断片SS集
「
朝。
「そうだなあ、お肉かな」
「わかりましたっ! はやく帰ってきてくださいね」
黎が唇を寄せてきたので、はし、と顔を押さえる。黎は唇を尖らせた。
「接吻くらい、いいじゃないですか」
「だめ。そなたが大人になるまで、唇にはしない」
額に口づけて、景はさっさと靴を履いた。
「じゃあ、行ってくるから。好きに過ごしてなさい」
扉を開けると、のらくらと歩き出す。
「もう!」
と憤る声を背に受けながら、景は肩をすくめた。
まったく子供のくせに、いや子供だからか……気が早いのだから。
というか何故、いつも私の家にいるのだろう。鍵を渡した覚えもないのだが、いつの間にやら家に住んで、自分の帰りを待っているようになった。
まあ、よいか。
とられて困るものなど、うちにはないし、あの子がとるとも思えない。唯一、あの子がほしがるものは、私がしっかりしてさえいれば、どうにもならないのだから。
千年も遊び人をすると、たいていがどうでもよくなるのだなあ。
景は鼻歌を歌いながら、仕事に向かった。
「景様、お疲れさまです」
かわいい鬼の娘が、景にコーヒーを差し出した。
「ありがとう」
景が微笑めば、顔を真っ赤にしてはにかんだ。
可愛い、なんて庇護欲をそそるのだろう。
自分の存在に喜んでいるとわかると、なんでもしてあげたくなってしまう。景が機嫌よく、娘を見つめていると、上役である兄が、遠くからやってきた。
景と同様、現代らしくスーツを着こなしているが、頭からは角が生えている。
「景、今日は早いな」
「兄上。やる気が出ぬものですから」
「まったくお前は……まあいい。今夜家に、食事にこないか」
「ええっ。いくら私でも、新婚の家に行くほど野暮じゃありませんよ」
「そう言うな。妻がぜひに、お前を呼んで欲しいと泣いているんだ。最近料理に凝っていてな」
ああ。
景は得心がいった。兄は悲しいくらい飯をまずそうに食らうのだ。要するに、不安なのだろう。
「そういうことなら、ご相伴に預かりましょう」
「よしきた」
兄は嬉しげに、顔を輝かせた。
そんなに喜ぶくらいなら、美味そうに食べる練習でもしたらいいのに……景は生ぬるい目で、兄を見ていた。
◇
「景さん、お口に合いますか?」
「合うどころではありませんよ。極上です、特にこの漬けが……」
「うれしい! 特に自信作なんです」
兄の妻が、頬をそめて笑った。お手製の、色とりどりのちらし寿司に、景は舌鼓を打つ。
「おかわりをどうぞ。お酒も、持ってきますね」
「ありがとう。いや、本当に美味しい。兄が憎らしいですよ」
「もう、景さんったら」
兄が恐ろしい顔で、景をにらんでいた。おそらく、ばつの悪さと嫉妬であろう。景はにこやかに知らぬふりをして、飯を食らっていた。悋気くらいに慄いていては、遊び人はつとまらない。
まあこれくらいは、新婚家庭のいい具材になるだろう。
景は、兄にわざとらしく目配せをして、彼の妻に酒をついでもらった。
◇
気分良く過ごしたところで、家人が「奥様」と兄の妻を呼んだ。
「どうしたの」
「お客様です」
「まあ、どなたかしら」
「けしからん、俺が出るからおまえはそこにいろ」
兄が彼の妻を制し、出て行った。
なんだろう。景はふわふわする頭で、その背を見送った。しかし、戻ってきた兄を見て、固まった。
「景。お迎えだぞ」
兄の後ろに、黎が立っていた。
しまった。忘れてた。
『はやく帰ってきてくださいね』
今朝の、黎の甘い声がよみがえる。景は、一気に酔いから醒めた。
「景様、帰りましょう」
花の顔に石の笑顔を浮かべ、黎が言った。
「あはは……」
笑いながら、景の頬には冷や汗が伝っていた。
「まあ、早く帰ってやれ」
兄が笑って、景を促した。いい気味という顔でいるので、流石に当身を食らわされた気持ちになった。
◇
黎の後について、景は家路を歩いた。
「あのう、黎」
「なんですか」
黎の声は高く明るい。しかし、塗り壁みたいに冷たく硬かった。ずっとこちらを向かず、すたすた歩いているので、さすがに弱ってしまう。
「……あ」
家につき、居間に入れば、テーブルにすき焼きの用意があった。黎はそれを見ながら、ぽつりと言う。
「魚の気分なんて、聞いてませんでした」
冷たい声音だった。
しかし、その背があまりにさみしげで、景は胸がつんと痛くなった。
「黎、すまなかった。そなたの気持ちを無碍にしてしまったな」
「景様」
「本当にすまない。今から食べてもよいか」
「お腹いっぱいでしょう」
「いや、空いている。例えいっぱいであっても食べたい」
そっと黎を抱き寄せる。拒絶されず、景は安堵した。黎は、しばし押し黙っていた。しかし、やにわに振り返って、どんと抱きつき返してきた。ぐりぐりと頬をすり寄せる。
「仕方ないですね。でも、その前に慰めてください」
「もちろんだ」
額にそっと口づけてやる。
「こんなときでも」
黎は、唇をとがらせる。景はふ、と笑う。
「こんな時だからこそ、そうするのだ」
頭を優しく撫でてあげる。黎は身をすり寄せて、ぎりぎりと抱きついてきた。景の肉を裂き、骨を折らんばかりの力だった。背骨が反って、きしんだ。私が鬼じゃなきゃ死んでいるな……景は天を仰いだ。
「景様……」
黎は、甘えるように、頭をすり寄せてくる。黎としては求愛行動なのだ。
ならば、仕方ない。好きにさせてやろう。伸びた爪が刺さるくらい、良いではないか。
「景様、好きです。本当に好きです。愛しています」
「うん。わかっている」
「わかってません。あなたは私の妻なんです。よそみは、死んだって許しません」
「うん、わかってるよ」
「離しません。地獄の釜があなたをどろどろに煮ようが、きっと引きずり出して、抱いてさしあげます」
「そうか。それは嬉しいなあ……」
「ふふ」
その前にそなたに殺されそうだが。
まあいい。私がしっかりしていれば、とられるものはひとつだけ。まあ、このスーツはもう駄目だろうが。血が滴る。景は、黎の頭を撫で、好きにさせてあげていた。
◇
「景様、おいしいですか」
「うん、美味しい」
手当をすませ、すき焼きを頂いていたら、奉行をしていた黎が、じっと景を見つめてきた。
「あの人よりも?」
古典的な問いに、思わず吹き出しそうになる。どこで覚えてくるのだか、とは思うものの笑ってはいけない。景は肉を飲み込んで、にこりと頷いた。
「うん。やはり、そなたのところに帰りたい」
黎は、頬を朱に染めた。にこりと温度のある笑顔を顔いっぱいに浮かべる。
「寄り道も許しませんからね」
差し出された白い指先の、鋭い爪が生々しい。
本当にとんでもないなあ、この子は。
景は苦笑しながら、皿を差し出したのだった。
《完》
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