2026年6月企画SS
「理仁」
歩道を歩いていると、背後から声がかかった。理仁は振り返る。品のいい車が、道の端に停まっていた。
「父さん」
後部座席の窓からのぞいた顔に、理仁は顔をほころばせた。わかっていた。こんなふうに、親しげに自分の名を呼ぶ人は父ひとりしかいない。父が手を振って、ほほ笑んでいた。
そっと駆け寄れば、父は窓から身を乗り出す。
「どうしたの?」
「近くまで来たからね。ちょっと出られないか?」
父の言葉に、理仁は目を瞬かせる。それから、
「うん!」
と顔を輝かせた。急ぎ開いたドアから、車に乗り込む。
走り出した車内で、理仁はカバンを抱いていた。
「ありがとう、忙しいのに」
「何言ってるんだ」
理仁の言葉に、父が笑った。目元のしわがくっと深くなる。
「少しでも、お前と過ごしたくてな」
父の声はしみじみとしていた。
「今年も誕生日に、帰ってこれそうもないから」
父は悲しげに眉を下げた。
「ごめんな」
やわらかく落ちた言葉に、理仁は笑う。
「何言ってるんだよ、父さん」
父と目が合う。
「いつもありがとう。お仕事、お疲れ様」
にこっと笑うと、父はそっと、理仁に手を伸ばした。
「ありがとう」
理仁の頭に手を置いて、笑う。理仁の前髪が揺れ、額の傷がかすかに光っていた。
◇
「わー!」
父が連れてきてくれたティーラウンジで、理仁は感嘆の声を上げた。紫陽花の花模様のレアチーズケーキは、光をうけてきらきらと輝いていた。
「綺麗だね」
「ああ。少し早いけど」
向かいで理仁を見ていた父が、やわらかに目を細める。
「お誕生日おめでとう」
「――ありがとう!」
理仁の頬が、ぱっと明るくなる。うながされ、フォークを手に取った。
「おいしい」
「よかった」
ほっと笑う父の前には、コーヒーだけがある。
父はいつも自分の小遣いから、理仁を労ってくれた。飲み物もくれようとするが、理仁はせめて一緒に時を過ごしたかった。
「ありがとう」
大切なケーキを、理仁がゆっくりと味わっていると、父が切り出した。目を上げれば、父はあたたかく笑んでいた。
「今年も綺麗な絵手紙をくれて」
うれしげな父の目に、さ、と光が差しこむ。理仁は、ケーキを見つめる。唇には、はにかみとも自嘲ともつかない笑みが漏れた。
「いつも同じだけど……」
ぎゅっとフォークを握りしめた。そして、ぱっと顔をあげた。
「来年は、きっともっと素敵な絵手紙を送るよ!」
理仁の言葉に、父は目を見開く。そうして、頷いた。深い頷きだった。
「そうだな。ありがとう」
理仁は、この笑顔に一番の安堵を覚えた。
「父さん、本当にありがとう」
迷ったすえの決断だったけど、選んでよかったと思える。
受験勉強を頑張って、絶対に全寮制の男子校に合格する。そして、きっと、あたらしい世界へ行くんだ。
決意をあらたに、フォークをケーキに沈める。ひとくち含むと、甘酸っぱい味が、さわやかにほどけた。
「ぼくきっと頑張って、父さんにたくさん恩返しするから」
「理仁」
「待っててね」
理仁は晴れやかに笑った。
夏の白い光が、外を照らしていた。
《完》