はそれを渋々受け取りながら言った。
「名前も、足だけでも海に入れば。」
「いいよ、海水でベッタベタになるもん。帰る時、面倒くさいじゃない。」
「確かにな。ほら、オレも、もうベッタベタ。」
そうして、牧君は手の甲を私の頬に押し付けてきた。フライドポテトを私が牧君に押し付けたみたいに。気温は夕方とはいえ、まだじっとりと汗を感じる暑さで、さらに海から上がってくる潮風は粘っこく肌に纏わり付き、不快指数は高かったはずなのに、牧君の手が触れたら、目の覚めたかのような新しい気持ちになる。風に揺れる海面は太陽のかけらが落ちてきたみたいに、チラチラと眩しく反射して私は目を細めた。バスケ部のみんなはふざけあって波の向こうに居るけれど、もう声は聞こえなくなっていた。さっきまで波の音が楽しげな声に被さって、ここまで届いていたはずなのに。牧君と居ると、いつもそう。こうやって錯覚に陥る。
「牧君、海の匂いがする。」
私が呟くと、牧君は私をじっと見た。牧君の親指が私の頬を這って、私の唇に触れた。そして牧君は企むような笑みを反射的に見せ、触れたままの親指をそのままぐっと押し付けて私の口内に潜り込んできたから、私は舌先で牧君の親指を舐めた。ちょっとからかってやろうと思ってのことだったのに、牧君の親指は面白がって、なおも私の口内に居座ろうとするもんだから、甘く噛んで追い出した。
「いて。噛むなよ。」
「牧君の指、しょっぱい。さっきのフライドポテトより。」
「ははは。海の味だな。」
ああ、何やってんだろ、私達。しょっぱいどころか、甘い空気になりかけて、ハッとする。ここは学校の延長で、バスケ部のみんなも居るわけで、イチャイチャしている場合ではなかった。みんなに見られたらどうするの。そんな私の茹だる気持ちを知ってか知らずか、牧君は先程までの二人の空気を纏ったまま、話を続けた。
「名前。あのさ、そろそろ付き合ってること、みんなに言ってもよくないか?」
「は!?今その話?ヤダってば。ダメだってば。」
私は海を凝視したまま、牧君を見ないで大きく拒否する。二年の終わり頃、牧君に告白された。薄々、牧君から好意を持たれていることは分かっていたけれど、自分の気持ちには気付かないフリをしてマネージャーとして接していたというのに、告白された途端に欲を出してしまったのは私。けれども超高校級の、それも校内に留まらず全国の人達から注目を集める牧君の隣に何も考えずに突っ立っていられる程、私は大胆でも、神経が図太いわけでも、鈍いわけでもない。毎回、試合会場での牧君が痛いほど大勢の視線を浴びているのをそばで見ていて(牧君は当然何とも思っていないので、痛いと思っているのは私だけだろう)、そんな牧君へ向けられる視線が私という存在で、好奇の目に変わることは避けたかった。だから付き合っていることは、内緒にしたいと伝えたのは私。そして今日も私は水ぶくれのように皮膚の下に気持ちを溜めて牧君に言う。
「高頭先生に何か言われたらやだもん。最悪、マネ辞めろなんて言われたら?これまでみたいに毎日牧君に会えないし、体育館に行けないし、そばで練習を見てることもできなくなるよ。そんなの嫌だよ。牧君だって嫌でしょ?」
と、私がそれっぽい理由を並べ立てて、牧君の機嫌を取り、そして牧君は私の気持ちを汲んでくれて、二人の関係を維持してきたというのに近頃の牧君は、そんな私に非常に懐疑的だ。
「先生、そんなこと言うか?」
「言う。絶対。」
ホントはそんなこと、高頭先生は言わないと思うけど、ここは強く思い込んで返した。牧君は、そんな私に対してハイハイ、と用意していたような返事をして、体の後ろに手をつき、投げやりに海側に向かって足を伸ばした。牧君の問いは、私が今日も意地を張って態度を変えない、ということを確認したいだけのようだった。自分でも分かっているよ。こんな考えが幼稚で浅はかだって。牧君みたいに堂々とできたらどんなに良いだろうって。でも、なんとなく引き下がれないところまできてしまっている。そして牧君はちゃんと分かっている。実はきっかけを待っているのは牧君よりも私の方だということを。だからこそ牧君はさっきみたいに、会話の中にきっかけの種を撒いてくれるというのに、私は素直になれずに周りの雑草をブチブチと引っこ抜いているだけだ。ごめんね、こんなねじけた性格で。私がそんなことを考えていると、素直さという面においては、今一番見習いたい後輩が、私達のところに駆けてくるのが見えた。
「どうしたの?清田君。」
「すみません!あの、、、、!牧さんと、名前さんって付き合ってるんですか?!」
清田君の一言は、心臓に鳥肌が立ったかのように体の内側からザワつく感覚にさせた。何で牧君だけでなく今日は清田君までもこんな話題を持ち出してくるのか。拍動の乱れを整える時間稼ぎに、私は清田君へ聞き直した。
「えぇっ、何!?いきなり!」
「あ、えーと、なんか先輩達とジャンケンして負けました!」
清田君は元気に答えたのだけれども、この一言でジャンケンをして負けた人が、なかなか聞けない真相を追及してくる、というゲーム性を持っていることが分かってしまった。それって完全に罰ゲーム的な感じになってるじゃん、と私と牧君の関係がもはやバスケ部のみんなのからかいの対象になってしまっていることにげんなりした。しかし、目の前の清田君はゲームに従順なだけで、私達への質問自体は彼にとって大した意味などないのだろう。現に今も、ケラケラと笑いながら、オレ、こういう時ジャンケン弱いんすよ。なんて言っている。無邪気なだけの彼に呆れながら私は言う。
「つ、き、あっ、て、な、い!何度も言ってるじゃん!ねえ、牧君!?」
大袈裟に否定したあと、私が牧君に話を振ったので、清田君も牧君に目を向ける。牧君は清田君の視線を受けて手足を伸ばしたまま、こう答えた。
「、、、だとさ。付き合ってないんじゃないか?」
何よ、その含みある言い方は。清田君は両手で頭を抱えて、分かりやすく混乱した。
「えー!えー!何すかー!その曖昧な感じはっ。オレ、これ以上突っ込んで聞けないじゃないすか、、、。」
「そーよ!牧君!そこはちゃんと否定してよ、、、。」
私も清田君と一緒になって、頭を抱え込んで牧君を責める。そんな私の一挙一動を、牧君は面白がるように見て、薄く笑った。
「清田。」
「はい!何すか。」
「これはみんなに言っとけ。オレは名前のことめちゃくちゃ好きで、めちゃくちゃ押してるんだよ。だからお前ら余計なことして邪魔すんなよ、ってな。」
「う、あ、はい。」
牧君の決然たる口調は、相手が何か言うことを許さない響きがあって、清田君は目を丸くして言葉を失っているようだった。そして勿論、牧君の隣に座る私も。
「あとひとつ忘れてた。」
「え?」
「そのうち付き合ってるって言わせるから。名前に。」
「うわ、牧さん、かっけー、、、。」
「、、、か、かっこ良くないっ!!」
慌てて私は、清田君の牧君に対する憧れの眼差しに待った、をかけようとしたが、清田君はさっさと罰ゲームの実行結果を持ち帰るべく、バスケ部のみんなの所へ駆けて行ってしまった。残された私は、未だに胸を強く叩かれているようで落ち着かない。
「もう。何であんなこというの。清田君、絶対今のみんなに言っちゃってるよ。ほらぁ、見てよ。なんか騒いでるよ、あそこ。明日から部活やりにくいよ。」
「あのな。付き合ってる、とは言ってないだろ?」
そういう問題じゃないのよ、と冗談とも本気ともつかない顔をした牧君へ抗議しても事態は変わりそうになく、何よりも人前で私の事を好きだと公言できてしまう牧君に、これ以上抗えるはずがなかった。どうも牧君と一緒にいると、私の心臓はハラハラをドキドキと取り違えてしまっていけない。
「さてと、着替えて帰るとするかな。名前、もうあいつら置いて、先に帰ろうぜ。」
牧君は立ち上がった。私も立ち上がって、スカートについた砂をパンパンと払ったら、牧君が少し驚いたように反応した。
「お。」
「な、何よ。」
「いや。あ、名前も帰るんだ、と思って。」
「牧君が帰ろうって言ってきたんじゃない。」
「名前、普段、オレと一緒に帰るの嫌がるだろ。人の目、気にするし。」
「、、、清田君にあんなに自信ありげに言っちゃってるのに、私が頑なに否定していると、なんか牧君が痛々しく思えてきまして。」
「痛々しいって、あのな。」
おどける私はその勢いを借りて、スルリと手を伸ばして牧君の手を握り、指先で気持ちを伝えてみる。ザラザラした砂浜を裸足で歩いた時の、ダイレクトに伝わる足裏のこそばゆさにテンションが上がって浮かれるみたいに、私の牧君への気持ちもゆっくりと踏み締めて、その感触と向き合った。素直になるには、まだ胸のあたりがくすぐったい。
「あはははは。でも好きだよ、牧君のこと。」
「でもって何だよ。でもって。」
牧君は旋毛を曲げた口ぶりで、しかしより一層の力を込めて私の手を握り返してきた。牧君の隣に並んで歩くことすら見えない何かに気兼ねしていた私を大きく笑って、安心させてくれるように。
「牧君、ビショビショじゃん。」
「めっちゃ濡れた。っていうか濡らされた。くそ、神のやつ。」
今日は部活が早めに終わったので、バスケ部のみんなで近くの海に遊びに来た。マネージャーの私は付いて行く気はなかったのだけど、提案者である一年生の清田君が前日に、
「オレ、今年まだ一度も海入ってないす!明日部活終わるの早いじゃないですか!行きましょーよ!名前さんも!」
なんて、強引に誘われてしまった。うちのバスケ部に、ここまで人との距離を短時間で詰めてくるようなタイプはいなかったけれど、清田君の素直さと先輩に対しても物怖じしない人懐っこさは、接していて悪いものではなかったし、そしてちょっと羨ましい。そんな彼の陽気さに連れられて、フラフラと部活後に付いてきてしまった。そしてそれは、牧君も同様。
「だーかーら、水着持って来たら良かったのに。」
「あんなにがっつり泳ぐの清田くらいだろ。」
制服のままでびちゃびちゃの牧君が言うには、牧君が浜辺に近寄った際に、テンション高めの後輩達に海に投げ込まれたそうだ。牧君はバスケを離れると、温厚で、あんまり怖くないものだから、後輩達も調子に乗って敬語で話す同級生みたいに扱われることがある。そんな牧君なので、後輩とのやりとりが容易く想像できて、ずぶ濡れの牧君の姿もちょっと納得。きっと、お前ら後で覚えとけよ、なんて言って、一番に忘れるのは牧君だろう。そんなことを想像して、可笑しくなって笑ってしまった。
「着替え持ってきてる?」
「部活用の替えのTシャツが何枚かあるだろ。」
「どこ?」
「後ろのバッグ。」
「ああ、これ?はい。」
「すまん。」
張り付いた制服のシャツを気持ち悪そうに脱ぐ牧君へ、タオルと共にTシャツを渡した。
「ズボン、どうするの?さすがに私の前で着替えられるのはちょっと、、、。」
「どこか着替えられるとこあるか?」
「トイレは向こうにあるよ。あ。あの自販機裏とかは?」
「、、、、遠い。」
そう言って、牧君は濡れたズボンのまま、私の隣に座り込んだ。牧君って、面倒くさいととりあえず保留にする癖、たまに出るんだよね。
一年の夏は、同級生とは思えない風貌に気圧されてしまって、すごく真面目でしっかりした男の子なんだなあ、とマネージャーの私はコートの外から見ているだけだった。二年の夏になると、気にするところと気にしないところがはっきりしていて、どちらに焦点を当てるかで、牧君への印象はガラリと変わった。そして、三年の夏である今は、部活の顔とはまた違う、誇張も虚飾もない等身大の牧君と過ごしている。
「名前、何食べてんだ?」
「フライドポテト。そこで売ってた。」
道路脇にある、ポップなカラーリングが施された移動販売車を指差して答えた。
「高砂君が奢ってくれた。」
おそらく牧君にとっては要らない情報も付け加えて私は報告する。牧君は、少しだけつまらなそうな顔をしながら独り言のように呟いた。
「、、、オレに言えよ。」
あ、牧君の不満がまた一つ増えちゃった、と私は思った。しかし、牧君に対しては正直でありたいという私の心構えを、ドミノのように少しのズレや衝撃で台無しにされたくはなかった。反発と言うほどではないけれど、私だって不満を含んだ声色になる。
「たまたま一緒に並んでたんだよ。そしたら高砂君が一緒に買ってくれるっていうし。それに牧君は、あっちで神君とか清田君と遊んでたじゃん。」
まあ、そーだけど。と牧君は、手を組んだ両手を膝に乗せて、そっぽを向いた。だからといって、お互いに溝を深めたいわけではない。会話は平然と続けられるのだ。これが私達の間では不思議と当たり前に成立するのは、牧君の緩く穏やかな精神によるものが大きい。
「食べる?牧君も。ほら。」
「あー、じゃあ。」
私は牧君の口にフライドポテトを放り込む。膝を曲げ、背中を丸めるようにしてモグモグと黙って食べる牧君は、大きな小動物という矛盾した表現をしたくなって、つい私はにやけた。
「しょっぱいな。これ、塩かけすぎじゃないか?」
「だよね。私も思ってた。もういらないから、牧君に全部あげる。」
オレだっていらないよって顔をしている牧君に、私はフライドポテトを押し付ける。牧君はそれを渋々受け取りながら言った。
「名前も、足だけでも海に入れば。」
「いいよ、海水でベッタベタになるもん。帰る時、面倒くさいじゃない。」
「確かにな。ほら、オレも、もうベッタベタ。」
そうして、牧君は手の甲を私の頬に押し付けてきた。フライドポテトを私が牧君に押し付けたみたいに。気温は夕方とはいえ、まだじっとりと汗を感じる暑さで、さらに海から上がってくる潮風は粘っこく肌に纏わり付き、不快指数は高かったはずなのに、牧君の手が触れたら、目の覚めたかのような新しい気持ちになる。風に揺れる海面は太陽のかけらが落ちてきたみたいに、チラチラと眩しく反射して私は目を細めた。バスケ部のみんなはふざけあって波の向こうに居るけれど、もう声は聞こえなくなっていた。さっきまで波の音が楽しげな声に被さって、ここまで届いていたはずなのに。牧君と居ると、いつもそう。こうやって錯覚に陥る。
「牧君、海の匂いがする。」
私が呟くと、牧君は私をじっと見た。牧君の親指が私の頬を這って、私の唇に触れた。そして牧君は企むような笑みを反射的に見せ、触れたままの親指をそのままぐっと押し付けて私の口内に潜り込んできたから、私は舌先で牧君の親指を舐めた。ちょっとからかってやろうと思ってのことだったのに、牧君の親指は面白がって、なおも私の口内に居座ろうとするもんだから、甘く噛んで追い出した。
「いて。噛むなよ。」
「牧君の指、しょっぱい。さっきのフライドポテトより。」
「ははは。海の味だな。」
ああ、何やってんだろ、私達。しょっぱいどころか、甘い空気になりかけて、ハッとする。ここは学校の延長で、バスケ部のみんなも居るわけで、イチャイチャしている場合ではなかった。みんなに見られたらどうするの。そんな私の茹だる気持ちを知ってか知らずか、牧君は先程までの二人の空気を纏ったまま、話を続けた。
「名前。あのさ、そろそろ付き合ってること、みんなに言ってもよくないか?」
「は!?今その話?ヤダってば。ダメだってば。」
私は海を凝視したまま、牧君を見ないで大きく拒否する。二年の終わり頃、牧君に告白された。薄々、牧君から好意を持たれていることは分かっていたけれど、自分の気持ちには気付かないフリをしてマネージャーとして接していたというのに、告白された途端に欲を出してしまったのは私。けれども超高校級の、それも校内に留まらず全国の人達から注目を集める牧君の隣に何も考えずに突っ立っていられる程、私は大胆でも、神経が図太いわけでも、鈍いわけでもない。毎回、試合会場での牧君が痛いほど大勢の視線を浴びているのをそばで見ていて(牧君は当然何とも思っていないので、痛いと思っているのは私だけだろう)、そんな牧君へ向けられる視線が私という存在で、好奇の目に変わることは避けたかった。だから付き合っていることは、内緒にしたいと伝えたのは私。そして今日も私は水ぶくれのように皮膚の下に気持ちを溜めて牧君に言う。
「高頭先生に何か言われたらやだもん。最悪、マネ辞めろなんて言われたら?これまでみたいに毎日牧君に会えないし、体育館に行けないし、そばで練習を見てることもできなくなるよ。そんなの嫌だよ。牧君だって嫌でしょ?」
と、私がそれっぽい理由を並べ立てて、牧君の機嫌を取り、そして牧君は私の気持ちを汲んでくれて、二人の関係を維持してきたというのに近頃の牧君は、そんな私に非常に懐疑的だ。
「先生、そんなこと言うか?」
「言う。絶対。」
ホントはそんなこと、高頭先生は言わないと思うけど、ここは強く思い込んで返した。牧君は、そんな私に対してハイハイ、と用意していたような返事をして、体の後ろに手をつき、投げやりに海側に向かって足を伸ばした。牧君の問いは、私が今日も意地を張って態度を変えない、ということを確認したいだけのようだった。自分でも分かっているよ。こんな考えが幼稚で浅はかだって。牧君みたいに堂々とできたらどんなに良いだろうって。でも、なんとなく引き下がれないところまできてしまっている。そして牧君はちゃんと分かっている。実はきっかけを待っているのは牧君よりも私の方だということを。だからこそ牧君はさっきみたいに、会話の中にきっかけの種を撒いてくれるというのに、私は素直になれずに周りの雑草をブチブチと引っこ抜いているだけだ。ごめんね、こんなねじけた性格で。私がそんなことを考えていると、素直さという面においては、今一番見習いたい後輩が、私達のところに駆けてくるのが見えた。
「どうしたの?清田君。」
「すみません!あの、、、、!牧さんと、名前さんって付き合ってるんですか?!」
清田君の一言は、心臓に鳥肌が立ったかのように体の内側からザワつく感覚にさせた。何で牧君だけでなく今日は清田君までもこんな話題を持ち出してくるのか。拍動の乱れを整える時間稼ぎに、私は清田君へ聞き直した。
「えぇっ、何!?いきなり!」
「あ、えーと、なんか先輩達とジャンケンして負けました!」
清田君は元気に答えたのだけれども、この一言でジャンケンをして負けた人が、なかなか聞けない真相を追及してくる、というゲーム性を持っていることが分かってしまった。それって完全に罰ゲーム的な感じになってるじゃん、と私と牧君の関係がもはやバスケ部のみんなのからかいの対象になってしまっていることにげんなりした。しかし、目の前の清田君はゲームに従順なだけで、私達への質問自体は彼にとって大した意味などないのだろう。現に今も、ケラケラと笑いながら、オレ、こういう時ジャンケン弱いんすよ。なんて言っている。無邪気なだけの彼に呆れながら私は言う。
「つ、き、あっ、て、な、い!何度も言ってるじゃん!ねえ、牧君!?」
大袈裟に否定したあと、私が牧君に話を振ったので、清田君も牧君に目を向ける。牧君は清田君の視線を受けて手足を伸ばしたまま、こう答えた。
「、、、だとさ。付き合ってないんじゃないか?」
何よ、その含みある言い方は。清田君は両手で頭を抱えて、分かりやすく混乱した。
「えー!えー!何すかー!その曖昧な感じはっ。オレ、これ以上突っ込んで聞けないじゃないすか、、、。」
「そーよ!牧君!そこはちゃんと否定してよ、、、。」
私も清田君と一緒になって、頭を抱え込んで牧君を責める。そんな私の一挙一動を、牧君は面白がるように見て、薄く笑った。
「清田。」
「はい!何すか。」
「これはみんなに言っとけ。オレは名前のことめちゃくちゃ好きで、めちゃくちゃ押してるんだよ。だからお前ら余計なことして邪魔すんなよ、ってな。」
「う、あ、はい。」
牧君の決然たる口調は、相手が何か言うことを許さない響きがあって、清田君は目を丸くして言葉を失っているようだった。そして勿論、牧君の隣に座る私も。
「あとひとつ忘れてた。」
「え?」
「そのうち付き合ってるって言わせるから。名前に。」
「うわ、牧さん、かっけー、、、。」
「、、、か、かっこ良くないっ!!」
慌てて私は、清田君の牧君に対する憧れの眼差しに待った、をかけようとしたが、清田君はさっさと罰ゲームの実行結果を持ち帰るべく、バスケ部のみんなの所へ駆けて行ってしまった。残された私は、未だに胸を強く叩かれているようで落ち着かない。
「もう。何であんなこというの。清田君、絶対今のみんなに言っちゃってるよ。ほらぁ、見てよ。なんか騒いでるよ、あそこ。明日から部活やりにくいよ。」
「あのな。付き合ってる、とは言ってないだろ?」
そういう問題じゃないのよ、と冗談とも本気ともつかない顔をした牧君へ抗議しても事態は変わりそうになく、何よりも人前で私の事を好きだと公言できてしまう牧君に、これ以上抗えるはずがなかった。どうも牧君と一緒にいると、私の心臓はハラハラをドキドキと取り違えてしまっていけない。
「さてと、着替えて帰るとするかな。名前、もうあいつら置いて、先に帰ろうぜ。」
牧君は立ち上がった。私も立ち上がって、スカートについた砂をパンパンと払ったら、牧君が少し驚いたように反応した。
「お。」
「な、何よ。」
「いや。あ、名前も帰るんだ、と思って。」
「牧君が帰ろうって言ってきたんじゃない。」
「名前、普段、オレと一緒に帰るの嫌がるだろ。人の目、気にするし。」
「、、、清田君にあんなに自信ありげに言っちゃってるのに、私が頑なに否定していると、なんか牧君が痛々しく思えてきまして。」
「痛々しいって、あのな。」
おどける私はその勢いを借りて、スルリと手を伸ばして牧君の手を握り、指先で気持ちを伝えてみる。ザラザラした砂浜を裸足で歩いた時の、ダイレクトに伝わる足裏のこそばゆさにテンションが上がって浮かれるみたいに、私の牧君への気持ちもゆっくりと踏み締めて、その感触と向き合った。素直になるには、まだ胸のあたりがくすぐったい。
「あはははは。でも好きだよ、牧君のこと。」
「でもって何だよ。でもって。」
牧君は旋毛を曲げた口ぶりで、しかしより一層の力を込めて私の手を握り返してきた。牧君の隣に並んで歩くことすら見えない何かに気兼ねしていた私を大きく笑って、安心させてくれるように。
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