銀色焦点を歩く(流川)
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「ったく、なんで私が荷造りなんか手伝わなきゃいけないのよっ!」
目の前の荷物をガサツに段ボールに詰め込んでは、積み上げていく。段ボールに視界を遮られている私は、その向こうにいるであろう同じ部屋の男に向かって文句を言った。
「ウルセー。口じゃなくて手を動かせ。」
その男は、流川楓。大学時代の同級生。卒業してもう何年も経つし、楓は大学の途中で渡米していて、こうして会うのも久しぶり。そんな楓が連絡をよこしたと思ったら、これだ。
「アンタ、何も手を付けてないじゃん!」
「だから、名前を呼んだ。」
「あのね!アンタ、稼いでんだから引越し業者に頼めばいいでしょ!」
「オレ、自分のモノ、他人に勝手に触られんの嫌。」
「神経質かよ!」
楓は現在、アメリカのプロバスケットプレイヤーとして活躍している、らしい。らしい、、、というのは、私が何一つバスケットに興味がないので情報に疎いせい。学生時代、楓のバスケットの試合を見に行った時の感想が、「なんかボール追っかけてるだけで、つまんない。あと、楓のファン?親衛隊?キャーキャーうるさかった。」だったので、それ以来、楓は私にバスケットの話なんかしなくなってしまった。でも、楓だって、私が好きな本や映画の話に興味がないし、そもそも当時から私に興味があったのかも謎。どうやって付き合い始めたのか、どうやって別れたのかも忘れた。ただ恋人を解消しても、楓は昔と変わらず私に連絡をよこすので、私と楓の関係は、数ヶ月から長くて数年に一度、こうして再会しては、細々と繋ぎ止められる。まあ、主に日本での連絡とか雑用とか、そういったことに私は使われているだけですけど。
「どうせ日本で暮らしてないんだし、荷物全部処分しなよ。」
「オフでこっち帰ってきた時、寝る場所ねーし。」
「ホテル暮らしで十分でしょ!もしくは実家帰れば!?」
「枕変わると熟睡できねー。」
「神経質かよ!」
アンタ、どこでも寝れる奴だったじゃん、と口にしそうになってやめた。楓と会うとき、私は不用意に過去の話を持ち出さないようにしている。二人でいた時の思い出は、ふいにあの頃の空気を呼び込む。そしてそんな雰囲気を纏ったら最後。これまで、何度か楓を受け入れては、致してしまっている。一人になったときにそのことが何の慰めにもならないことを知っているのに。ホント、都合の良い女になっちゃってる感あるよな、私。
「あー、ヤダヤダ!」
頭の中のモヤモヤを払おうと、大きな声を出して荷造りを再開する。多少段ボールの中がいびつで種類分けされていなくたって良かろう。だって、開梱するのは私じゃないし。側面にマジックペンで「雑貨類」と書いて、ガムテープで蓋をして、バンっ、と片手で叩いて、足で段ボールを隅っこに寄せることで作業を一つ終わらせる。
「名前、ガサツすぎ。」
「うるさいっ!!」
***
「ねー、楓。次はこっちの部屋の棚、片付けちゃっていいー?」
「ヨロシク。」
段ボールの空箱を作って、寝室の本棚に手を伸ばした。バスケ関係の雑誌もいくつかあるし、英会話のテキストも並ぶ。並ぶ本のジャンルで、その人が透けて見える。流川楓を作ってきた本棚だな、と思った。少し顔をほころばせつつ、段ボールに詰め込んでいく。
「あ。」
目に留まった一冊の文庫本。芥川龍之介の短編集。これ、私が学生時代に持ってたやつじゃない?楓にあげたんだったっけ。いや、本なんて大して興味がない楓にあげるはずがない。まして楓が私からパクりたくなるような本でも無いしなあ。しかしなんでこれ、本棚に並んでんの。この並び、不自然すぎるでしょ。一番最後のページをめくる。出版社に勤めているせいか奥付を癖で見てしまう。もはや職業病。、、、やっぱり、これ、私が持っていた本だ。
懐かしくてパラパラとめくる。
「オイ、何サボってやがる。」
本から顔を上げると、寝室のドアノブに手をかけて無表情で立っていた。
「これ、私の本じゃない?なんで、楓が持ってんのよ?」
「名前が無理矢理押し付けた。」
「え、そうだっけ?」
「名前が、オレが自分勝手だからって。蜘蛛の糸みたいな生き方はやめろ。よく読め、って。」
「私、そんなこと言った?」
「言った。」
「ぶはっ!若いな、私!文学少女気どりか!」
私は笑いを引きずりながら、ベッドに転がって本を開く。楓がそんな私を見下ろしてつぶやいた。
「荷造り、、、。」
「いいじゃん、こっちはタダで手伝ってあげてるんだから。ちょっと休憩させて。それで?読んだ?蜘蛛の糸。これ小学校の国語の教科書で習ったんだよね、私。」
「読んだ。」
「おっ、偉いじゃん。意外。」
ちらと、楓に視線をやって、また本に戻す。楓は私に聞く。
「本、まだ好きなのか?」
「まだ、、、って、何よ。好きだよ、仕事にしてるくらいだもん。」
「ふうん。」
「まあ、出版社つっても、編集部でなくて宣伝部の方だし、イベント企画の仕事メインだけどね。でも、本は売れないと意味ないでしょ?作る楽しみがあれば、売る楽しみもあるんだよ。だから私は今の仕事、好きだな。」
楓は興味なさそう。何も言わず床に座って、私の中断した作業を代わりにやり始めた。引越業者が来るのは明日の午前中らしいから、この進捗だとまだまだ時間がかかりそう。
「楓 。この芥川の短編集、貰っていくね。」
元々私の本だし。家でゆっくり読み直そうと、楓に向かって本を振りながら言う。
「ダメ。」
「は?だって、これ、私のじゃん。むしろアンタが返す側だからね?」
「もうオレの。」
「いやいやいや。アンタ、こんなの読まないでしょ。しかも日本にいる時間の方が少ないんだしさ、持ってても意味ないじゃん。」
「たまに読む。」
「嘘つけ!」
「ホント。」
楓のどうでもいい負けず嫌いが発動する。いつもこれに付き合う私も大概にして偉いと思う。
「はいはい。じゃあ、本当に読んだの?蜘蛛の糸のあらすじ、言ってみ?」
楓は立ち上がって、私がいるベッドにのし上がってきた。楓はこういう時、いつも無言で何を考えているのかよく分からない。私を跨いで、組み伏せた。マウントを取られることを是としない私が言葉で抵抗する。
「だから、あらすじってば、、、。」
「こんなやつ。」
「は、、、?」
楓は口に含む唾液を、唇の先からだらりと垂らした。一すじ細く光りながら、するすると私の元へ降りてくる。楓は、この糸を引く唾を銀色の蜘蛛の糸とでも言うように、
「のぼってきて。」
と、私を見下ろして淡々と言った。びちょり、と私の固く結んだ唇の端から頰に伝うこの糸の感触と、楓の表現がくだらなすぎて、私は鼻で笑った。楓は蜘蛛の糸を人差し指ですくい、私の口の中に突っ込む。
「舐めて。」
「変態か。」
楓はお釈迦様のように綺麗な顔をして、だけれども利己的で無慈悲な行為で私を惑わす。この糸に縋りついて、どこまでものぼって行けば、私は救われるのでしょうか。、、、アホくさ。
「こんな話だったっけ?」
私はわざと本の話題を口に出して、現実世界を手繰り寄せようとしたが、そちらの糸は楓の言葉によって遮られた。
「名前、早く。のぼってきて。」
「だからどこに。」
「オレんとこ。」
「どうして。」
「名前といたいから。」
いくら私が読書好きでも、楓の台詞の行間を読むのは困難だ。解釈を私に任せるようなやり方は卑怯だと、非難めいた口調で楓にぶつける。
「私、アメリカなんて行かないよ。そういう意味で言ってる?」
「言ってねー。」
「じゃあ何?セックス誘ってんの?」
「お前、溜まってんのか。」
「、、、バカじゃないの。」
ベッドに沈み込んで呆れる私。そんな私に跨っている楓と見つめ合った。
「別に名前には何も期待してねー。バスケの話もしねーし。お前の仕事もどーでもいい。」
「あ、そうですか。」
「でも、オレの隣に名前が居ねーのは嫌だ。」
「楓はアメリカ。私は日本。物理的に無理でしょ。その話。」
「気持ちの問題。」
「はあ、、、?」
「「名前はオレのもの」っていう心地が欲しい。」
楓は私の鎖骨を指差して、そこを唇で強く吸った。
「んっ、ちょ、ちょっと!」
吸血された箇所、きっとそこは血の池のような真っ赤な痕を私に落としたと思われる。楓の真っ黒な柔らかい髪の毛が私の顎下あたりをくすぐる。いつも、こんな場面でしか、私よりずっと背の高い楓の頭のてっぺんを目にする機会はない。楓の髪を嗅ぐ。昔から知ってる。それは格別を思わせ、まるで手元の文庫本が語るように-なんとも云えない好い匂いが、絶え間なく辺りへ溢れて-私を誘う。
「ねぇ、起きる。どいて。」
私は楓を腕で押し退けて、ベッドから起き上がった。楓は私と向かい合わせになるが、黙ってこちらを見たままだから、私はつい気の抜けたような面白くない冗談を言ってしまう。
「楓は欲深いお釈迦様だね。」
「名前が罪深いんだよ。」
「ふふふ、言うよね〜。」
それから私は、垂らされた糸を一生懸命にたぐりよせてのぼりきった。楓に近付いて、口付けた。私からの水分多めのキスは離れた瞬間から、てらてらと銀色の糸を垂らし、二人の唇をわずかに結び付ける。楓に向かって、糸を引く舌を見せ、上目遣いのいたずらな視線を送った。ほら、糸が切れちゃうよ、今度は楓の番だよ。私の挑発に対抗するかのように楓は、にゃろ、と呟いて、舌で糸を絡め取って、さらに私の舌に攻撃的に噛み付く。無愛想で情緒に欠けるくせに、こんなに情熱的なキスをする人を私は知らない。そのコントラストのせいで、キス一つでこんなにも私の感情は高ぶる。のぼせそうになる私をよそに、楓が私の手を取った。そして、掴んだ。重なった二人の手のひらの間に収まる何か。ん?この感触は?楓が離れたのを待って、目を開けて右手の中を確認する。
「これ、、、何?」
私の手に残されたのは銀色の鍵。
「次の家の。」
「ふぅん。」
「それ、お前の。やる。」
「え?、、、え?え?」
戸惑う私とは正反対に、楓は無表情。でも疑問の余地はないとでも言うように、平然と答えた。
「帰る家は一緒の方がいーだろ。」
「楓、、、。」
「名前も引っ越し。」
とはいえ。女はいつだって現実的。
「だ、だって、私、自分のマンションあるし。そんな急に、、、。」
「お前に良い条件の物件にした。」
「は?」
「オレより名前の方が長く生活することになるし。」
まあ、そうかもしれないけれど。正直、嬉しいけど。だからって諸手を挙げて賛成出来ないのは、自分を取り巻くしがらみが後ろ髪を引っ張るから。好きな人の存在だけで生きていけるほどの強い意志も向こう見ずな精神も歳をとる毎にすり減ってきている。ましてや相手は楓だ。言葉が足らなすぎて、私を不安にさせるから、二人の行き場を見失うことの方が多いんだ。だけど。
「めんどくせーこと色々言うより、行動した方が早い。」
楓は嘘はつかない。優しい嘘ですら。そうだ、楓はよくわかんない奴かもしれないけれど、言葉は常に芯を捉えている。手の中に収まる鍵を見つめて私は笑った。
「ちなみに間取りは?」
「2LDK。」
「築年数。」
「築浅5年。」
「場所。」
「お前の会社の近く。最寄り駅あそこの。」
「家賃は?」
「とりあえずオレ持ちで。」
「、、、マジか。」
「まじ。」
断然今より条件が良くて、ここで楓に乗っかるのも悪くないな、と思い直す。やはり女はいつだって打算的。自分も楓もどこか普通でなくて不完全で、利己的で。でもそれもまた面白い、と思えるのもこの関係が熟成された今だからこそかもしれない。
「あはは。」
「何笑ってんだ。」
「なんでだろ?ふふふ!」
「おい、名前。」
「ん?何?」
「逃げんなよ。」
楓はそう言って、私を抱きしめた。私の気持ちをひきつける強い言葉に、幸せを噛みしめるように、私も楓に抱きついた。楓が垂らした糸。のぼりきったと思ったら、その糸で私をなおも縛り、絡め取って、楓から離れられなくしてしまったのだった。しばらく余韻に浸って、ふと現実を思い出す。
「え、ちょっと待って。じゃあ、開梱作業も、もしかして、私やるの?」
「ヨロシクオネガイシマス。」
くらくらと立ちくらみしそうになり、私は楓の胸の中に顔を埋めるのだった。
目の前の荷物をガサツに段ボールに詰め込んでは、積み上げていく。段ボールに視界を遮られている私は、その向こうにいるであろう同じ部屋の男に向かって文句を言った。
「ウルセー。口じゃなくて手を動かせ。」
その男は、流川楓。大学時代の同級生。卒業してもう何年も経つし、楓は大学の途中で渡米していて、こうして会うのも久しぶり。そんな楓が連絡をよこしたと思ったら、これだ。
「アンタ、何も手を付けてないじゃん!」
「だから、名前を呼んだ。」
「あのね!アンタ、稼いでんだから引越し業者に頼めばいいでしょ!」
「オレ、自分のモノ、他人に勝手に触られんの嫌。」
「神経質かよ!」
楓は現在、アメリカのプロバスケットプレイヤーとして活躍している、らしい。らしい、、、というのは、私が何一つバスケットに興味がないので情報に疎いせい。学生時代、楓のバスケットの試合を見に行った時の感想が、「なんかボール追っかけてるだけで、つまんない。あと、楓のファン?親衛隊?キャーキャーうるさかった。」だったので、それ以来、楓は私にバスケットの話なんかしなくなってしまった。でも、楓だって、私が好きな本や映画の話に興味がないし、そもそも当時から私に興味があったのかも謎。どうやって付き合い始めたのか、どうやって別れたのかも忘れた。ただ恋人を解消しても、楓は昔と変わらず私に連絡をよこすので、私と楓の関係は、数ヶ月から長くて数年に一度、こうして再会しては、細々と繋ぎ止められる。まあ、主に日本での連絡とか雑用とか、そういったことに私は使われているだけですけど。
「どうせ日本で暮らしてないんだし、荷物全部処分しなよ。」
「オフでこっち帰ってきた時、寝る場所ねーし。」
「ホテル暮らしで十分でしょ!もしくは実家帰れば!?」
「枕変わると熟睡できねー。」
「神経質かよ!」
アンタ、どこでも寝れる奴だったじゃん、と口にしそうになってやめた。楓と会うとき、私は不用意に過去の話を持ち出さないようにしている。二人でいた時の思い出は、ふいにあの頃の空気を呼び込む。そしてそんな雰囲気を纏ったら最後。これまで、何度か楓を受け入れては、致してしまっている。一人になったときにそのことが何の慰めにもならないことを知っているのに。ホント、都合の良い女になっちゃってる感あるよな、私。
「あー、ヤダヤダ!」
頭の中のモヤモヤを払おうと、大きな声を出して荷造りを再開する。多少段ボールの中がいびつで種類分けされていなくたって良かろう。だって、開梱するのは私じゃないし。側面にマジックペンで「雑貨類」と書いて、ガムテープで蓋をして、バンっ、と片手で叩いて、足で段ボールを隅っこに寄せることで作業を一つ終わらせる。
「名前、ガサツすぎ。」
「うるさいっ!!」
***
「ねー、楓。次はこっちの部屋の棚、片付けちゃっていいー?」
「ヨロシク。」
段ボールの空箱を作って、寝室の本棚に手を伸ばした。バスケ関係の雑誌もいくつかあるし、英会話のテキストも並ぶ。並ぶ本のジャンルで、その人が透けて見える。流川楓を作ってきた本棚だな、と思った。少し顔をほころばせつつ、段ボールに詰め込んでいく。
「あ。」
目に留まった一冊の文庫本。芥川龍之介の短編集。これ、私が学生時代に持ってたやつじゃない?楓にあげたんだったっけ。いや、本なんて大して興味がない楓にあげるはずがない。まして楓が私からパクりたくなるような本でも無いしなあ。しかしなんでこれ、本棚に並んでんの。この並び、不自然すぎるでしょ。一番最後のページをめくる。出版社に勤めているせいか奥付を癖で見てしまう。もはや職業病。、、、やっぱり、これ、私が持っていた本だ。
懐かしくてパラパラとめくる。
「オイ、何サボってやがる。」
本から顔を上げると、寝室のドアノブに手をかけて無表情で立っていた。
「これ、私の本じゃない?なんで、楓が持ってんのよ?」
「名前が無理矢理押し付けた。」
「え、そうだっけ?」
「名前が、オレが自分勝手だからって。蜘蛛の糸みたいな生き方はやめろ。よく読め、って。」
「私、そんなこと言った?」
「言った。」
「ぶはっ!若いな、私!文学少女気どりか!」
私は笑いを引きずりながら、ベッドに転がって本を開く。楓がそんな私を見下ろしてつぶやいた。
「荷造り、、、。」
「いいじゃん、こっちはタダで手伝ってあげてるんだから。ちょっと休憩させて。それで?読んだ?蜘蛛の糸。これ小学校の国語の教科書で習ったんだよね、私。」
「読んだ。」
「おっ、偉いじゃん。意外。」
ちらと、楓に視線をやって、また本に戻す。楓は私に聞く。
「本、まだ好きなのか?」
「まだ、、、って、何よ。好きだよ、仕事にしてるくらいだもん。」
「ふうん。」
「まあ、出版社つっても、編集部でなくて宣伝部の方だし、イベント企画の仕事メインだけどね。でも、本は売れないと意味ないでしょ?作る楽しみがあれば、売る楽しみもあるんだよ。だから私は今の仕事、好きだな。」
楓は興味なさそう。何も言わず床に座って、私の中断した作業を代わりにやり始めた。引越業者が来るのは明日の午前中らしいから、この進捗だとまだまだ時間がかかりそう。
「楓 。この芥川の短編集、貰っていくね。」
元々私の本だし。家でゆっくり読み直そうと、楓に向かって本を振りながら言う。
「ダメ。」
「は?だって、これ、私のじゃん。むしろアンタが返す側だからね?」
「もうオレの。」
「いやいやいや。アンタ、こんなの読まないでしょ。しかも日本にいる時間の方が少ないんだしさ、持ってても意味ないじゃん。」
「たまに読む。」
「嘘つけ!」
「ホント。」
楓のどうでもいい負けず嫌いが発動する。いつもこれに付き合う私も大概にして偉いと思う。
「はいはい。じゃあ、本当に読んだの?蜘蛛の糸のあらすじ、言ってみ?」
楓は立ち上がって、私がいるベッドにのし上がってきた。楓はこういう時、いつも無言で何を考えているのかよく分からない。私を跨いで、組み伏せた。マウントを取られることを是としない私が言葉で抵抗する。
「だから、あらすじってば、、、。」
「こんなやつ。」
「は、、、?」
楓は口に含む唾液を、唇の先からだらりと垂らした。一すじ細く光りながら、するすると私の元へ降りてくる。楓は、この糸を引く唾を銀色の蜘蛛の糸とでも言うように、
「のぼってきて。」
と、私を見下ろして淡々と言った。びちょり、と私の固く結んだ唇の端から頰に伝うこの糸の感触と、楓の表現がくだらなすぎて、私は鼻で笑った。楓は蜘蛛の糸を人差し指ですくい、私の口の中に突っ込む。
「舐めて。」
「変態か。」
楓はお釈迦様のように綺麗な顔をして、だけれども利己的で無慈悲な行為で私を惑わす。この糸に縋りついて、どこまでものぼって行けば、私は救われるのでしょうか。、、、アホくさ。
「こんな話だったっけ?」
私はわざと本の話題を口に出して、現実世界を手繰り寄せようとしたが、そちらの糸は楓の言葉によって遮られた。
「名前、早く。のぼってきて。」
「だからどこに。」
「オレんとこ。」
「どうして。」
「名前といたいから。」
いくら私が読書好きでも、楓の台詞の行間を読むのは困難だ。解釈を私に任せるようなやり方は卑怯だと、非難めいた口調で楓にぶつける。
「私、アメリカなんて行かないよ。そういう意味で言ってる?」
「言ってねー。」
「じゃあ何?セックス誘ってんの?」
「お前、溜まってんのか。」
「、、、バカじゃないの。」
ベッドに沈み込んで呆れる私。そんな私に跨っている楓と見つめ合った。
「別に名前には何も期待してねー。バスケの話もしねーし。お前の仕事もどーでもいい。」
「あ、そうですか。」
「でも、オレの隣に名前が居ねーのは嫌だ。」
「楓はアメリカ。私は日本。物理的に無理でしょ。その話。」
「気持ちの問題。」
「はあ、、、?」
「「名前はオレのもの」っていう心地が欲しい。」
楓は私の鎖骨を指差して、そこを唇で強く吸った。
「んっ、ちょ、ちょっと!」
吸血された箇所、きっとそこは血の池のような真っ赤な痕を私に落としたと思われる。楓の真っ黒な柔らかい髪の毛が私の顎下あたりをくすぐる。いつも、こんな場面でしか、私よりずっと背の高い楓の頭のてっぺんを目にする機会はない。楓の髪を嗅ぐ。昔から知ってる。それは格別を思わせ、まるで手元の文庫本が語るように-なんとも云えない好い匂いが、絶え間なく辺りへ溢れて-私を誘う。
「ねぇ、起きる。どいて。」
私は楓を腕で押し退けて、ベッドから起き上がった。楓は私と向かい合わせになるが、黙ってこちらを見たままだから、私はつい気の抜けたような面白くない冗談を言ってしまう。
「楓は欲深いお釈迦様だね。」
「名前が罪深いんだよ。」
「ふふふ、言うよね〜。」
それから私は、垂らされた糸を一生懸命にたぐりよせてのぼりきった。楓に近付いて、口付けた。私からの水分多めのキスは離れた瞬間から、てらてらと銀色の糸を垂らし、二人の唇をわずかに結び付ける。楓に向かって、糸を引く舌を見せ、上目遣いのいたずらな視線を送った。ほら、糸が切れちゃうよ、今度は楓の番だよ。私の挑発に対抗するかのように楓は、にゃろ、と呟いて、舌で糸を絡め取って、さらに私の舌に攻撃的に噛み付く。無愛想で情緒に欠けるくせに、こんなに情熱的なキスをする人を私は知らない。そのコントラストのせいで、キス一つでこんなにも私の感情は高ぶる。のぼせそうになる私をよそに、楓が私の手を取った。そして、掴んだ。重なった二人の手のひらの間に収まる何か。ん?この感触は?楓が離れたのを待って、目を開けて右手の中を確認する。
「これ、、、何?」
私の手に残されたのは銀色の鍵。
「次の家の。」
「ふぅん。」
「それ、お前の。やる。」
「え?、、、え?え?」
戸惑う私とは正反対に、楓は無表情。でも疑問の余地はないとでも言うように、平然と答えた。
「帰る家は一緒の方がいーだろ。」
「楓、、、。」
「名前も引っ越し。」
とはいえ。女はいつだって現実的。
「だ、だって、私、自分のマンションあるし。そんな急に、、、。」
「お前に良い条件の物件にした。」
「は?」
「オレより名前の方が長く生活することになるし。」
まあ、そうかもしれないけれど。正直、嬉しいけど。だからって諸手を挙げて賛成出来ないのは、自分を取り巻くしがらみが後ろ髪を引っ張るから。好きな人の存在だけで生きていけるほどの強い意志も向こう見ずな精神も歳をとる毎にすり減ってきている。ましてや相手は楓だ。言葉が足らなすぎて、私を不安にさせるから、二人の行き場を見失うことの方が多いんだ。だけど。
「めんどくせーこと色々言うより、行動した方が早い。」
楓は嘘はつかない。優しい嘘ですら。そうだ、楓はよくわかんない奴かもしれないけれど、言葉は常に芯を捉えている。手の中に収まる鍵を見つめて私は笑った。
「ちなみに間取りは?」
「2LDK。」
「築年数。」
「築浅5年。」
「場所。」
「お前の会社の近く。最寄り駅あそこの。」
「家賃は?」
「とりあえずオレ持ちで。」
「、、、マジか。」
「まじ。」
断然今より条件が良くて、ここで楓に乗っかるのも悪くないな、と思い直す。やはり女はいつだって打算的。自分も楓もどこか普通でなくて不完全で、利己的で。でもそれもまた面白い、と思えるのもこの関係が熟成された今だからこそかもしれない。
「あはは。」
「何笑ってんだ。」
「なんでだろ?ふふふ!」
「おい、名前。」
「ん?何?」
「逃げんなよ。」
楓はそう言って、私を抱きしめた。私の気持ちをひきつける強い言葉に、幸せを噛みしめるように、私も楓に抱きついた。楓が垂らした糸。のぼりきったと思ったら、その糸で私をなおも縛り、絡め取って、楓から離れられなくしてしまったのだった。しばらく余韻に浸って、ふと現実を思い出す。
「え、ちょっと待って。じゃあ、開梱作業も、もしかして、私やるの?」
「ヨロシクオネガイシマス。」
くらくらと立ちくらみしそうになり、私は楓の胸の中に顔を埋めるのだった。
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